はじめてのゲルハルト・リヒター

#29 2022.07.16 /
#30 2022.07.23

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現代最高峰のアーティスト、ゲルハルト・リヒター。日本の美術館では16年ぶりとなる個展が、東京国立近代美術館で開催された。今年90歳を迎えたリヒターは、60年という長いキャリアの中で、具象表現や抽象表現を行き来しつつ、アートの可能性を探求し続けてきた。

見る者を魅了し、困惑させ、衝撃を与え続けるリヒターの作品を通して、私たちは何を考え、感じていくのだろうか。

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ゲルハルト・リヒター展 ▶ 東京国立近代美術館 2022年6月7日~10月2日
豊田市美術館 2022年10月15日~2023年1月29日

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ゲルハルト・リヒター
1932年ドイツの東部ドレスデン生まれ。14歳で絵画に興味を持ち、最初のデッサンを残す。しかし、リヒターが生まれた東ドイツは、旧ソ連の占領下にあり、芸術の分野でも表現の一元化が、国家により規定されていた。リヒターは、壁画画家として生計を立てていたものの、やがて欧米の新しい芸術が広がっていた西ドイツへと移住、様々なアーティストとの交流を開始する。 同時代のアメリカのポップアートから多大な影響を受け、仲間たちとグループ展を開きながら、膨大な作品を手掛けるようになった。

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今回、アートの冒険に出かけるのは、俳優の小関裕太さん。趣味でフィルムカメラを愛用している小関さんは、世界中の美術館を巡るほどのアート好き。そして、今回リヒターの世界を案内してくださるのは、リヒターご本人と直接連絡をとりながら今回の展示の内容を決めた中心人物である東京国立近代美術館の主任研究員・桝田倫広さん。

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まるで別人のように手を変え品を変え作品を制作するリヒター。小関さんも「違う人の作品みたいですね。いろいろな作家さんの展覧会のように見えます」と声をあげる。展示物を中心にそれぞれの作品の鑑賞を進めていく。

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「はじめてのゲルハルト・リヒター」
 その1 フォト・ペインティング

まずは、小関さんが「写真みたい」と感想を漏らした『モーターボート(第1ヴァージョン)』(1965年)から。

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「これはリヒターが33歳の頃に制作されたものです。写真を正確にトレースした絵画で、この時期に<フォト・ペインティング>というスタイルを確立しました」と桝田さん。この<フォト・ペインティング>とは、雑誌の広告写真や新聞記事、さらに自身で撮影した写真をプロジェクターでキャンバスに投影し、そのイメージを正確にトレースする手法のこと。リヒターは、<フォト・ペインティング>によって、表現しようとしたこととはなんだったのか。

■桝田倫広さん(東京国立近代美術館・主任研究員)
彼の作品を考えるうえで大事なキーワード二つあると思っています。なるべく主観的な要素を排して、それでもなお、芸術表現は可能なのか、そして、人間が見るというのは一体なんなのか、を追求するということ。いろいろな作品がありますけど、その中で共通するテーマであり問題意識だと思います。
作者の主観性を排することで、構図や色といった絵画の様式化を避け、さらに、目に映る世界が不確実で曖昧なものということを表現し続けています。

リヒターが<フォト・ペインティング>のモチーフとして選ぶ写真にはどんな統一性があるのだろうか。2001年「ゲルハルト・リヒターATLAS展」、2005年「ゲルハルト・リヒター展」のキュレーターでもある林寿美さんにお話をうかがった。

■林寿美さん(インディペンデント・キュレーター)

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Q.<フォト・ペインティング>のモチーフとなる写真に統一したテーマはあるのでしょうか?

どうってことない普通の写真なんです。誰でも見たことがあるようなイメージ。逆に言うとメッセージを持っているとか、何か恣意的なものが映し出されているというものは避けているんですね。私たちが旅に行ってそのあたりでパチパチと撮るようなできるだけありふれた写真をそのまま絵画化しています。

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Q.写真と絵画のそれぞれの特徴をリヒターはどう捉えて表現されているのでしょうか?

「目で見る世界というのは現実ではあるんですけど、そこには見ている自分の感情があったり、そのときの体調であったり、それは自分で脚色してしまってるイメージなんです。リヒターにとって写真というのは、そういう感情、主観を排除するために便利な道具だったと思います。何物にも邪魔されない純粋な図像と、絵を描く行為を結びつけながら絵画を作っているのだと思います」

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「はじめてのゲルハルト・リヒター」
 その2 グレイ・ペインティング

続いて小関さんの前に現れた作品は、キャンバスいっぱいグレイ一色で構成された絵画『グレイ』(1973年)。1960年代後半、リヒターは都市の風景を描いて、失敗に終わった絵画をグレイ一色で塗り潰し、そこから表層の質感の違いを発見していく。

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■桝田倫広さん(東京国立近代美術館・主任研究員)
リヒターは1960年代後半から白黒で都市の風景を描いてたんです。でもその都市の風景が徐々に溶解していって、グレイの抽象的なこうした何も表さない絵画に変わっていきました。“無”の絵画なんですけど、“無”であるがゆえに絵画の表面が際立ってくる。グレイの作品をたくさん作ってるんですけれども、一つとして同じ作品はないんです。

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作品ごとに表面の質感が異なる<グレイ・ペインティング>だが、このグレイはどのように作られているのだろうか。『評伝 ゲルハルト・リヒター』の著者であり、ドレスデン美術館内にあるゲルハルト・リヒターアーカイブのディレクターでもあるディートマー・エルガーさんにうかがった。

■ディートマー・エルガーさん(ゲルハルト・リヒターアーカイブ ディレクター)

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グレイは黒と白、それに青や茶色を混ぜて作っています。毎回異なる配合をしているので、細かな違いが出てきます。青を多く配合すると冷たい印象の灰色になります。茶色を多く配合すると、より暖かい印象の灰色になります。興味深いのは「<グレイ・ペインティング>」のグレイのトーンは、若い頃の<フォト・ペインティング>と同じなんです。つまり「<グレイ・ペインティング>」は図像のない<フォト・ペインティング>なのです。

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続いて、ランダムな色彩が並ぶ作品『4900の色彩』(2007年)の前に。鮮やかな<カラーチャート>は一見、先ほどの『グレイ』とは対極に見えるが、その本質は同じだという。

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■桝田倫広さん(東京国立近代美術館・主任研究員)
あらゆる色彩を混ぜ合わせるとグレイになる。でもこれはあらゆる色彩を並べている。本質的には同じことなんです。また、<フォト・ペインティング>と原理は一緒で、世の中に存在しているイメージを忠実に描くという意味では極めて具象的な絵画なんですが、こういうふうに提示されると抽象的に見える。具象のはずなんだけど抽象に見える。具象と抽象の間を行くような作品です。

■林寿美さん(インディペンデント・キュレーター)
やはり、元々リヒターが東側で生まれ育って教育を受けていたというのは大きかったと思います。強い権力が働いてその中で自分たちの生活を作ってるという状況の中にいたわけですから、そういうことに嫌気がさしていた。それに対する反動っていうのは今でも大きいんじゃないかと思っています。

ここで展覧会をいったん離れ、リヒターの絵画をご自宅のリビングに飾っているコレクター・大矢貴博さんのお話をうかがう。

「はじめてのゲルハルト・リヒター」
~世界で最も高額取引される存命の芸術家~

■大矢貴博さん(コレクター)

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2014年にバーゼルのバイエラー財団美術館でリヒターの展覧会を見て、感動して、そこで大ファンになってしまったのがきっかけです。有名な「ベティ」という娘さんの絵を描いてる作品をそこで観れたんですけど、今までいろんな作品を見てきた中で、受けたことがない衝撃でした。

2015年に、どうしたらリヒターが買えるのかと思って、和光さん(ワコウ・ワークス・オブ・アートを運営する和光清さん)と出会って、和光さんのところで、写真にペインティングしてる作品を買わせていただきました。

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2016年に和光さんのところでリヒターの展覧会があって、この作品(『<アブストラクト・ペインティング>(946-4)』の前に立ったときに、また感動してご縁を感じてこれを買わせてくださいってお願いをしたんです。
(部屋に置くと)家具とか合わないな、調和が取れてないと思って、リヒターの作品を通して、いろいろ自分の美意識が高まった気がしますし、この作品は84歳のときの作品なんですけど、84歳でもこれだけの作品が描けるんだという刺激やパワーをいただいた気がします。あとは本当に純粋に1日も飽きないです。いつも幸せを感じますし、初めて見たときの感動がずっとあります。

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リヒターのアートオークション市場での落札価格は上がり続けており、現存するアーティストの中で作品は高額でやりとりされている。

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なぜリヒターの作品の価格は高騰し続けているのか。

■林寿美さん(インディペンデント・キュレーター)
もちろん美術市場では、今現存するアーティストの中で、最も高額な作品を実際描いているということも指針の一つになると思います。なぜそういうふうにそこまで高額になってしまったかというと、リヒターの絵が欲しいという人が増えているからなんですね。ただ、リヒターが世界最高峰のアーティストだといわれる理由を考えると、20世紀の後半以降、私たちが持っている視覚情報ってすごく変わってきていて、写真が出てきて、映画が生まれ、今はデジタルの世界になり、そういう新しいビジュアルイメージが出てくるなかで、リヒターはその先を、未来を見て、これからたぶん20年後、50年後、100年後に普通になるであろうビジュアルイメージを作り出せる稀有なアーティストなんですね。だから、世界最高峰の画家と言われるのではないかと思っています。

「はじめてのゲルハルト・リヒター」
 その3 アブストラクト・ペインティング

これまで<フォト・ペインティング>、<グレイ・ペインティング>、<カラーチャート>と、具象と抽象の狭間を行き来するリヒターの絵画を鑑賞してきたが、次に見るのはリヒターが最も多く描いている抽象画のシリーズ<アブストラクト・ペインティング>。

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<アブストラクト・ペインティング>は、スキージと呼ばれるヘラを使用し、重ねた絵の具を引きずり、削り取ることで画面を作り出す。

■桝田倫広さん(東京国立近代美術館・主任研究員)
<アブストラクト・ペインティング>は時々「自然」という言葉で語ることがあるんです。イメージを作者が創造するのではなく、イメージを生成する、という言葉を使うんです。その場に作者とは関係なしに、絵が存在していたかのように作るということをやろうとしてるんです。なので「自然」という言葉を使うんです。人間とは関係なしにそこにイメージっていうのが現われるにはどうしたらいいのか、と。

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「これ僕好きかもしれないです」と小関さんが声を弾ませたのは『3月』(1994年)という作品。「デニムっぽい(笑)」と素直な感性で作品への印象を話す。「抽象的なイメージにも関わらず、何かに見えてしまうというのは非常に面白いところですよね。人間の性(さが)というか」と桝田さん。それぞれの作品が触発する世界はまだまだ広がる。

次に、会場の中央に移動すると、そこには8枚のガラス。作品名も『8枚のガラス』(2012年)。リヒターは1960年代後半からガラスそのものを作品として発表してきた。

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■桝田倫広さん(東京国立近代美術館・主任研究員)
物事の見方というのは一つじゃないっていうことは、このガラスの作品を見ればすぐにわかると思います。なぜならばハーフミラーのガラスなので、私たちの焦点をどこに合わせるかによって、ものの見え方が全く変わるわけです。

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ガラスそのものを見ようと思ってこの縁を見れば、このガラスそのものが見えてきますけど、このガラスに映り込む面を見ようと思ったら、この周囲の景色が見えるし、でもそうじゃなくてガラスの先を見通そうと思ったら、その隣のガラスが見えてくる…。

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おそらくこのガラスというのは僕らの網膜の比喩だと思うんです。網膜にはあらゆるものが映りこみ得るけれども、何に焦点を合わせて何を認識するかというのは、人それぞれ違う。その人間の物を見て認識するというメカニズム、プロセスそのものが、こうしたガラスのインスタレーションによって表されているということなんだと思います。

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ちなみに、リヒターは2014年に制作したガラス作品を瀬戸内海、豊島に展示している。14枚のガラスが並んだ作品『豊島のための14枚のガラス(無用に捧ぐ)』。

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■國田博史さん(特定非営利活動法人・ピースウィンズ・ジャパン 国内事業部長)
私たちがこの瀬戸内海で観光や地域振興の活動をしていく中で、この豊島も一つの拠点だったわけですけれども、アートが地域の価値を高める大きな核になるんじゃないかと考えました。素晴らしいアート作品が存在するということが、そこに一度行ってみたいという人の気持ちを惹きつける、そういうものになればこの島、あるいは地域の価値が高まるんじゃないかなと思ったわけです。

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作品制作のオファーを承諾したリヒターは、実際に豊島を訪れ、自然の残る島の姿に感銘を受け、ガラスの立体作品シリーズの最後となるこちらの作品を制作した。

■林寿美さん(インディペンデント・キュレーター)
ガラスそのものを見るのではなくてガラスに映り込む何か、ここでは瀬戸内海の景色が見えるんですけれども、その瀬戸内海の景色とガラスに映るその周囲の世界、あるいは海自体も映ってきて、実際の実像と虚像が入り乱れてそこに現れてくるというものを見るというのが、あの場では良い体験なんじゃないかと思います。

「豊島のための14枚のガラス(無用に捧ぐ)」▶ 2022年9月3日~25日までの土・日・祝日限定で一般公開

「はじめてのゲルハルト・リヒター」
 その4 ビルケナウ

次に小関さんが観賞するのは、今回の展覧会で最も注目されている作品『ビルケナウ』(2014年)。

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『ビルケナウ』は、リヒターが82歳のときに完成した連作。オリジナルの絵画4点と正対する位置に4分割されたデジタル写真。さらに観客が映り込む巨大なグレーの鏡が配置され、絵画の傍らには4点の写真が掲示されている。この4点の写真は、ナチスドイツ時代にユダヤ人の大量殺戮を目的に建設されたアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所でガス室と火葬場の運営を任されたユダヤ人の囚人によって組織されたゾンダーコマンドが命をかけて密かに撮影されたもの。リヒターはこれらの写真を<フォト・ペインティング>の手法でキャンバスに描いてから、<アブストラクト・ペインティング>の手法で絵の具を何層にも重ねて作品を作り上げた。

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「ショッキングな写真ですね」と小関さん。「彼はこうしたドイツの負の歴史というか、ホロコーストの歴史っていうものを、60年代から何度か描こうと試みていたんですね。ところがそれがなかなかうまくいかなくて何回か断念してきました。それが2014年。彼が82歳のときにようやくこういった絵画にすることによって自分がそれまでずっと取り組まなきゃいけないというふうに考えてきた長年のタスクがようやく果たされたと、述べている作品です」

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アウシュヴィッツ強制収容所での凄惨な出来事はほとんどの記録が消去されているため、その中で何が起こったのかを伝える資料は少なく、ホロコーストを描き出すことは可能なのか、とドイツ国内では長年議論になっていたという。

■桝田倫広さん(東京国立近代美術館・主任研究員)
アンネ・フランクの日記が戦後ドイツですごく流行るんですよ。だけれども、それはそれでホロコースト記憶をみんなが共有して知るって意味ではいいんだけれども、ある1人の女性がそこで象徴化されてしまう。そのことによって数多いるホロコースト犠牲者とその存在がちょっと後景に退いてしまう。そうした問題があったりして、いろいろな議論が長年なされていたんです。そうしたたぶん議論の中で、絵画という表現において、ホロコーストの出来事だったり、記憶というものをどのように描き出すことができるのか、というところで試みたのがこの作品になっています。

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こうした歴史を重ねた作品を前にしばし圧倒された小関さん。「この絵が鏡みたいに見えて、自分と重ね合わせて見る人もいるんだろうなと思います」と静かに語った。

■桝田倫広さん(東京国立近代美術館・主任研究員)
ドイツの歴史、あるいはドイツの社会とリヒターはずっと向き合い続けてきた作家だったんです。なのでたぶん自分の最後のキャリアの集大成として、それに取り組まなければいけないっていうところがこの作品を作ることを駆り立てた大きな理由の一つだと思います。

「はじめてのゲルハルト・リヒター」
~リヒターの現在と彼の思い~

リヒターは今回の日本の展覧会についてどんなことを思っているのか、ゲルハルト・リヒターアーカイブのディレクター、ディートマー・エルガーさんにお聞きした。

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■ディートマー・エルガー(ゲルハルト・リヒターアーカイブ ディレクター)
毎週のように会っていますが、彼はとても喜んでいますよ。展覧会について私によく話してくれました。どのような展覧会にするかよく考えていて、会場のモデルつくりも積極的に取り組んでいました。どのように作品を見せるか、展覧会にとても興味を持っていました。

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そして、インディペンデント・キュレーターの林寿美さんは、リヒターに関する新しい書籍を発表される。どのような1冊になるのだろうか。

『ゲルハルト・リヒター 絵画の未来へ』

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■林寿美さん(インディペンデント・キュレーター)
なぜ彼が具象・抽象を同時進行で描いてきたのか、一見不思議に思えるんですけれども、ただそれを比較しながら読み解いていこうとすると、いろいろなものが引き出されてくるっていう感じがします。今、私も同時代に生きているので、その自分が日々体験している視覚体験とリヒターが差し出しているものをすり合わせながら読み解いていくことができるというのはとても面白い体験だなと思います。

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最後に展覧会をじっくり味わった小関さん。その思いを丁寧に言葉にした。
「すごく面白かったです。もちろん歴史のちょっと心をえぐられるような部分に触れる機会もあったり、いろんな感情になりましたけど、何よりリヒターの捉え方だったり、考え方、視点というのがすごく面白いなって感じました。最終的には自分と向かい合わせられる、自分自身を考えさせられるんじゃないかなって思ったので、一つの作品から楽しむのもそうですけど、この空間全体を通して出会った自分自身の価値感みたいなものが、この展覧会の面白さだなと思いました。

世界最高峰と呼ばれるアーティストの深淵に触れることができる貴重な時間となった。

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出演者

小関裕太