ちあき
50代 男
新宿のDISCOでは邦楽もよくかかってました。この曲は「NEWYOROK・NEWYOROK」では大ヒットしてましたが、他のお店でかかった記憶はありません。歌詞の内容はかなりエロティック♪昔はゴルーデンタイムにこんな曲歌っていたんですね!
「DISCO TV」と「RADIO DISCO」では「あなたの思い出のDISCOソング」を募集します。
お好きな曲と、その曲の思い出エピソードを添えて、どしどしお送りください!
採用された投稿を番組オフィシャルHPでご紹介させていただきます。
皆さんの思い出とディスコの名曲と思い出で溢れた素敵な辞典を作りあげましょう!
たくさんのご応募お待ちしております!
新宿のDISCOでは邦楽もよくかかってました。この曲は「NEWYOROK・NEWYOROK」では大ヒットしてましたが、他のお店でかかった記憶はありません。歌詞の内容はかなりエロティック♪昔はゴルーデンタイムにこんな曲歌っていたんですね!
1979/6/2ビルボードR&BチャートNo.1。7/21ビルボードHOT100最高13位。フィラデルフィアサウンドを代表するダンサブルナンバー。二人はEPSILONSで活躍後。PIL(フィラデルフィア・インターナショナル)と契約し、ソングライターコンビとして、O’JAYSの「BACK STABBERS」、HAROLD MELVIN&BLUE NOTES「WAKE UP EVERYBODY」をはじめフィリーソウルの名曲を残した。この曲は軽快なリズムと熱い歌声が印象的。今でもダンスクラシックとして人気が高くサンプリングやカバーなどで使用されることも。
DJ OSSHYさん監修のディスコ・コンピレーションCD、''Let's Groove -Super Disco Hits-''のDisc-1のトラック11曲目に入っていて、非常に気に入りました。イントロのストリングス・パートが、私のテーマ曲として結構好きになりました。1stイントロから2ndイントロのフレーズが一番好きで、聴き入ってしまいました。それから私のテーマ曲として、沢山CDで聴いています。この曲がこの番組でDJ Mix Timeの収録曲の中に入れていただけるように祈っております。ディスコは文化!!!!、大好きだぜ!!、ディスコ!!!!。
スティービー・ワンダーの最高傑作アルバムといわれる『キー・オブ・ライフ』(76年)から、「回想(77/1/22No.1)」、「愛するデューク(77/5/21No.1)」「アズ(永遠の誓い)(78/1/21 36位)」と並んでシングル・ヒットした作品。77/10/8ビルボードHOT100 32位、12/11ダンス・チャート2位、9/17UKシングルチャート29位を記録。スティービーはこのアルバムでグラミー賞「アルバム・オブ・ザ・イヤー」ほか4冠を獲得した。この曲はワンダー・レパートリーの中では、フロア度数が高い楽曲で、ハウス系を中心にカバー・バージョンも多数存在している。
中学時代にバンド活動に目覚めた私は、高校に入学してハードロックバンドでドラムを叩いておりましたが、本当に好きな音楽でないと確信してました。そんな中Jeff Beckがきっかけで知ったStevieの音楽はこれこそ自分のど真ん中だと直感。その後ブラコン/AORフリークの道を歩みます。「Key Of Life」は今でも無地レコですね。この曲は今でも続けている我がAOR/DISCOバンドの躍らせ曲のコブラツイストです。
作曲はアリー・ウィリスとジョン・リンドという知る人ぞ知るSSWチーム。アースとエモーションズを合体させたスーパーコラボで世界中で大ヒットした。79/7/14ビルボードHOT100で6位、6/16R&Bチャート2位、7/14ダンスチャート14位。79/6/9UKチャート4位。日本の洋楽シーンにおいて、アース最大のヒット・シングル。当時の日本でもディスコブームを彩る代表的なキラーチューンとなり、この曲のイントロでフロアは満杯となりみんなで踊りまくった。この年の3月には武道館で伝説の初来日公演を行った。
アースウィンドファイアが好きでその一曲でCDも持っていてよく聴いていた。
世界は一家みな兄弟って感じでフロアー全員が一体となってもりあがる最後のほうのキメの曲でした。色気やヤバさはないけれど、これがかかれば健康に昇天できるような気持ちになれました。
当時は「We Need Some Money」の12インチを買って聞き込み、ゴーゴーの魅力にどっぷりはまっていたので、87年のインクスティック芝浦初来日に行って最前列でかぶりつき体験できたのが最高の思い出。ゴーゴーブームが後のレアグルーヴムーブメントを作ったんだと思います。「バスティン・ルース」は「マネー」の後からたどり着いた私の永遠のフェイバリット!
DISCOに行き始めた頃の大ヒット曲♪最初のドラムが耳に入った瞬間踊りに行ってました。?チークタイム直後にかかることが多かった記憶があります。DISCOではシングル版ではなく、ロングバージョンでかけてました。特に5分20秒頃からのAHA~が艶っぽい♪ちなみにブロンディは人の名前ではなく、グループ名。歌っている女子はデボラ・ハリーです。この曲は当時のトリも務めていた?と思います。
とにかく大好きでした。と言っても79年の曲なのに知ったのは82年頃?そして、DJを目指すことにしたとき一番最初に探し始めたレコードでした。ウィナーズで見つけて買いました。
歌舞伎町のディスコによく行きました。当時は高校生。親に少しウソをついて友達の家に行くと言ってオールナイトしたり、学校が終わったら直新宿に向かいマイシティーのトイレで制服からディスコ仕様に着替えたり、何してもウキウキ楽しい年頃でした。この曲はニューヨークニューヨークでよく聞いてました。そんな当時をまず思い出します。
高校生の時、ラジオ関東「アメリカンTOP40」や「ベストヒットUSA」の洋楽少年だった私。はじめて男友達だけで行った新宿のディスコ「ニューヨーク・ニューヨーク」。フリードリンク、フリーフードを楽しみ、謎のカクテル「バイオレットフィズ」とか、少し大人になった気分になれた。ビルボードチャートとは違う「ディスコヒット」がとても楽しかった。六本木ははるかに大人の世界だったので、次には出来たばかり渋谷「ラ・スカーラ」に夕方7時ごろから行くようになった。そんな時、「君の瞳に恋してる」がヒットしてきていて、イントロがかかるだけで、フロアにみんな押し寄せる大人気曲だった。毎日、9時過ぎの中締めでもかかり、11時過ぎの店じまいの最終曲にもなっていた。修学旅行のバスの中で、でかいラジカセでこの曲をカセットで何回もリピートでかけてクラスのテーマ曲になってました。ちなみに最初は、カバー曲だって知らなかったです。あとから、映画「ディアハンター」でロバート・デニーロが鼻歌で歌ってるシーンでおおっと思いましたよ。ボーイズ・タウン・ギャングのは、元気のあるキラキラアレンジの曲で、ブリッジには切ない感じがあり、まさに青春の一曲です!
チェリー・レインは、ジャマイカ出身で一家でイギリスに移住したのち、西ドイツで歌手を目指した異色の女性シンガー。西独でブラック・ディスコ・クイーンとなり、オーストリアでも大ヒット。エロティック&セクシーなミュンヘン・ディスコ・チューン!
当時付き合ってた彼女の踊りがまさにラブキャットそのものだった
ハッスル本多(Satoshi"Hustle"Honda)がプロデュースした世界標準本格派の和製ディスコ傑作!ほかにもラブ・マシーン、イースタン・ギャング(林哲司)、Dr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレス(筒美京平)も手掛けた。作曲は巣瀬哲生(Magic T.Suse)、アレンジは 船山基紀(Motoki"Kei"Funayama)で、日本のスタジオミュージシャン(メンツは不明)で仕上げた。ボーカルは在日ジャマイカ人のミッチー・ブラックマン。ダンスフロアを熱くする必殺ダイナマイトディスコチューン!近年、世界のコレクターが7インチを探している。
番組でOAした曲です。思い出を募集中です。
1965年にモータウンからデビューし、1970年に「War」(邦題:黒い戦争)が1970/8/29ビルボード3週連続No.1となり、グラミーの最優秀男性R&Bヴォーカル・パフォーマンスを受賞した。そんなベテランR&Bシンガーが放ったディスコ曲で、1979/1/13ビルボードDANCE CLUB SONGS1位。3/10R&Bチャート13位。3/17HOT100最高65位。1979/2/17UKチャート最高6位。
おそらく大阪でストリートダンスを踊らせたらディスコクィーン間違いなしのYUMIちゃん^_^(実は、漢字で書く名前あり。)何かリクエストある?と聞いた所返ってきた3曲中の1曲、BPMが、ぐちゃぐちゃでDJさんにとって扱いにくい名曲だと思われます。
フロアにこの曲かかると一気に夜のオトナの色気ムンムンになったことを覚えています。コパカバーナ/バリー・マニロウが太陽とすればコチラは夜の出会い系。間奏のアレンジも見事で、なんだかセンチメンタルな気持ちにさせられました。
高3の時(1983年)、学園祭の打ち上げで、クラスの皆で、ちょっとしたダンスフロアのあった店に行き、この曲の前奏がかかった瞬間に、一斉にフロアに出て踊って盛り上がったことが思い出です。当時、映画は観てませんが、「教官!」「ドジでのろまな亀」のスチュワーデス物語は、面白くてしっかり観てました。当時サントラ盤を貸しレコード店でレンタルしダビングしたカセットテープは、今でも愛車の愛聴盤となっています。
ダンスのコンテストをして審査員を指差しながら踊るあのシーンを真似して 自分のダンスを友達と作って DISCOのフロアーの鏡の前に並んで指差しだながらダンスをしてました。
この曲は、とにかくかっこいい!この曲を聴くたび、自然に身体が、動いてしまいます。心も弾み、嫌なことを吹っ飛んでくれる、とても、有難い曲です。
六本木スクエアビル5階のBuzzで、B1階のJAVA JIVEで。もう店を出ないと終電間に合わないと言うタイミングでこの曲がかかり、帰れなくなり始発コースという夜を何度過ごしたことか。キラーチューンとはまさにこの曲
ディスコでこの曲がかかると盛り上がったな~一番好きな曲でした。皆で歌いながら踊ってたな~また聞いてみたい!!
ボニーM大好きなんです。ボニーM全部入れたい!!
DISCOに通ってた時に、振り付けやら、掛け声もあって、とても楽しかった曲です。
学生時代(1988年)に友人とダンパに行って、しょっぱなにこの曲がかかり印象に残って気に入ってます。今でも車中でよくかけています。気分が高揚するし、なるほどオープニングにふさわしい曲だと思いました。
この曲は聴いていると本当に天国にいるような感じで気持ち良すぎます!声高いですが、歌ってしまいます(笑)
1979/5/26ビルボードHOT100で24位。日本ではCMソングとして人気曲となった。LP『ニューヨーク52番街』収録曲。初のLPチャート1位となり、年間アルバムチャートでも首位を記録した。グラミー賞最優秀アルバム賞と最優秀ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞の二部門を受賞した。 1978年初来日公演が実現、翌年の来日公演では日本武道館2日間と日本で彼の人気が爆発した。 近年のワールドツアーでもこの曲は日本公演だけで演奏するほどの人気曲である。
18歳、1時間の中で15分間のチークタイム、女の子から誘われて踊ったんだけど、みんな見てるのに恥ずかしかった~
ベストヒットUSAで見た映画PVの曲でめちゃくちゃかっこいい黒人4人組の曲でした。フロアでも気持ちよく踊れました。「リライト・マイ・ファイヤ」のダン・ハートマンだったとは少し後で知りました。
まずタイトルが歴代最高に素敵!そしてこの曲はあのNYの憧れだったディスコ STUDIO 54の2枚組レコード『A NIGHT AT STUDIO 54』のA面1曲目。当時としては珍しいしコンピレーション+曲がつながってる!ということで誰のクルマに乗ってもこのカセットテープは常備。NYのキラキラ摩天楼系♪に虜だった自分にとってDAN HARTMANは絶対にINSTANT REPLAY、PEACHES & HERBは絶対にSHAKE YOUR GROOVE THINGなのにSHAKE YOUR GROOVE THING何故かけない?(笑)この曲映画のプリシラでも上手に使われていています。
全世界で限定200枚の発売の『DISCO 54』アルバム1枚原盤持ってます!
初めてDISCOに行ったのは大阪で大学生のころ。音楽はませたガキでしたが夜の街はからっきし。バイト代はたいてDCブランド買ってひっかけ橋で「お声掛けして」潜入したのがたしかZizique。店のカッコよさにも感動したけど、やっぱ音の良さとつなぎのカッコよさにしびれましたね。「お声掛け」した人たちには見向きもせずにDJブースに張り付きました。その頃とりこになったのがSOLARレーベル。この曲を初めて聞いた時は、リズムとブラスのかっこよさに感嘆しすぐ輸入盤屋さんへ走りました。
初めて洋楽を聴くようになったきっかけの曲です。中学の時、女の子達が、この曲で、踊ってました。
話しただけではなかなか伝えられないあの時のことは女の子達3、4人で横に並んで とにかく自分達のダンスを曲に合わせて踊っていたステップダンスも何通りかあった
やはりVocalの「揚げ豆腐!(アゲドーフ)」の掛け声一発!皆で絶叫したの思い出が(笑)有名なシンセのイントロでフロアは一瞬「おー!」と踊りは一時停止。でもその後爆発!”ディスコでもロックは踊れる!盛り上がる!と認識させてくれた熱い一体感のある思い出の一曲でした。
ジャケットの写真でアーティストが着ている霜降りの...RASKA...のシャツ?スウェットがかっこよくてジャケ買い!GRPレーベルだからフュージョン系?と思いきやとんでもなくカッコ良い!!ちなみにこのシャツを求めてアメ横へ…あの頃ファッションの先生はアメ横のセレクトショップ。初めて三浦商会へ行った時の感動は今でも忘れない…当時はポパイに載っていて欲しいと思っても今と違いなかなか手に入らない…とにかくお店に通って自分のサイズがあったら即買い!トレトンのスニーカー、アメリカ製マンシング、IZODラコステのポロ、リーバイス646等々 憧れのアメリカはどれも高かった(´;ω;`)ウゥゥ
クック豊本、ニック岡井(2007年死去)、チャッキー新倉の3人が、1970年に日本初のソウルグループを結成デビュー。この曲は作詞:阿久悠、作編曲:大野克夫によるジャパニーズソウルミュージックである。そして当時の『踊り場』のダンスステップはニックが多数生み出した。
クック・ニック&チャッキーの名曲で今でもソウルバーでかかることがあります。
徹夜ディスコの深夜0時頃、心地よい木琴のコロコロ鳴る音と共に素晴らしいリズム感、めったに曲名を尋ねることは、ないのに、かけておられたDJさんに.この曲のタイトルは、何 即尋ねていました。グループは、gangの一味だったんですね!
初めて新宿のDISCO聴いた時、声でアバの曲というのはわかりましたが、メディアではほぼかからない曲だったので、タイトルはかなり後になって知ることになりました。DJさんはちゃんとタイトルを言っていたはず!「レイ・オール・ユア・・・」って。音楽の大音量でなかなかヒアリングも難しかったです。アルバムから曲を捜して、やっと巡りあえた時は感動でした!アバらしいメロディーでありながら、ビートの効いた踊りやすい曲だと思います。
映画「ロッキー4」で米ソ代理戦争試合”アポロVSドラゴ”の前座でジェームス・ブラウンがド派手に演奏したアメリカ賛歌。あのダン・ハートマンがJBへのリスペクトとカムバックを願って作った曲。これまでの骨太ファンクなJBには無かったエレクトロポップ風味のダンスチューン。そのおかげでJBは10年ぶりの全米ヒット(86/2/15ビルボード・ダンスDチャート3位、3/1HOT100最高4位)で見事にカムバック。86/2/15UKチャート5位。さらにはグラミーベストR&Bソング、R&Bヴォーカルパフォーマンスを受賞した。90年代にはレアグルーヴ・ブームで再評価され晩年までスター街道を突っ走った。
60年70年代からの筋金入りファンは別として、この曲で後追いJBファンになった人は多いんじゃないかな。明るくダンスフロアで能天気に踊ってました。12インチも買いました。空耳アワー「コーフンねーちゃん」にどうしても聞こえてしまう(笑)。後年のダン・ハートマン本人のセルフカバーはいまいちですな。
西ドイツCBSからジャーマンディスコの1曲。メンバーなど一切不明。日本では新宿系に並べられてフロアヒット。途中の女性Vo.の喘ぎ声がスゴイ。。。
中学2年生の時友達にむき出しのレコードを数十枚を渡されカセットテープに録画して聞いているとなんか凄く大人の音楽に出会った気持ちになりもうそれ以来ディスコ 音楽にどっぷり。中でも一番好きな「恋のインフルエンザ」。数年前にやっと手に入れ曲はわかっても曲名がわからず中学時代のカセットテープ何十年もかかりほぼ再現できました。今でも70年80年前半のディスコミュージックしか聴いていません。中学時代から全く日本の音楽を聴いてない為カラオケも全く行く気になれませんがディスコ 音楽があるから良しです!
イントロの(授業開始のチャイムのような音?!)が入って来た瞬間からきた~っって感じで、その後のぶっといベースサウンドで一気に黒くなる。そんなドラマティックなグルーブを学んだ代表的な一曲でした!
毎週末のように通っていた鹿児島マハラジャでよく流れていた曲でもあり、よくリクエストしていた曲です。この曲でお立ち台で踊る時は本当に至福のひとときでした。懐かしい想い出です。
ミュンヘンのピンク・レディーとして売り出された2人組美人姉妹のファーストシングル。アラベスク、ノーランズと並んで新宿のディスコでヒットした。第2弾シングル「カム・トゥ・ザ・パーティ」も人気。
このレコードも私の青春です。手に入れる迄何十年かかった事らやら。今ではモンキーダンス2枚持ってます。
80年第後半だったかと思いますが、この曲がHITして とてもポップな曲だなと思っておりました。何かの雑誌でサマンサフォックスのセクシーグラビアを発見し、外国の方はスゴイなと学生ながらに衝撃をうけたことを思い出します。
81年から82年にかけて日本中のディスコを席巻したB.B. & Q.バンドの最高傑作。グループ名はニューヨークの地名に由来し、The Brooklyn, Bronx & Queens Band(ブルックリン・ブロンクス&クイーンズ・バンド)の略。 イタリア人プロデューサーで、「チェンジ」を送り出したジャックス・フレッド・ぺトラスとマウロ・マラバシによって結成されたグループのファースト・アルバムから、日本のサーファー・ディスコ全盛期のテーマ曲ともいうべき作品。1981 /7/25UKチャート41位、9/12ビルボードダンス・チャート3位、10/3R&Bチャート8位を記録。昨今のブギー・ディスコ現象においても、その源流となった作品のひとつでもある。
フロアーのピカピカの照明フラッシュ、ミラーボール!オンザビートの曲に合わせて踊ってる人が、止まってるように見える??ちょー感激のDISCOミュージック。
サーフィンを始めた1982年の夏、初めて行った伊豆白浜?多々戸浜そこは当時流行のサーファーファッションで溢れた男女、国道沿いではこの曲がガンガン流れており、2つの浜の移動時間が2時間以上かかった思い出に残る曲でした
フィジカルの曲に合わせて、ラジオ体操みたいな振り付けで、みんな踊ってた初めてDISCOにきた人も、すぐ踊れるから、スタジオVOICEではすごい人気がありました。
1981/11/7 ビルボード2週連続No.1。ソウルテイストあふれる、ポップロック名曲。日本のDISCOシーンでも大人気となった。憂いのあるダリルのヴォーカルとバスドラ&ハンドクラッピングが見事にマッチ。
この曲かかると、飲んでても、とりあえずフロアーに行くそして、踊る、手をたたく、プライベートアイズって歌うみんな友達
20代でディスコのDJをしていおります、とっしーです。最近は「Surfer Disco」というミックスCDを作り、300枚ぐらいお客さんに配りました。僕は一番好きなディスコソングは「Hall & Oates/Private Eyes」。この曲は地元徳島などで、7人のDJさんが掛ける程の名曲です。僕も必ず掛けます。リクエストもよくしてました。どの部分が魅力かと言えば、ボーカル、打ち込み、クラップですね。みんなが手を叩くところが最高ですね。ちなみに全部歌えます(笑)
クインシー・ジョンズというと、「愛のコリーダ」がDISCOの定番ですが、同じアルバムに収められたこの曲もまた名曲です♪エイティーズはB面に名曲ありですね。歯切れのいい、これぞサーファーDISCOのサウンド!そして、パティ・オースティンが艶のある歌声を聴かせてくれています。声はパティなのに、クインシーのアルバムに入っているので、当時はどのアルバムを聞けばいいのか?たどり着くまでかなり時間がかかったと思います。
この曲はテレビ、ラジオ等のメディアではほぼ耳にしませんでした。DISCOで初めて聴いた時、あの大音量と煌びやかな照明の中「この曲は凄~い!」と思った記憶が昨日のように蘇ります♪聴けば聴くほどサーファーDISCOには欠かせない、ノリにノレる名曲!曲の構成も豪華絢爛で、ピアノ、ホーンセクション、ストリングスをふんだんに使ってDISCOのフランス料理的な存在です。
83年トレヴァー・ホーンが主宰するZTT Recordsからリリースされたデビュー曲。1983/11/12UKチャート5週連続1位。1985/3/16ビルボードHot100で最高10位。ゲイ・ディスコ的なエキゾティックな雰囲気のサウンドと"Relax"という叫びが特徴的。きわどい歌詞も話題となり、ダンス・シーンを活性化させ大ヒットとなった。形態が7インチ、12インチ、LP、CDを含め、リミックスバージョンが多数出る見本となったコレクター泣かせの1曲。次のシングル「Two Tribes」は当時の冷戦の象徴となるレーガンVSチェルネンコの喧嘩パロディPVが話題となりこれも英米でヒットした。
トレバーホーン好きでした
初めてDISCOで聴いたのは1979年新宿のDISCO「NEWYOROK・NEWYOROK」です。当時、赤シャツDJ 松本みつぐさんがよくかけてくれて、私も好きになってしまった曲です。何度もかけたのは自分がライナーノートを書いているからかも知れないですが。。。ただ、DISCO好きになったきっかけになった曲と言ってもいいくらいで、綺麗なメロディーラインがなんとも切なく、今でも時々DISCOでリクエストしています。この曲を教えてくれたみつぐさんにも感謝しないといけないですが、もう会えないのは本当に残念です。若い人にも是非聴いて欲しい曲だと思います!
フロア側面にあった鏡一面に向かってロボットダンスをはじめたもんです。変体曲でしたがフロアのムードは「やばいダークなムード」に一転する位強烈なインパクトをディスコにもたらした思い出があります。
The Clashの5作目のアルバム「Combat Rock」(1981年) 収録。1982年6月にシングルカットされ、まずディスコで火が付き、1982/8/21ビルボードDANCECLUBSONGSチャート8位。追っかけで秋から冬にかけてHot100もランクインし、1983/1/22ビルボード最高8位となり、バンドで唯一全米シングルチャートのトップ10ヒットとなった。作曲からほとんどの録音まで、ドラマーのトッパー・ヒードンが手掛けた数少ない楽曲でもある。パンクとして、ロックとして、ディスコとして、幅広いジャンルで今も愛され続けるマスターピース。12インチシングルの B面 "Mustapha Dance" もかっこいいので要チェック!
PUNK NEWWAVEと言われたバンドがディスコでもかかる曲を出すとは思いもよらず、衝撃を受けました。
今から10年ほど前、地上波のテレビでディスコ特集を放送していました。ディスコの客 100人ほどにアンケートを取って、一番好きな曲は、September が第1位に選ばれてました。従いまして絶対に外せない1曲です!
親が車で聴いていて、自然に好きになった。
81年のソロデビューアルバム「Never Too Much」から。ベースとドラムが引っ張る日本のディスコ・シーンでは大人気の曲。NYのスタジオシンガーからスタート。「BIONIC BOOGIE」、「CHANGE」などのダンスバンドのフィーチャー・シンガーを経て、このアルバムが大ヒット。のちにプロデューサーとしてもCHERYL LYNNの「INSTANT LOVE」,ARETHA FRANKLINの「JUMP TO IT」なども手がけました。アメリカではタイトルトラック「Never Too Much」が1981/10/24ビルボードR&Bチャート2週連続1位獲得。
Lutherがとにかく大好きでした!Lutherの曲は全部好きだけど、Discoではやっぱりこれだわ。
その後心斎橋にもカフェバーが台頭し、雑誌ADLIBで知ってオープン直後に通い始めた鰻谷の「FAT TUESDAY'S」AOR BARの走りでした。本当によく通いました。そこのマスターに教えていただいて感動し擦り切れるくらい聞いたLutherのNever Too Much。中でも大好きなマーカスのチョッパーが炸裂するこの曲は、昔も今もDISCOで最もかかってほしい曲の1つです。
元デペッシュ・モードのヴィンセント・クラークがアリソン・モエットと結成したYazoo。”ソウル音楽”と”シンセポップ”の融合という新境地に挑戦した佳曲。元々は全英NO.2獲得のデビュー・シングル"ONLY YOU"のB面曲としてUKでリリースされたが、その後USでA面シングル・カットされ、1982/8/21ビルボードDanceClubSongsチャート4週連続No.1となる。イントロに収録されているアリソンの印象深い笑い声は、Derrick May、Snoop Dogg、Roni Sizeほかたくさんのアーティストにサンプリングされ、あらゆるジャンルで生き続けている。1990年、1999年にもリミックスバージョンが再発されている。
高校の時に好きな女の子がよく聴いていた曲です。
イントロのフェードインから始まるタイトなドラミング、カッティングギターの音色、分厚いシンセベースからして、ゾクゾクそそられました今風なら、「ヤバい!!!」でしょうか?EW&Fのアル・マッケイがプロデューサーと聞いてびっくり!!そして、本業がお笑い芸人?と聞いて、更にびっくり!!!(笑)アルバムジャケットは、完全にアーティスティック邦題が「真夏の蜃気楼」とは・・・、"昭和"を感じました。
大学1年の春、六本木の今は無きハンバーガーインの並びにあったTGI FRIDAYSというディスコへ悪友達と出陣。この曲がかかっていた時隣にいた素敵なお姉さまに手を取られ一緒に踊っていたら運よくチークタイム…そのまま夢見心地。オレンジのクリスチーヌっぽいスカートに品の良い白のシャツ、CDのウェッジ…しかし名前だけしか聞けず(´;ω;`)翌日学校へ行き5号館前(ごまえ)にいたら…その女性がいた!2つ先輩の英文科…その先それ以上のことは何もありませんでした。淡い思い出の1曲
新宿の東亜会館全部行ってました。中でもサーファー DISCOB&B GB rabbitがは毎日のように行ってました。フリーフード フリードリンクの時代、オープンしたら速攻入り、食べ物飲み物持って席に座って腹ごしらえしたら、ホール鏡前を皆でとってダンスの振り付けを考えて踊っていました。ソーメニーメンは当時バンプと言って2人で合わせて良く踊っていました。二人で一緒に同じダンスを踊る、向き会って手を合わせたりジャンプをして肩ステップも入れたり肩を打ちつけたり腰をぶつけたりしながら踊る、バンプが流行っていました。
まだ学生でしたが、田舎住みの私が入ったお店でかかっていた曲で頭から離れませんでした。
コミックソングを楽しむノリで好きになったディスコヒッツです。最初に覚えた曲専用の振り付けもこの曲でした!
初めてこの曲を聴いたのは1979年。新宿のDISCO「NEWYOROK・NEWYOROK」です。アースの曲で、セプテンバーでもなく、ブギーワンダーランドでも、宇宙のファンタジーでもない曲。初DISCOでキラキラネオンの照明の中で聴いた時、「アースってこんなイイ曲あったんだー」と思いました。アルバムを買ってタイトルがわかったのは10数年経ってからでした。DISCOでしかかからない曲にもいい曲いっぱいあるんです!
踊りにくいBPMなんだけど、なぜだかこの曲大好きなんです。ベースラインとジョージデュークのピコピコシンセに男前ジェフリーのヴォーカル最高です!TVKの「ファンキートマト」でもよくPVを見たなー。
この曲は、コナミの音楽シュミレーションゲーム、''Dance Dance Revolution''で一世を風靡したナンバーです。当時1975年は、ディスコ誕生から一年たった後で、ドナ・サマーの名曲''Love To Love You Baby (愛の誘惑)''をはじめ、ヴァン・マッコイさんの名曲''ザ・ハッスル''、シルヴァー・コンベンションの''Fly Robin Fly''など、第一次ディスコ・ブームを代表するナンバーが大放出した年と言えるでしょう。因みに、KC & The Sunshine Bandのこの曲は、全米・全英チャート第一位を獲得する大ヒットになった作品です。
アハアハ!新宿も六本木もこれは踊り一緒だった気がして、好きですね。
1986年リリース。薄いエレピにファットなドラムがオールドスクールらしい80年代後半のディスコでは王道となったヒップホップの名曲。
エリック・クラプトン(デレク・アンド・ザ・ドミノス)の代表曲「いとしのレイラ」をサンプリングした、
所謂「飛び道具」「大ネタ」として当時のディスコDJたちのキラー・チューンとなっていた。
メンバーのイスラムは「ラップ+サンプリングの祖」であるアフリカ・バンバータの息子である。
大学4年(1988年)の就職活動の時ですが、某金融機関に訪問しバブルのおかげもあり運よく内定をもらい、その後会社の先輩に誘われ(他社に逃げないように拘束され)銀座で映画を観、ステーキを食べた後に日比谷のラジオシティに連れてってもらいました。入店した時の音楽が、後で「ザ・ビーチ」と知り、黒人系の非常にリズミカルでパンチのあるかっこいい音楽だなと感じました。盛り上がってきた11時頃に、「トゥゲザーフォーエバー」がかかり、先輩と汗だくになって踊りました。先輩から「明日は、朝七時に豊島園に集合だから」と言われ、家でゆっくり休みたいのにと思いましたが、今思えばいい時代だったなとつくづく感じます。
行きつけのSOUL BAR で、突然流れてきて、鳥肌が立ちました。なんてメロディアスでグルーヴィーな曲なのかと・・・当時中古アナログショップでオリジナルアルバム(原版)5.800円で購入した記憶があります
シングルカットされていない曲でも名曲はたくさんあるものです!「Stomp!」は皆さんご存知かと思いますが、同じアルバムのB面に隠されたDISCOならではのヒット曲。ベースラインが超カッコイーですね♪曲の最後の辺りに何気にマイケルがウ~って参加してます。
1984/3/3ビルボード4位。82年12月発売のアルバム「スリラー」より第7弾シングル。ビルボードアルバムチャートでのべ37週No.1を記録し、6500万枚と史上最も売れたアルバムといわれる。前作「オフ・ザ・ウォール」に続き、クインシー・ジョーンズがプロデュース。グラミー賞8部門獲得。ジョン・ランディス監督による14分もの完成度の高い長編ビデオクリップは世界に衝撃を与えMTV全盛の流れをつくった。
洋楽の曲の音楽ビデオを良く先輩の家で観て 完璧に覚えて DISCOのフロアーで皆で踊っていました マイケルの曲は皆で一緒にゾンビのダンスと言って踊りました
ムーンウォークは誰が一番上手く出来るか競っていました
この曲のPVを見たときは本当に衝撃でした。まるで映画のようなクオリティと特殊メイクなどはスゴイの一言だったと思います。
現在までこの作品を超えるものは無いのでは?
もちろん曲の力もありますが。13分くらいある映像も最後までひっぱる力がありました。
ちなみに、ひょうきん族でスリラーのPVをパロディにした
ウガンダさんのマイケルも思い出します。
カナダ産のハイエナジーディスコ。パワフルな女性ヴォーカルだが、プロフィールが不明。この曲だけで消えてしまった。
名古屋中の、ディスコで流行ってました、80sは良かった。
番組でOAした曲です。思い出を募集中です。
私の個人的な意見ですが、当時MTVが開局して見た目が派手なアーティストが増えたなぁと感じておりました。KAJAGOOGOOはそんなアーティストの1つですね。みなさんイケメンで 彼岸花のような独特のヘアスタイルも特徴です。
話は変わりますが、ロンウッドとかロッドスチュワート、かまやつひろしさんとかも彼岸花みたいでしたね。
大学生の時、男友達に初めて連れて行ってもらったディスコ。爆音でかかるミュージックに煌めくミラーボール、フリーフード。そこは、まるで夢の世界、パラダイスでした! サーファーディスコ全盛期にこの曲がかかると、何を置いてもダンスフロアにダッシュしたなぁ~と懐かしく思い出します。常夏の海を思わせるこのナンバーは、踊っているとコパトーンのココナツの香りまで漂ってきそうです。
友だちと沖縄旅行に行った時、国際通りにあったDISCOでかかっていました。
高校生の時、渋谷「ラ・スカーラ」でよく踊った思い出の一曲。日本盤は、トロピカルなカリブ海の島のジャケットだったが、シスコの輸入盤はメンバーの顔ジャケットで断然日本盤の方がよかった。曲名も「ラヴ・アイランド」という原題に全く関係のない「雰囲気モノ邦題」であったが、当時のCBSソニーのディレクターは当たりを付けたと思います。スティーヴィー・ワンダーが作った曲で、レゲエじゃないけどノリもよく踊りやすくてかっこいいダンス曲でした。12インチのロングバージョンもウィナーズで買うほどお気に入りでした。
大学生の時、男友達に初めて連れて行ってもらったディスコ。爆音でかかるミュージックに煌めくミラーボール、フリーフード。そこは、まるで夢の世界、パラダイスでした! サーファーディスコ全盛期にこの曲がかかると、何を置いてもダンスフロアにダッシュしたなぁ~と懐かしく思い出します。常夏の海を思わせるこのナンバーは、踊っているとコパトーンのココナツの香りまで漂ってきそうです。
昭和44年高校3年生の当時はGS全盛期の頃です。今のディスコはゴーゴーホールと呼ばれました。桂花ラーメンが90円の頃金策必須のワンドリンク付きで500円。仲間と毎夜くり出し、ヴィーナスは必ず流れる曲で横須賀マンボのステップで盛り上がりました。勿論補導員に捕まらないようにです。今は無き熊本市ポレールの世界でした。
メラメラと燃え盛る恋の炎!のはずなんだけど。。冒頭のギターでのカットインでフロアが一気に点火!って感じだが、、日本人は恥ずかしがり屋。ココで男女が絡み合うってシーンには至らず、縦乗り総立ちって感じで座っていたお客様も一気にフロアーにでてきたんだけどなぁ。その後の炎上にまでは至らず。
当時、楽しく踊ってました。
こんなコラボが実現するなんて!リックルービンが好きです
NYのゲイカルチャー出身の奇抜な衣装が印象的なグループ。仕掛け人はリッチ―・ファミリーを手掛けたジャック・モラーリ。ヴォーカルは、ビクター・ウィリス。グループ名は、NYのグリニッジビレッジから取られた。彼らのサードアルバム『クルージン』からのシングルで、78/12/9ビルボード・ダンスチャート2位、翌79/2/3HOT100で2位。UKチャート79/1/6から3週連続No.1、欧州各国、オーストラリアでも軒並み1位を獲得した。日本では西城秀樹が「ヤングマン」としてカバーし空前の大ヒットとなった。今でもスポーツイベントには欠かせない曲の一つで、2020年に米議会図書館の永久保存音源となった。
番組でOAした曲です。思い出を募集中です。
イギリス・ロンドン出身。1980年にデビューし、翌年1981年シングル『Kids in America』(キッズ・イン・アメリカ)は、全英で第2位、1982/8/14ビルボード25位、デンマークやアイルランドなど北欧では第1位となり一躍トップスターの座に上った。
その後『You Keep Me Hangin' On』が大ヒットしたが、人気に浮き沈みが出てきた。1988年の6枚目のアルバム『Close』からのこの曲『You Came』(ユー・ケイム)は、1988/7/16全英3位、1988/10/29ビルボードDANCE CLUB SONGS10位となり、セールス的にも世界で100万枚売れ、健在ぶりを示した。
学生時代(1988年)に、たぶん夜のヒットスタジオだったと思いますが、ゲストでキムワイルドが出演し印象に残っている曲で気に入ってます。
リバプールで結成のピート・バーンズのユニット。ストック・エイトキン・ウォーターマンのプロデュースでハイエナジー~ユーロビートの大ヒット作品。ピートの衝撃的なルックスのPVも話題に。1985/3/9UKチャート2週連続No.1、8/17ビルボードHOT100最高11位。日本のダンスフロアでも世代を超えての人気曲。
わすれちゃいけないユーロビートの王道曲として、天井に向けた手をぐるぐると回した記憶在り!リックアストリーと違ったゴリゴリ感満載のハードなイメージでしたので、甘~い恋が芽生えるシチュエーションは醸成されませんでしたが。。。それでも曲のPVの通りで、くるくる回るミラーボールとぴったりな曲という思い出があります。やりすぎて目がまわったし。。
初めての外国人アーティストのコンサートがデッドオアアライブでした。日本武道館。ピートバーンズが、Tバックをはいていて、高校生の私はビックリ????。白くて綺麗な生尻は忘れられません。