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2016年9月8日(木)
没後40年…毛沢東の闇 革命家か?謀略家か?

ゲスト

遠藤誉
東京福祉大学国際交流センター長 特任教授
朱建榮
東洋学園大学教授

毛沢東と現代中国の『闇』
秋元キャスター
「毛沢東が現在の中国でどのように評価されているのかということから聞いていきたいと思うんですけれど、中国建国の父と呼ばれる毛沢東。中国共産党の創設メンバーの1人で、終戦の年1945年から初代中央委員会主席に就いています。また、現在の中国、中華人民共和国を建国したあと、初代国家主席に就任し、死去するまで最高指導者の地位にあったということなのですが、まず遠藤さん、現在の中国共産党や習近平体制というのは、毛沢東をどう位置づけているのでしょうか?」
遠藤氏
「毛沢東はまず建国の父で、実に素晴らしい、日本軍と勇猛果敢に戦った人間として、素晴らしい指導者として、位置づけていて、毛沢東の真実はだいたい語らせない、研究させないというのがありますから、非常に偶像化しやすいし、神格化しやすい。彼がいれば、国が収まるということから、今現在、たとえば、習近平政権ですと社会主義国家にとても似つかわしくないような貧富の格差とか、それから、腐敗とか、こういうものがたくさんあります。従って、一党支配体制が非常に厳しくなっている。その統治が厳しくなっている。そこで毛沢東の威信を借りてきて、自分は第2の毛沢東であるような形をとって、毛沢東回帰路線を歩んでいると、こんな感じですね」
朱教授
「私は真実の議論の前に、結果として現在の中国は世界2位の経済大国になり、日本で一部、脅威とされていますけれども、結局このような世界的に一目置かれるような中国になった背景なんだったのか。阿片戦争以後の100年以上に渡って、この中国は世界でも小さい国にもいじめられていたんですね。そういうような中で、毛沢東の革命によって、新中国ができて、そのあと時間がかかったんですけれども、結果として今日の中国が世界でも無視できないような存在になったということが多くの中国人が誇りに思っていること。もう一点は、遠藤さん、おっしゃっていることに似ているんですけれど、中国改革開放30年、経済の発展は良かったんですけれども、社会の汚職、腐敗、退廃、いろんなことに対して、現実の問題として、皆不満に思うことに対して、毛沢東時代は清廉潔白ではないかと。そのようなことで習近平政権は反腐敗闘争の中で、毛沢東時代のような当時はかなり貧乏、閉鎖的な国だったんですけれども、一般の労働者などは地位が高かったとか、そのようなことをうまく、国民にPRして反腐敗闘争の正当性を主張していると。そういう一面もあるかと思います」

革命家?謀略家? 没後40年・毛沢東の虚と実
秋元キャスター
「中国共産党は毛沢東の死後、毛沢東の評価について、このように表現しました。『七分の功績、三分の過ち』ということなのですが、国土も人口も巨大な中国で、リーダーシップを発揮してきた、1つの国にまとめ上げるなど、革命家としてカリスマ性が評価される一方で、革命の過程、文化大革命などで、何千万人といわれる自国民を犠牲にした独裁者として批判されるということもあります。遠藤さん、まずこの功績の部分から聞きたいと思うんですけれども、革命を成功させて、中国という巨大な国をまとめあげることができた、この毛沢東のどういう人物、魅力から、それができたと考えますか?」
遠藤氏
「魅力といいますか、なぜ彼がそういうことを成し遂げることができたかということでお話をいたしますと、コンプレックスです。まずコンプレックスというのは、彼は農民の出なので、学歴が低いんですね。しかし、辛亥革命などがあって、海外に若者がドンドン行こうという時に、フランスに留学しようという人がたくさん増えて、一種のブームになって、毛沢東は湖南省にいたんですけれども、若者達を連れて北京に行くんですよ。北京大学で自分もそういう訓練を受けながら、仲間をフランスに行かせようとするんですが、仲間はちゃんと学歴があって、北京大学の予備コースというのに入学できるけれども、彼は学歴が低いから北京大学の予備コースにも入れないですね。それで、せめて図書館で少し訓練をしたら、それを1年間の学歴とみなそうというので、図書館長のもとで雑用をするんですけれども、その雑用の時に、それこそ中国の最高級エリートの人達がそこに集まっているわけですね、北京大学に、かつ図書館に。その人達の受付の仕事を自分はやるというような中で、あまりに自分が屈辱的に感じて、誰がこんなことをやるかというので、田舎に帰ってしまうんです。放棄して。ところが、それが毛沢東の凄さで、それをやったからこそ、彼は革命のリーダーになることができたし、中華人民共和国を建国することができたんですね。なぜかと言うと、コンプレックスで負けてなるものかという強い気持ちがあったので。彼は勉強家ですからすごく頭も良いし、戦術家と言いますか。中国にいるのは農民だと。90%が農民だ。自分も農民の息子だということで、農民を自分の側に惹き付けるという戦略に出るわけですよ。その農民を自分の味方につけるにあたって、すごく彼は文学性が高いし、とても豊かな人ですので、とても素晴らしい言葉で、人の心を熱くする言葉で、皆を惹きつけていくんですね。それによって、彼はリーダーとしてドンドン実力を発揮していくのですが、その時に、ニラの頭という言葉ですけれども、彼がなぜ、いわゆる帝王学のようなものを成し遂げることができたのかというと、彼は、ニラの頭は切ってもいいよ、根っこさえ切らなければね、と言ったことがあるんですけれど、これはどういう意味かと言うと、ニラは上にニラ坊主みたいなものがありますね。丸く白いお花が咲いたりしますね。それはどんなに切ってもあとから生えてくるけれど、根っこというものをとってはならないと。人民というのは雑草のようなもので土地さえあればいくらでも雑草の如く出てくると。だから、ニラの芽がドンドン出るように、人民というのは、放っておいても、いくらでも命というのが出てくるから、自分の戦略のためであれば、人の命をバサッと切るというのも構わないという、そういう意味です、ニラの頭」
朱教授
「毛沢東がそのようにそれを表現したとは思えないですけれど、遠藤さんが解釈したと」
反町キャスター
「朱さんから見た毛沢東の凄さとは何ですか?」
朱教授
「私、言いたいのは、毛沢東というのは志があって、超自信家で、信念を持って何かをしよう、失敗してでも立ち上がる。そういう意味で、ニクソン元米大統領が使った表現ですけれど、中国に毛沢東がいなければ、中華革命はこんなちっぽけな非ゲリラから、全中国に燃え移り、新中国をつくるというようなところまでにすることはできなかった。しかし、周恩来のようなブレーキをかける人がいなければ、毛沢東が点けた火は中国全部燃やしてしまう。そういう意味で、毛沢東というのが本当に超自信家ということもあって、信念を持って、この中華革命を成功させた。彼より前も後も、当時もライバルや指導者がいたんですけれども、できなかった。そういう意味では、中華革命の成功は毛沢東抜きにしては語れなかったと言えます」
反町キャスター
「地方に行った農民の息子で勉強家の人。ここまではわかります。その人が革命家になってオールチャイナを、全中国を統一するまでにいく。それにはステップがあるはずですよ」
遠藤氏
「そうです。彼は毎日のように図書館に通って、学校に行き始めてからというのは毎日のように図書館に通ってありとあらゆる本を読むわけです。特に明治維新にすごく感動して、この明治維新のような形で、中国が開国をしていくということにすごく憧れを持って、先ほど、確かに朱建榮先生がおっしゃいましたけれども、自分は絶対に偉い人間になってやるぞと。世界地図を毎日見るんです、図書館で」
反町キャスター
「そうすると、共産主義革命とか、要するに、社会の不公正、不公平に対して怒りが爆発したということよりも、権力志向が強くて、俺はとにかく偉くなりたいのだという…。共産主義革命というのはあとから来た理屈であって、本人のプライドと、裏返しのコンプレックスと権力志向が強かったという、そういう言い方はアリ、ナシ?」
遠藤氏
「アリです。なぜかと言うと中国共産党というような、あるいは共産主義というのは、彼にとって1つの手段。偶然、ソ連から来た手段であって、むしろ共産主義を利用して、フルに利用して、自分がこの国をとってやるぞと。その気持ちしかない。その野心しかない」
朱教授
「ただの野心ではそのような革命は成し遂げられなかったわけですが、彼がまさに北京に行く前に、既に現地の湖南省で、いろんなところ、若者同士で各村をまわって調査したわけですね。中国の農村がいかに遅れ、格差が激しく、それを変えないといけない。それにはどうすればいいのか。それがまさに北京に行ってから、いろいろ勉強をしている中でマルクス主義。実は1910年代の後半、中国でちょうどソビエト革命もあって、ソ連革命のいろんな思想、レーニンの思想、ブームのように入ったわけですね。その中でそれを信仰者の1人として、1921年、中国共産党結党ですけれども、いろんな研究者の見方によれば、毛沢東が共産主義者になったのは1920年頃。実はこの結党の直前に、その時いろんな共産主義の本を読んだり。若者同士で。それで湖南省の代表として、上海での中国共産党の結党式に参加をしたわけですね。その時点で彼は共産主義の考え、信仰者になったと思います」
反町キャスター
「遠藤さん、革命の話ですけれども、毛沢東がやったことの中での失敗というか、影の部分。先ほどの『七分と三分』の話ではないですけれども、文革というのがありますよね。大躍進政策とか、文化大革の部分。文革の部分というのは毛沢東の中ではまったく問題のない、やって当然の政策だったのかどうか?そこはどう見たらいいですか?」
遠藤氏
「やって当然ですね。自分が権力を獲るためならば、どんなことをやってもいい。文化大革命でやりたかったのは、劉少奇が権力を獲ってしまったから、それは耐えられないことですので。自分がトップでなければならない。だから、文化大革命を起こし、しかも、これはボトムアップですから、下から上に上がっていく。トップダウンではなく、ボトムアップの運動です。従って、習近平さんが毛沢東回帰をすると言っても、絶対に文化大革命のようなことだけはさせない」
反町キャスター
「ボトムアップは許さない?」
遠藤氏
「絶対にボトムアップは許さない。これは政府の転覆ですから。毛沢東は、敵は司令部にありと言って、政府を転覆せよというので文化大革命を始めていますので、この時にどれだけ多くの人が互いに殺し合おうと、どうしようと自分が権力を取り戻すことができさえすれば、それでいいんです、全て。だから、何千万人の人が、平和になって、中華人民共和国が誕生したのだから、どこの国とも戦争をしていないわけではないですか。平和になったのではないですか、ようやく。それなのに、平和になったというのに、それから何千万人もの自国民を殺したというか、犠牲にしてしまった。命を奪ってしまったという人は歴代、人類史上いないと思います」

『建国の父』の虚と実は
秋元キャスター
「昨年の9月3日、抗日戦争勝利記念日に行われた70周年記念式典で、習近平国家主席は、中国人民は抗日戦争の偉大な勝利を勝ち取ったと発言しているんですけれど。昨年、中国共産党が抗日戦争70年を記念して開いた人民解放軍の抗日戦争テーマ展。開会式の写真です。最も中央で大きな字で書かれているのが、『中流砥柱』と書かれて、中国の四文字熟語で、中流というのは黄河の流れの激しいところ。砥柱というのは、その河の中にそびえ立つ山の名前のことで、激流の中でも動じずに直立していることか転じて、中心的・精神的役割を意味するということですね。つまり、中国共産党が日中戦争の中心的・精神的役割を果たしたということを掲げています。しかし、日中戦争当時、中国には蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党と2つの党が存在して内戦が行われていました。日本軍の中国への侵攻が本格化すると、国共合作、つまり、国民党と共産党が協力関係を結んで日本軍と対峙したとされています。朱さん、中国では中国共産党が日本と戦ったというのが一般的な考え方なのでしょうか?」
朱教授
「それは国民党と共産党が、それぞれ中国での正当性を争う中で、中国共産党がここまで戦ったよということを強調しているんですけれども、学者の間、あるいは毛沢東、周恩来のレベルではこの戦争の真実、皆体験していますから、それはわかっていると思うんですね。日中戦争というのは、整理をすれば、1937年から1939年までは、明らかに、蒋介石、国民党軍が圧倒的に中心になって日本軍と戦ったんです。しかし、日本軍が武漢まで攻めて、それ以上、攻める余力がなくなった。蒋介石も重慶に閉じこもった。1940年から1943年の間、実は共産軍が日本軍の背後で、影で戦って、当時、100個の連隊、100団。中国は連隊を団と言うんですけれど、これが日本軍に対して猛烈な攻撃をした。それ以降で3年間、日本軍が中国共産軍に対して討伐を繰り返すんですね。その間、日本軍の、中国駐在の日本軍の6割、日本軍に寝返りした、いわゆる傀儡軍の8割、それは共産軍と戦ったわけですね。だから、そういうところを見ると、両方とも、それがそれぞれの役割をした。ただ、国内向けには自分こそ正当と国民向けに言うわけですね。それは現在の北朝鮮と韓国でも建国について、北は金日成がパルチザンで戦ったと。南の方も正当性を探さないといけないと。そうだ、上海に臨時政府があったと。だから、そういうようなところ、国内の一面。すなわち事実として、中国が、蒋介石は何も戦わなかったと。そういうことではないと。でも、昨年の9月3日の記念式典。それ以外ですと、現時点では、中国は蒋介石、国民党政権と、台湾の国民党政権と手をつないで、いわゆる台湾の独立を封じ込めたいわけなので。現在は逆に国民党の役割、かつての戦争の役割を高く評価している。ですから、そこは国内、時代の流れで見ないといけない。実際に蒋介石、国民党の戦いを否定できるものではないと思います」

日本軍との『不戦説』
反町キャスター
「遠藤さん、対日戦争勝利69周年記念式典、70周年式典とか、中国共産党は国を挙げて、我々が日本を破ったあとに大きなお祝いをやります。毛沢東主席になる前、もっと前、毛沢東自身がその昔、いつになるか僕もちょっとわからなくて聞くのですけれども、その昔に毛沢東さんが中国の中心にいた時、我々が、つまり、私が日本軍を破ったのだという、お祝いの式典はやっていたのですか?」
遠藤氏
「1度もやったことはありません。それは、だから、朱建榮先生がおっしゃったのは、あくまでも中国政府流の解釈であって、実際に毛沢東年譜というのがありますので、ちょっとそちらを見ていただきたいと思うんですけれども、7000ページもあるんですね。全部チェックしました。全9巻で、執念で全部チェックしましたね。これは中国共産党の方が編集したものでして、毛沢東が生まれて、それから死ぬまでの日記を、日記というか、何をやったかを全部書いてあるものですけれども、1950年には何もお祝いをしなかった。それから、1951年9月2日にスターリンにおめでとうという電報を打った」
反町キャスター
「それはソビエトの対日戦勝利の日ですよね」
遠藤氏
「ソビエトが戦いましたよねと。戦ったのは、ソ連と、ソビエトのスターリンと、中華民国の蒋介石ですから、蒋介石にまさかおめでとうと言えないから、スターリンのみおめでとうという電報を打った。9月3日の中国で言うところの抗日戦争勝利記念日には、彼は自分の執務室にいて一切いかなるセレモニーもやらないで、国内の資料とか、そんなものを見ていただけですね」
反町キャスター
「と言うことは、1950年とか、その当時、毛沢東主席は、我々が日本軍を破ったという、お祝いをしようという少なくとも気持ちはなかったわけですよね」
遠藤氏
「ゼロですね」
反町キャスター
「それはなぜか?破った実感がなかったから?」
遠藤氏
「自分は戦っていないから。自分が、むしろ国民党の蒋介石をやっつけたいから。そして天下を獲りたいという気持ちしかないので、逆に言うならば、日本が侵略といいますか、日本がしてきたことに関して、むしろ感謝をしているという気持ちさえあるぐらいですね」
反町キャスター
「遠藤さんの本。『毛沢東 日本軍と共謀した男』の中にこの言葉があるんです。『日本の軍閥が、我々、中国に『進攻』してきたことに感謝する』。毛沢東がどのタイミングで、誰に対して言った言葉なのですか?」
遠藤氏
「これは何回も言っていますので、1956年でしたかしら、遠藤三郎という元軍人の人が行った時とか、それから、そのあと…」
反町キャスター
「社会党の訪中団?」
遠藤氏
「1960何年に社会党の訪中団が行った時とか。たくさんの人が行っていますけれども、これは、もしも日本が日中戦争のようなものを仕かけてこなかったら、自分達共産党軍は強大化することができなくて国民党をやっつけることができなかった。従って、あなた達が中国に『進攻』してきた。侵略と言わないですよ、彼は。『進攻』という、この言葉しか使わないですね。侵略の侵という字もあるはずですけれども、そういう言葉は使っていない。進攻してきたからこそ、国民党をやっつけてくれたからこそ、私達は中南海で、京劇を観たりすることができるのだと言って、心からあなた達に感謝しますと。謝罪なんかする必要はありませんと」
反町キャスター
「それも言ったのですか?」
遠藤氏
「言いました。謝罪なんかしないでくださいと」
反町キャスター
「全然違うではないですか。現在の執行部と」
遠藤氏
「全然違います。まったく違います。毛沢東自身が、自分が中心になって、日本軍をやっつけたのではないことをよく知っていますので、むしろ自分は一生懸命、蒋介石、国民党軍をやっつけるために、むしろ日本軍と手を結んだということを、自分自身がよく知っているので、だから、日本軍にむしろ感謝すると言っているんですね」

日本軍との共謀説
秋元キャスター
「藩漢年という中国共産党のスパイが日本軍から報酬をもらっていたのですけれども、どういう情報を渡していたのですか?」
遠藤氏
「中国の国民党の軍事情報、それを重慶で周恩来が国共合作によって、周恩来が重慶にいますから、重慶政府から、国民党政府からしっかり軍事情報を得ることができる。従って、その軍事情報を日本側の外務省機関に渡して、情報提供料として、巨額のお金をもらっていた。その金額がいくらかということは、これは機密費なので、実は岩井さんの『回想の上海』に書いてなくて、どこに書いているかというと、むしろ潘漢年さんの中国の大陸で出ている、中国人民出版社などで出ている『潘漢年情報の生涯』というところにその事実が書いてあって、毎月2000元の香港元の報酬を貰ったと。2000元というのは、当時の、香港の警察官の5年間分の年収です。5年間分の年収」
反町キャスター
「警察官というのは給料が良かった方なのですかね?」
遠藤氏
「毎月貰っていた。毎月貰っていて、あと雑誌を発行しますと言って、いろんな理由をつけてはその度に1万香港元等をもらっていた。これは25年間分です。年収に相当しますね。それを何回もやっているので、何百年分かの年収に相当しますね。それはもちろん、1人の年収の何百年、3百年分と言っても1000年分と言ってもたかだかしれているではないかという考え方もあるかもしれませんけれど、当時の物価から考えたら、共産党の当時の貧乏さの度合いから考えたら、それによって印刷機を買って、それからたくさんの印刷物を出して、思想戦もやっていますから、毛沢東というのは。武器がほとんどないので、思想戦によって90%にのぼる農民の洗脳をやるわけですね。従って、この宣伝費というのは凄まじい重要な経費なんですよ。宣伝費にほとんど使っていたわけですね。印刷費というのが多いですけれども。それによって多くの、農奴のように虐げられていた農民の人達の心をとても熱く掴んで、彼は文学性の高い人間で、実に美しい言葉で人の心を熱くさせるという術を知ってるんですね。私どもなどでも小さい頃はもう本当に信じ込んで、すごく胸を熱くしたものですよ」
朱教授
「岩井、日本側との中間で、中国の藩漢年から情報を受け渡しをしたのは袁殊という人です」
遠藤氏
「違います」
朱教授
「この人が蒋介石とつながっています。蒋介石の情報を知ったうえで、日本側に情報になりますかと。当時、中国共産党がそこに潜り込んで、このように不利な情報を、同じ本ではあなた(遠藤さん)、使っていません。藩漢年が、どのように情報を選んで日本側に渡したか。蒋介石側に潜り込んだ中国共産党の人と相談して、日本側にちょっと信じ込ませるような、大半は嘘のような情報を綿密につくって日本側に渡したと。その情報が最後に国民党側にいくことがわかっていた。ですから、そのような話を反対する証拠がどこにありますか?」
遠藤氏
「あります」
朱教授
「どうぞ出してください」
遠藤氏
「袁殊を通して藩漢年の接触したのではなく、藩漢年があまりに頻繁に外務省の高官の岩井英一に連絡を取りたがるので仕方がないから、岩井は時間がないので、藩漢年と連絡をとる自分の部下をつけたぐらい。藩漢年からの岩井への直接の接触がすごかったんです。お金をもらうためでもあり、国民党の情報を渡すためでもあり、停戦を申し込むためでもある。私は外交資料館に潜って、こういうような資料を集めてきましたけれども、これは藩漢年が岩井さんに自分を信じてもらうために、中共の内部情報を岩井さんに渡したんですね。岩井さんに信じさせて、そのあとに停戦を申し込んだという順番ですよ。証拠として…」
反町キャスター
「潘漢年というのは毛沢東の意を受けて、日本側にアプローチしていたとは思っていないの?」
朱教授
「この接触のレベルでは情報部門レベルで、ですから、それが上に報告はあったかも知れません。ただ、その話とこれが、国、毛沢東が決める戦略。この2つのレベルはこんなに差がある中で、それを一緒にして、だから、そういう情報交換があるから毛沢東はもう日本軍と戦わない、それは違う。先ほど、言いましたように私、数字を言いました。1940年から1943年までの間、日本軍の6割は共産党軍と戦っていた。蒋介石はもう既に互いに休戦状態。傀儡軍の8割は共産党軍と戦っていた」
遠藤氏
「決定的な話をすれば、もし藩漢年が良いことをしていたならば、1955年になぜ藩漢年を逮捕し、投獄し、獄死させてしまったか。それは秘密がばれると困るわけですよ。その時に約1000人の中共スパイが同時に投獄されたんですね」
朱教授
「違います。それもまたいろいろな違う話を絡めただけです」
反町キャスター
「毛沢東は明らかに潘漢年をスパイとして日本側との接触に使っていた、カードとして使っていたとした場合、毛沢東はそういう形で間接的に日本とのパイプを持ちながら、一方で、国民党とも一応表面的な協力関係があったわけではないですか」
遠藤氏
「20%ね。20%やれと」
反町キャスター
「毛沢東のバランス感覚、敵の敵は味方という言い方があるとすれば、普通は、敵がいてこの敵をやっつけるためだったら、この敵と連携するのが、たとえば、様々な革命家の考え方だと思いますよ。ただ、この敵を叩くためにこういう壁パスで連携をする。逆の方もやっている。日本を通じて国民党を叩く、国民党を通じて日本を叩く。両方のループを使っていたと見えるんですけれども、そこはどうなのですか?」
遠藤氏
「国民党を使って日本を叩くというか、国民党を使ってではなく、日本との戦いは全部国民党に任せる。国民党が戦いなさいと、中韓民国と戦っているのだから。自分はその間、中国共産党軍を強大化させるために力を注ぎます。それが洛川会議というところで言った言葉で、10%しか抗日戦争のために使ってはいけません。20%はあたかも国共合作しているかのように見せなさい。妥協のために使いなさい。70%は中国共産党を強大化させるために使いなさいと。このように言ったんですね」

日本の『歴史戦』戦略は
反町キャスター
「中国の歴史戦に我々はどう立ち向かっていけばいいのか?」
遠藤氏
「あくまでも、先ほどから申し上げている毛沢東の真実。これは客観的な事実があるわけですから、この客観的事実に基づいて、日本は臆することなく、この真実を直視していく。国際社会に認識を共有していく。そうでなかったら、中国というのは言論統制をしないとこの事実がばれてしまいますから、それが非常に怖い。1979年に胡耀邦さんが実はもしも我々の真実を、歴史の真実を人民が知ったなら、人民は必ず我々の政府を転覆させるだろうということを1979年2月にスピーチで言っているんですね。それは党の本部の人は、上の方のトップは皆、知っているわけですよ、この事実を。それは私が一生懸命主張している事実とぴったり一致するものですね。ですから、こういうような事実を、朱建栄さんのような反対も出てくるでしょうけれども、でも、私達は冷静に、しっかり客観的に事実を検証しながら、中国にそれを向けていく。それから、できることなら国際社会に発信していく。それをちょうどアメリカ、ワシントンDCで、ナショナルプレスクラブという記者クラブで、このテーマに関するシンポジウムをやりますので、そこには全世界の大手メディアが来ていますから、そこから発信していくことによって、こういった情報を全世界の人達が共有することになれば、中国もこれ以上の覇権というのを少しは抑えるようになるのではないかなと、私は期待していますが」

朱建栄 東洋学園大学教授の提言:『歴史あっての今日』
朱教授
「日中関係に不幸な、そのような歴史があったということを忘れないということ。一方、中国も歴史はいろいろ国内で紹介されているんですけれど、前向きに中国は語らない。日本は忘れない。前向きにやっていく。そのような歴史、歴史観というのが大事ではないかなと思います」

遠藤誉 東京福祉大学国際交流センター長の提言:『真実を直視する勇気』
遠藤氏
「真実を見直す勇気を持ってほしい。日本人は特に贖罪意識があって、中国に気を遣って、この事実をあまり言うのはまずかろうと思う気持ちが少なくないというところがありますので、客観的真実は必ず直視すると、堂々と言うという勇気を持ちましょうということを言いたいですね」