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2016年9月13日(火)
石原慎太郎&石井一が天才・田中角栄を語る

ゲスト

石原慎太郎
作家 前衆議院議員
石井一
元民主党副代表
田﨑史郎
時事通信社特別解説委員

石原慎太郎×石井一 田中角栄の『人間力』
秋元キャスター
「石井さん、田中軍団の青年将校とも言われていたということですが、身近に見ていて、田中さんはどんな方だったのでしょうか?」
石井氏
「とにかく強いリーダーシップと、ある意味で、きつい個性を持った人なのですが、誰でも愛するんですよ。汝の敵を愛せよという言葉がありますけれど、僕はおそらく石原慎太郎さん、横におられるから言うのではないが、この方は反田中の急先鋒だったのですが、石原さんにも暖かく接したと思うんです、あの人は。敵視しないんです、人を。だから、あの人に会えば皆、あの人の人間的魅力に惹かれて、田中ファンになっちゃうんですよ。そういう人間的な、人間力、魅力というのを持った人だったと、そう回顧します」
反町キャスター
「角福戦争とか、様々な政治、ないしは政局、敵対関係を踏み越えて、敵を愛するという、そこまで到達していたとすれば、どうやってそうなっていったのか。普通は政敵、あいつは絶対許せないというのがベースにあるではないですか?」
石井氏
「誰だって政治をやっていたら敵を意識します。しかし、あの人は自民党の中では最大の派閥をつくりましたけれども、同時に野党の人々に愛されたですね。表向きは、角栄反対と言って手を振っている人でも、話しに行ったら、そうか親父がそう言うんかと。わかった、わかったと、言うことを聞いてくれるような、そういう変な、それは田﨑さんが知っておられると思いますが、変な魅力を持っているんですね」
反町キャスター
「それはどうですか、田﨑さん。与野党に広がる角栄ファンは、よく噂では聞くんですけれども、本当にそうだったのですか?」
田﨑氏
「当時言われていたのが野党議員の面倒まで見ていた。つまり、ある程度のお金を渡されていたんですよ。議員を辞めたあと、非常に貧乏な暮らしをされる元議員の方もいらっしゃるんですけれども、そういう人達の面倒まで見ているわけです。きちんとそういうところを見ているんですよ。そういうのが間接的に伝わりますから。田中さんというのはすごい人だとなっていくんですね」
石原氏
「僕が青嵐会を作った時に、青嵐会に入る候補者が、青嵐会の事務所に寄ったんですよ。それでこれから公認をもらいに行きますからと。行ってこいと。総裁室は4階だぞと言ったら、いや、田中事務所に行きますと言ったから、けしからん、公認料を事務所が出すとはけしからんじゃないかと、皆が言ったの。行って帰ってきたら、彼は興奮しているんですよ。その時の公認料というのは、価格で2000万円だったのかな、参議院の時に」
反町キャスター
「党から2000万円?」
石原氏
「そう。それで、君の選挙厳しいぞと言って、非常に選挙区の分析を詳しくして、がんばれと言ってね。いや、私、実は田中ではなしに、他に行くつもりですと言ったら、そんなことどうでもいいのだ。君は日本のために必要だと。それでがんばれと。金なんかいつでも困ったら言って来いよと。それで、よし、これは俺の寸志だと言って、公認料の他2000万円をくれた。彼はびっくりした。そうしたら、おい、いつでも金を取りに来い。この次、いつ来ると言われたと。帰って来て、興奮して、そいつが、いや、あの人は偉大ですと言って、結局、現住所はどっか行っちゃった。それは、僕が言うと、その時は反発をしました。額が破格過ぎるし、札束で人のほっぺたを叩いて懐柔するなんてけしからんと思ったぐらいなので。ただ、これは自民党の角さん1人ではなくて、金権の政治、体質というのはずっと続いていて、藤山愛一郎さんが総裁選に出た時も、4人も出た時に、その4人の総裁候補から金を全部取ったやつがいるんですよ。2人取ったやつがニッカと言った。3人取ったやつはサントリーと言われた。4人から取ったやつはオールドパーと言われた。そういう体質がずっと続いていたんですよ。自民党は角さん1人ではないんだよ」
秋元キャスター
「石原さん、かつて青嵐会を立ち上げられて、石井さんもおっしゃっていましたけれども、反田中の急先鋒という立場でいたにもかかわらず、この本も書かれていて、なぜ田中元総理について書こうと思ったのですか?」
石原氏
「私が田中政権に反発をしたのは、もっと他の理由ですね。日中交渉の中で航空協定の時に密約をして、一方的に、日本の権利というのは、全然受け入れられなかったんですよ。非常に、結局、角さんがこんなもの2週間で上げろと言っちゃったために向こうはその言葉を鵜呑みにし、外務省の役人が交渉しても全部受け入れられなかった。それで、しかも、時の外務大臣の大平さんが、要するに、中共に買収された新聞記者が台湾から飛んでくる飛行機の尾翼に付いている青天白日は国旗ですかと聞いた時、あれは国旗ではないと答えてくれと言っている。そういう要求の密前をしていたと。大平さん、それに答えて、要するに台湾の国旗を侮辱したんですよ。結局、日台関係が切れちゃった。それなんか、僕はわかっていて、外務省の役人が、潰れちゃったけれど、ある料亭で高官の人が話を聞いた時にその密前披露してくれて、こんな外交交渉がありますか。彼はその時、涙流して、飯も食わずに慨嘆していましたよ。そういうことがあったものだから、僕は田中政権に反発をしたので、別に彼らと利害関係がありませんけれども、何でそんなバカなことをするのかなと思ってね。そういうことで、要するに、田中政権に反発をしましたけれどね。日中交渉の中での、あの航空協定は、本当は日本が中共の上を飛んでイスラマバードに行けば、ヨーロッパ線というのは数時間稼げたんですけれども、全然、それを歯牙にもかけずに突っぱねられて、引き下がったんです。これは外交交渉として非常に拙劣で。そういうことで反発しました」
反町キャスター
「それが今度、こういう本を出されたというのは、そういう気持ちを超える何かがあったのか、ないしは自身の中で再検証されたのか?」
石原氏
「それは角さんと僕の個人的な接触、人間的な感触の問題で、あの人が失脚した時に、僕に対する対応の仕方が、ある意味で僕との関係なんか歯牙にもかけなくて、何か人間に対する興味みたいなもので、とにかく自分で椅子を引いて、ちょっと座れと言って、座らせて、しかも、バツの悪い人間がその時にいたんだ、玉置和郎というのが。それで僕は、非常に困って、勘弁してくれということを言ったんだけれど、角さんと向き合っているものだから、何でこいつは、誰に向かっているだと言ったのが僕だったの。僕は1人だけ違う通路から行ったんですが。それでダメだ、石原君、ちょっとこっち来い、久しぶりだなと。あんなところに椅子を引いてきて、僕はその時いろいろとご迷惑をかけましたと言ったら、お互い余計なことを言うな。おい、今日はテニスか。テニスはいいんだよな。それでウェイターに、おい、ビールを持ってこいというので、ビールを出して、ちょっと一杯飲めと言うので、僕は座って飲まざるを得なかった。先生、照る日も曇る日もありますから、とにかくまた再起なさってくださいと言ったら、そんなことはわかっているよ、俺は軽井沢に別荘を3つ持っているんだと。テニスコート2つ持っているんだよ。テニスはいいぞ、テニスはと、あっけにとられて。人懐こいというか何というか」
反町キャスター
「この話、石井さん、先ほど言われた誰でも愛するというところですか?」
石井氏
「そうですね。それで現在の台湾に関する日中国交の話ですが、就任して2か月でやっちゃったんですね。その時によく覚えているんですけれども、親父は、毛沢東、周恩来の健在の時にやらなければできないのだと。日本は大変な迷惑をかけているのだと。だから、アメリカは反対するかもわからないし、台湾はあるけれども、向こうは中国だろ。こちらと考えたら、将来こうなるのだから、先見の明を持ってこれを断行する以外に仕方ないのだと言うんだ。あまりにも国際的に見ても、少し早計過ぎるぐらいの決断を日中でやったわけですよ。それが後のロッキード事件につながっているわけ。アメリカの虎の尾を踏んだという、1つはそういう問題につながっているんですけれど」

田中角栄の『真実』
秋元キャスター
「1983年9月、田中さんは、ロッキード裁判の判決を前に地元新潟の支援者に対して演説をしています。田中さんの発言をまとめますと、朝から晩まで裁判の話を聞いているが、私は代議士としての職務がある。政治家としての職務がある。政治家の職務は何か、国づくりをやって、国民生活を向上させて、より良い日本をつくる。これが政治家の使命だと言っているのですが、石井さん、この田中さんにとっての良い日本というのはどういうことだったのでしょうか?」
石井氏
「これはトンネルを抜けるとそこに雪国があったと。その雪国の人が1年のうち半分、出稼ぎに行くか、あるいは雪の下で苦しい生活を強いられると。しかし、三国峠をぶっ壊してというのは、無茶なことを言うんだけれども、現実にそれを実現したわけですよ。それを超越して、東京まで1時間で行ける新幹線を作っちゃったわけでしょう、田中の1番偉いところはそういう大きな発想を出すだけでなく、話になるうちに、その裏づけになる立法、法律をまずつくる。それから、今度それに財源をつけるというところまで考えるわけです。だから、この人の言うことだったら、大風呂敷を広げるのではないなと。要するに、この人がどれだけの立法能力を持っておったか。すごい法律をつくった。その次に財源。これをまた道路をつくる、新幹線をつくると言ってもお金がいるでしょう。言うだけではダメで、お金をどこから引っ張り出してくるかということをつくるわけですよ。揮発油税であるとか、道路財源というものをつくって、自然に車に乗る人から金を取るという、そういう総合力を持っていたからね。実行力のある政治家としての評価になったのだと、私は思うんですね」

田中角栄の『政治力』
反町キャスター
「石原さん、この指摘いかがですか?単に計画を立てるだけではなくて、新幹線にしても、道路にしても、立案して、法律をつくって、財源の手当てまでして、持ってくるという、ここの部分」
石原氏
「それはそうですね。そういう複合的で立体的な発想力を、あの人は持っていたんですよ。彼が東京に出て来て、建設会社をつくって、二十数歳の時にもう彼のつくった田中土建というのは、日本の建設会社の50社に入っていたんですよ。そういう経営能力というのはもともと角さんというのは持っていたんです」
反町キャスター
「田中角栄さんの持っていた政治力。もう1つ言われているのは、官僚、霞が関に対するグリップとよく言われます。田中角栄という政治家の、霞が関に対する、その掌握力、グリップ。根源はノウハウは何だったのですか?」
田﨑氏
「1つは、役人、官僚の世界の秩序、年次とか、あるいはその人とその人の関係は、頭の中に全て入っていたんですね。彼は何年、何省で、どこの大学出身だと。官僚の人達はすごくそれを、年次を気にしますから、そういうことを知っていて、でも、1番、官僚の方が惚れ込んだのは官僚では思いつかない発想力、構想力を持っていたということですよ」
石原氏
「発想力ですよ」
田﨑氏
「官僚の人達がついていくのは、自分達の思いつかないことを思いつく政治家には惚れ込んでいくんですよ。それを田中さんは持っていた。唯一というぐらい持っていた」
反町キャスター
「俗に人事権を行使したとか、お金を使ったとか、そうよく言われますけれども、そうではないと?」
田﨑氏
「それもあるんですよ。お金も渡していたし、人事権も使っていた。でも、それでは心底、人は動きませんよ。本当に惚れ込んで動くのは、自分達がないものを持っているという人に対して、惚れ込んでいくわけですから。田中さんはそれを持っていた」
石原氏
「とにかく役人のために新しいことをつくってやる、そういう発想力というのを角さんは持っていた。役人はIQが高くても感性がないんですよ。役人になる人間というのは。角さんの感性というのは発想力ですから。だから、新しいアイデア、ドンドン出して、つまり、それをちゃんと裏打ちする経営能力もあったし。あの人、法律を何本つくったか。議員立法で」
石井氏
「厳密には35本か40本でしょうけれども、それ以外にも、共同でつくったのもあれば、野党も含めて超党派で出したものもあるけれども、それはやはり若い頃に、ものすごい発想力で、創造しながら、法律をつくる。その時に役人をうまく使わなければいかんのですよ」
反町キャスター
「石井さん、傍で見ていて、田中角栄流の官僚掌握術というのは何だったと思いますか?」
石井氏
「それは先ほどから田﨑さんおっしゃっておるような、まず静かな中に予備知識をきっちりと頭に詰め込む。その次に、東大出でも何でもないのに、財政に対する明るさ。数字に対する強さ。それに狂いのない発言ということになってくると、これは舌を巻くと。優秀な官僚が舌を巻くという、1つの記憶力と想像力と。そういうものも持ち合わせたと。そうかと言って、何でも君達やれ、間違ったら責任を取るという態度を常に示していったために、官僚の方が虜になったわけですよ。それは最後に、総理大臣になっていた田中の秘書官が、あとに事務次官あたりになった人もたくさんいますけれども、官僚のトップの人間が田中の周りに集まってきたわけですが、その人間でも東大で学んだこと、世間で学んだこと以上の想像力なり、人間的な、コンピューター的な、動物的な、何とも言えんね。その力はあったと私はそう見るんですよ」
石原氏
「大蔵省の役人が、大蔵省の役人になったら数字ができるではないかと、事実でしょう。その大事な数字を間違って報告して、本当だったらクビになるところを、角さんはそれに気がついて、手回しして、ちゃんと奴を押さえちゃって、大蔵大臣としての、要するに、答弁だからごまかしちゃったと。これは大蔵官僚にしてみると後ろにまわって助けてもらって、それは皆に浸透して、とにかくあの親分だったら命を預けられるという、そういう師弟関係ができていたのでしょうね」
石井氏
「この人は冠婚葬祭を大切にしましたね。特に結婚式よりも葬式を大切にした」
反町キャスター
「当人ではなくて、当人の親御さんとかですか?」
石井氏
「いや、ご当人もありますし、ご当人の奥さんであるとか、子供さんというようなことで、自らすっ飛んで行きましたね。なぜあんな野党の、あの端までかと思うんですけれど。そういう1つの人生の機微に触れる、1つの出来事に対して、実にチャレンジングによく動きましたよ。それはまた持って行った香典が半端ではないですからね。そうですよ、厚いのを持って行くんですよ。しかし、石原さんが言われたように、本人が自分で金をつくる力があるんですよ。誰かからゆすって金を持ってきたら、そんな金は使えない、できません。それから、25歳で、それだけの大きな会社をやっていたら、俺は大金持ちになって、1つ日本一の金持ちになってやろうというのが普通ですが、それをポンと捨てて、政界に飛び込むわけでしょう。志が高いわけですよ。この国を何とかする。そのためには実業界ではダメだと。この政治の世界において自分が思うべきことをやろうという、そういうものが彼の原動力になっていたと思うんですね」

田中角栄の『外交力』
秋元キャスター
「1972年、当時の田中総理と毛沢東主席が握手をしている写真ですが、日本と中国が国交を結んだ時の写真です。アメリカのニクソン大統領が、日本の頭越しに訪中するなど当時、日本を取り巻く環境、非常に厳しいものだったわけですが、そうした時期に日中国交正常化を実現したのが田中総理ということだったんですけれど、石井さん、田中総理の外交手腕というのをどのように見ていましたか?」
石井氏
「それは高く評価をして良いと思うんですよ。私は、外交の中で、1つは追従外交、従属外交。これをやる人が多いですよ。特にアメリカにね。その次に協調外交というのがあるんですよ。相談をしながら協調してやると。できるだけ対等にやりたいのだけれども、まず向こうの意向を聞くということになると、追従外交と協調外交の間ぐらいみたいなものだけれども。ところが、田中はそれのどれでもなく、自主外交をやったんですよ。自らの判断で行動をしたと。これがアメリカの琴線に触れ、虎の尾を踏んだと言われるのですがね。日中国交回復の場合にも、アメリカは日本に先にやられたくなかったんです。まず自分のところが世界秩序を中国とつくったあとに、日本はついてきたらいいという気持ちだったんですよ。こんな形容があるんですけれども、アメリカが水牛としますね。日本がネズミとする。そうなると、水牛は長い道のりを、山を越え、野を越え、海を渡りして、北京の最終目的地に着くわけですよ。その水牛の上にネズミが乗っていたわけです。それが日本だ。水牛とネズミに例えやがって、したのですが、北京へ着いた途端に水牛のところから日本が降りて、先に行って、ごちそうを食べ始めたと。これがけしからんという感覚ですけれどもね。先を越したというのでも、順序があるではないかという考え方ですが、田中にはそういう気持ちはなくてね。アメリカは遠い国ではないかと。将来を考えたら、こちらはこちらで自由な判断をさせていただくと。こういう感覚ですよね」
反町キャスター
「それはどういう感覚だったのですか?でも、1970年代というと、まだまだ非常に経済的な力も、アメリカの方が断トツに大きくて。アメリカの手のひらから離れてやることに対するリスクは?」
石井氏
「たとえば、石油資源の問題を見た場合に、オイルショックというのがあって、中近東の石油が高騰したと。全てアメリカのメジャーを通して買うことになってくれば、どれだけ大きな負担があるかということを考えた。戦後でも、敗戦直後ではなくて、だんだんと力をつけてきた、この経済大国。世界第二の経済大国になりつつあった。しかし、資源はないということになってきたら、自主外交をしながら石油資源を求めるというのは国益を追求する第一の眼目であるべきだと思うんですよ。少し協調的に相談をしたら良いのですが、相談したら、向こうは必ず反対をしますから、それなら相談をせずにやろうと。それから、すごく愛国心が強かったと。愛国の情に駆られてやったことが、かえって彼にとってはロッキードへ戻ってくるような関係になってきたと。そう見ているんですね」
石原氏
「太平洋戦争と同じ構造です。だから、アメリカがとにかく自分の意に沿わないのは全部、カダフィもそうだし、フセインだってそうだし、それから、かつてメジャーを追い出して石油を国有化したモサッデクというイランの政権で、立派な政権ですよ。これを潰したのはCIA(中央情報局)ですよ。同じようにアメリカというのは意に沿わないと、全部殺してきた。たとえば、面白いのだけれども、尖閣を東京都が買って、石垣の市長と一緒にあそこに灯台をつくって船着き場をつくろうではないかと言った時に、アメリカは、栗原君というあそこの持ち主が、結局、怖くなって売っちゃったんですよ、政府に。その彼が問うてきたの、この問題に関して、アメリカは、中国と戦って、僕を暗殺するつもりだったらしいと。それで政府に頼ろうと思って、尖閣を野田政権の時に売っちゃったと。東京に対する言い値よりももっと高く。アメリカというのは、そういうことを平気でやりますよ。角さんは結局、そのターゲットにされた」

ロッキード事件の『内幕』
秋元キャスター
「ここからロッキード事件について聞いていきます。1976年、アメリカロッキード社の航空機売り込みに際し、日本の政界の一部に多額の工作資金が賄賂として渡されたとして、田中元総理は受託収賄と外国為替管理法違反の疑いで逮捕されました。1977年1月、ロッキード事件の初公判で、東京地裁に入っていく田中さんの様子ですが、片手を挙げて、非常に堂々と入っていく姿が印象的ですけれども、石井さん、ロッキード事件、当時ですけれども、田中さんはどういう様子だったのでしょうか?」
石井氏
「この事件の中身についてあまり書いた本がなかったと。たまたまこの人の行動をずっと見てきたんですよ。そうしてこの判決の前に、これは冤罪で無罪というペーパーを出したんですよ。それを田中がすごく大事にしまして、枕元へ置いて、鉛筆を引いて、石井君、君はどうしてこんなことがわかるんだと聞いてくれた。そのペーパーそのものを、この冤罪の7章に全文書いてあるのですが、33年前に書いたその文章が現代にきっちりと生きているんですよ。何も変える必要がないですよ。だから、私は最初から、これは冤罪で罠にかけられたという判断をしていました。それが現在でも、1つもブレていません。この罠というのは、まずスタートが海の向こうのアメリカにあったんですよ。先ほど、いろいろ言いましたような事件の中から、アメリカはいつか田中を蹴落としてやらなければいかんと。そこへ、この、いわゆるロッキード事件の、日本への売り込みというものがあった。その中心はP‐3Cオライオンという軍用機の、対潜哨戒機だったんですけれども、それをすり替えて、ターゲットを田中1人に絞り、トライスターという民間機1つに絞って事件を組み立てたんですよ。ところが、それに嘱託尋問というものに乗っかって、日本の最高裁が迷走したんですよ。なぜ迷走したかと言ったら、そんな証拠にもならなん、反対尋問もない、まさに刑事訴訟法どころか憲法に違反をしているものを、アメリカから無理に取ってきて、それを証拠に裁判を起こし、地検が暴走したんですよ。こんな大きな獲物を捕まえるのにはこの機会しかないということで。それで暴走して、どういうことをしたかというと、次々に人を取って、検面調書(検察官面前調書)をつくったのですが、それは皆、密室で強力にそれを取るわけですから。検面調書によって裁判が動いて形になった。そこへ持ってきて、もっと悪いのは三木内閣ですよ。稲葉法務大臣ですよ。たまたまそういう日本のトップが田中を潰そうというような流れがあった。それに乗っかってもう1つ悪いやつがいるんですよ、それは世論ですよ、あなたも含めて。それは皆さん方の責任とは言わんよ。しかし、日本の世論というのは恐ろしいですよね。あまりに世論に右顧左眄するということは恐ろしいことと思うのですが。そうでしょう。ロッキード事件の起こる2年前は、田中ほど、今太閤と言うて誉めそやされていたものが、2年経ったら、この金権を退治することが、日本の民主主義を守るのだという話に変わっちゃって、全体が轟々と、その流れになっていたんですね。ただ、田中は身に覚えになかったものですから、すごくこの戦いに苦しんだ。裁判で7年、4年。それから、また、6年の、裁判で20年かけた。最後までね。それから、その前にヤミ支配ということを言われていたけれども、自民党の中で自分の汚名を取り戻すためにありとあらゆる闘争をやりました。だから、ロッキード裁判が田中だけでなく、日本にとってどれだけの大きなダメージ、マイナスを残したかということを明解に主張をしているので。これは是非とも1つたくさんの人に読んでもらいたいな」
石原氏
「日本の司法というのは本当、大きな間違いを起こしたと思いますよ。それは、参議院の頃から、外国人記者クラブのアソシエイトメンバーですよ。それで古いアメリカの記者がその頃、たくさんいましてね、私も親しかったしね、その連中達が期せずして言いましたね。石原さん、この裁判というのはどういうことなのですか。日本の司法は何をしているのですかと。こんなものをアメリカで考えられませんけれども、何であなた方は黙っているのですか。こんな不思議なおかしな裁判はないですと。それはそうでしょう。だって委嘱、何だっけ、免責証言と言うのは、だいたい日本にもないし、アメリカにもめったにないことなのだと。それをとにかく日本から委嘱してね、しかも、とにかくそれに対する反対尋問も許されずに、しかも、産経新聞なんかが踊らされてね、あの時、ガセネタで、田中がついに告白したというのを一面に載っけたんですよ。それを見せられて、運転手とか、榎本なんかが、言われるままに検事調書にサインをしたんですよ。たとえば、村井さんと言いましたか、厚生省の。村木さん。あの人の冤罪なんて言うのは本当に酷い話だと思いますよ。ああいうのは検察がやるんだ、怖いね。人間ですから点数稼ぎをしたいでしょうけれどもね」
石井氏
「あれ、私、当事者だったのでね」
石原氏
「あれ、結局、無罪だったでしょう」
石井氏
「それはもちろん、そうですよ」
石原氏
「完全な冤罪だったでしょう。あの人、復活して事務次官になりましたよ。あの事件は恐ろしいと思いましたね。あの類のものでしょう。ロッキード事件の裁判というのは」
石井氏
「今、石原さんが言われましたけれど、これは、原因はアメリカにあると、震源地は。アメリカへ飛びまして、すごい弁護士を捉まえたんです。その人はニクソン大統領を窮地に追い込んだ主任検事をやっていたんですよ。ところが、この事件を見て石井さん、これはデュープロセスを経ていないと。正規の手続きなり、その法律というのを、あまりにも瑕疵があり過ぎて不可思議だ。これはおかしいと。そこでこの人を呼んできたんですよ、日本まで。それを全部、細かく書いてあるんです。ところが、最後に田中が断ったんですよ。それには2つ理由があるんですよ。1つはアメリカにやられたことを、アメリカの弁護士の力を借りて、それを晴らしたくないと言うんです。日本人の意地といいますか、そういう気持ち。それから、もう1つは彼は無罪ということを最後まで信じ切っていたんですよ。やっていないものは罪にはならないだろうと。必ず裁判では明かされるという、そういう確信があったから。ところが私は、世論の動きを見て、親父、それは甘いですよと。無理ですよと言ったら、無理ではないと。いや、しかし、これを断るということは苦しい境地に追い込まれますよと。大丈夫だと。こうやるんですよね」
石原氏
「角さんは、角さんなりに日本人を信じたんですね」
反町キャスター
「石井さん、ロッキード事件、5億円と言われているものが、要するに、田中さんが、たとえば、1回の選挙で使うお金、ないしは1年に田中さんの前を、田中さんが使っているというか、貯めるというよりも、目の前を流れていくお金、フローですよ。フローから見たら、大した額ではないという」
石井氏
「その通りです」
石原氏
「田原総一郎が言ったけれども、あの時の総選挙で角さんが集めた金と使った金というのは500億円ですよ、1回で。それで、そのうちの5億円というのは、確かに田中事務所へ入ったんですよ。誰が渡したのか、児玉誉士夫か、伊藤忠か、あるいはロッキード自身が渡したか、さっぱりわからない。しかも、検事調書なるものが、どこかの路地でイギリス大使館の近くで何千万円を渡したとか、訳のわからない小説染みたプロットがあってね。結局それに榎本がサインをしたのでしょう。それでハチの一刺しか、変な事件があったけれども、あれだって、とにかく一種の事件をきらびやかに、面白おかしくする人達」
石井氏
「それは、少し国民の皆様には違和感を、感じられるかもしれませんが、あの頃の政治と金と選挙というものは、べら棒な金額が動いたんですね。だから、本当に500億円は多いかもわからんが、常に何百億円という金というのは、田中の前を流れていったわけですよ」
反町キャスター
「そうすると、石井さん、ここで問題にすべきは、ロッキードの、いわゆる民間の旅客機を売り込むための5億円という名目で、そこが受託収賄みたいな形で、それで角さんに渡ったことは、これはないのだと。ただし、一般的な政治献金として田中さんに日本のためにがんばってくださいと、いわゆる財界が自民党に献金するような形での5億円。これはあったかもしれない?」
石井氏
「それはあったのかもわからない。たくさんの他の寄付金と同じように。それはトライスターとか、ロッキードと関係のない話ですから。それをそうターゲットを絞って、事件を組み立てて、長い裁判をして、最後にそういう形に持っていったというところに、この裁判の大きな悲劇があるんですよ」
反町キャスター
「石井さんは最終的には政治家の行動としては田中さんと袂を分かっていった部分もありましたよね?」
石井氏
「私は袂を分かったことはありません。田中側は裁判を10年戦って、それから、病に倒れて10年、苦しんだんですよ。この20年の田中の苦しみというのは、世間の人にはわかりませんけれども、本当にかわいそうでした。自分は無実を信じているのですが、裁判は思うようにいかない。しかし、二審では新しい弁護団が組織され、着々と資料を集めていました。たとえば、P3-Cの金がトライスターに標的を変えてつくられたストーリーだと裏づける話はドンドンと出てきたのですが、その時に田中はバタッと倒れたんですよ。脳梗塞で倒れたあとに病院に入り、半身不随になり、言語障害を起こしたと。そのために弁護団は空中分解してしまいます。一審の偉い人の弁護士と、二審の実際的に力のある弁護士の間に意見が合わない。田中が生きていてはじめてそこのコントロールができるけれど、団長不在では弁護団の足並みも揃わない。そのうちに二審が同じように追認される、また最高裁まで10年もかかる。この間に田中は、植物人間ではないですよ、生きていたんですよ。しかし、目白の御殿の中で、田中真紀子の庇護のもとに、厳しい監督のもとに、世間に出られなかったんですよ。この時の田中の苦しみというのは、あれだけの人ですから想像に絶するものがあると思うんですよ」
反町キャスター
「その時には石井さんはコンタクトを?直接話をするようなことは?」
石井氏
「それは絶対に田中真紀子が他の人には許さなかった。会わせない。田中真紀子が会わせたのは唯1つ中国の要人ですよ。江沢民というような主席が来た時には目白でネクタイをつけ、服を着て、会うんですけれども、ただ、田中自身は話ができません。涙を流して、要人と会うことを喜ぶということだけですよ。その場面は外に出てくるわけですね。田中は元気に生きているということは表に出るんですけれども、なぜ田中真紀子は田中をそこまで最終的に隔離しなければいけなかったのか。それは晒し者にしたくなかったんですよ。父に対する愛情ですよ。病院にいたら、田中の姿を撮ろうと、看護師に似たカメラマン、医者の中に潜り込んだマスコミ、これが田中の晩年の姿を追いまわった。だから、彼を家に連れて帰ってしまった。それは、田中にとってはこの無実を晴らさなければいかんという想いは大変だった。その裏に田中の120人、140人という軍団が存在していたんですけれど、次から次へ人の神輿を担がされたんですよ。大平内閣、鈴木内閣、中曽根内閣もそうです。私に河本を降ろしてこいなんていうのも書いてあるんですけれど、そういう間、なぜいつまでも人の神輿を担がなければいかんのかという面々がいて竹下さんを中心に創政会というものを立ち上げた。これが田中を烈火の如く怒らせたんです。そうして彼はオールドパーをあおった。最期に自爆したと。こういう最期のかわいそうな面もあった。私はその時、落選していたんですよ。従って、その中には入れなかったけど、田中と会うことはアメリカとのことがあったので、何回も会いました。田中は異様なまでの闘争心に燃えておった。しかし、体が動かない。そういう姿を本当に見まして、これは本人だけの苦しさでなく、日本にとって、これほど残念なことはなかったなと。彼のエネルギーを前向きに使わせておったら、日本の改造というのはもっと進んでいたのではないか。総理は下がっておったかもわからないけれど、自民党を完全に支配するだけの政治力を持って政局を動かしていただけに」

作家 石原慎太郎氏の提言:『文明史感』
石原氏
「感(という字)が違うのですが、これは勉強してそうなるものではないですよ。生まれつきのものですから、これを急に求めても、人間の持っているDNAが支配することでね。こういうものを急に求めても酷だと思うけれど。田中角栄という政治家の偉大さ、凄さというものは、私はこれだと思うんですね。これはちょっとやそっとで培われるものではないんだな。学歴とか、まったく関係ないですよ。DNAの問題です。これは神様が与えるものだから」
反町キャスター
「次の田中角栄が出てくるまで我々は待たなくてはいけないのですか?」
石原氏
「そうですね。なかなか現在の日本の教育制度ではそんな人間は育ってこないですな。天才というのは、自分がつくるものでないし、人がつくるものでないし、天が与えるものですから。今の政治家にそれを求めても気の毒だと思うけれど」

石井一 元民主党副代表の提言:『志』
石井氏
「田中を横でよく見ていて、常に志を持っていましたよ。日本列島改造をやったいちいちのことでも、あるいは外交で激しく自主外交を貫いたことも、何をしたら国のために1番いいのかという観点に立っていたんですよ。もともと25歳で大きな事業をしていたら、自分のことを考えたら、政治家なんかやめて、金儲け一本に走るということもあったかもしれません。そんなことは彼にはまったくなかった。大志を持って政治に挑戦し、それを実現し、決断し、行動に移したというのが、この人のいいところではなかったかなと思っています」

田﨑史郎 時事通信社特別解説委員の提言:『人間力を培え』
田﨑氏
「現在の政治家には田中さんに学んで人間力を培ってほしいと。現在、頭の良い国会議員が多いんですよ。この人、非常に優秀だなと、論理的だなと。でも、何か味わいがないですね。では、人間力を培うためにどうしたらいいか。苦労を重ねなければいけない。田中さんは戦争体験、そのあと、焼け跡から立ち上がってきた苦労。諸々の苦労を全部、やって、あの人間性が出てきたんですよ。だからもっと苦労しなさいと言いたいですね」