「吾が生涯は鉄道を以て始まり、すでに鉄道を以て老いたり、まさに鉄道を以て死すべきのみ」
日本の鉄道敷設に生涯を捧げ、後に「鉄道の父」と呼ばれた男、子爵・井上勝。山口県に生まれた井上は20歳の頃、同郷の伊藤利助(初代内閣総理大臣となる伊藤博文)ら4人と共にイギリスに渡った。後に長州ファイブと呼ばれるこの5人は、近代国家の礎を築くことになる。
イギリスに渡った井上は、一度に多くの人や物を驚くべき早さで運ぶことのできる鉄道を目の当たりにし、日本の近代化になくてはならないものと実感する。木戸孝允(長州藩士・桂小五郎)に呼び戻された井上は、「東西両京間鉄道」の敷設を提言する駐日イギリス公使ハリー・パークスの通訳を務め、「一幹線三支線」の敷設決定後、鉄道寮の一員としてイギリス人建築師長エドモンド・モレルと共に新橋?横浜間の工事に携わる。そして、モレルの死後これを開通させ、関西の支線を日本人だけで完成させた井上は、明治維新後の東の都「東京」と西の都「京都」をつなぐ「両京間幹線」のルートを「中山道」にするか「東海道」にするか、決断を迫られる。