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2016年8月15日(月)
天皇陛下と戦争・平和 象徴の道と慰霊の思い

ゲスト

明石元紹
天皇陛下の同級生
渡邉氏
元侍従長 宮内庁参与
橋本寿史
フジテレビ解説委員

元侍従長と同級生が語る 戦後71年、天皇陛下の思いは…
秋元キャスター
「天皇陛下は毎年終戦の日の戦没者追悼式で追悼のお言葉を述べられてきたわけですけれども」
反町キャスター
「渡邉さん、今日の陛下のお言葉をどんなふうに聞かれましたか?」
渡邉氏
「私はいつもそうですけれども、非常に一言、一言、心を込めて述べておられるというのは、いつも伺っている時の感想ですけれども、その中身からちょっと言いますと、平成の初めからずっと大筋はそんなに変わっていないことがあります。通常、そうだと思います。ただ、戦後50年になった平成7年に1つ付け加わったところがありまして、それは、その時の言葉でいうと、歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、というところです。それから、ずっとだいたい同じようなことで、それで70年になった時に他もちょっと変えられたところがありますけれど、歴史を顧みというところを、過去を顧みと直され、それに先の大戦に対する深い反省とともに戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願いとされたんですね。今年を見ますと、過去を顧み、深い反省とともに戦争の惨禍が再び繰り返されないことをというところが残っていますので、これが陛下の1つのお言葉の、中心になるところではないかと思いました」
反町キャスター
「陛下の終戦記念日のお言葉、当然、追悼式典なので亡くなられた御霊に対してのお言葉だとは思いながらも、お立場上、そのお言葉がこういう形で、国内で報道されれば、海外にも伝わっていくし、今の日本が先の大戦をどう受け止めているかという、1つの材料といったらなんですけれども、そういうお気持ちも当然、持って、言葉を選び、推敲し、お話になっている、そういうふうに我々は見てしまうんですけれど、それでよろしいんですよね?」
渡邉氏
「うん。そうだと思います。ただ私なりに考えると、過去を顧み、反省し、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを願って、これから行動していくということが、むしろ亡くなった多くの戦没者に対する、いわば最高の追悼なのではないかと思うんですよね。そう思っていらっしゃるんじゃないかと思うんです」

天皇陛下と『71年前の夏』
秋元キャスター
「ここからは天皇陛下の同級生の明石さんに当時の話を聞いていきたいと思います。まずは昭和の初めの戦争の経緯と合わせて、天皇陛下のご成長を見てみたいと思います。昭和6年に関東軍の謀略による柳条湖事件をきっかけに満州事件勃発。国内でも青年将校らが犬養毅首相を暗殺した五・一五事件など軍部の台頭が始まります。日本が国連を脱退した、昭和8年、12月23日に天皇陛下がお生まれになりました。幼い頃のご称号は継宮様です。その後、日本は北京郊外の盧溝橋での軍事衝突から日中戦争に突入していきます。天皇陛下が学習院初等科に入学されました昭和15年にはドイツ、イタリアと三国軍事同盟を結び、翌年には真珠湾攻撃があります。しかし、アメリカ軍による本土への空襲や、ミッドウェー海戦での敗北など、戦況は厳しく、昭和19年5月から、陛下は同級生とともに沼津へ疎開。その後、日光、奥日光へ移り、昭和20年8月15日の終戦を迎えています。明石さんは幼稚園から学習院に通われていたそうですが、当時、皇太子でいらっしゃった天皇陛下とは初めてどのように出会われたのですか?」
明石氏
「初めてお目にかかったのは、私どもが幼稚園児で、あちらは皇太子殿下であったわけですね。その当時、御所の方へ、我々から週2回ぐらい伺いまして、まったくの赤ちゃんに毛が生えたような状態ですけれども、いろいろな遊びをしたんですけれども、陛下はお一人でお育ちになり、周りは大人ばかりだったものですから、我々、同じような子供がお邪魔して、勝手におもちゃを使ったり、あるいは乱暴な振る舞いをしたり、することは大変お嫌だったようですね。ですから、当時の傅育官などにもあとで伺いましたけれど、お連れするのが大変で、お住まいから。道草を食いながら、あっち行ったり、こっち行ったりしながら、やっとこちらに合流をされる、そういう関係でしたね」
反町キャスター
「そうすると、子供の頃の陛下からすれば、明石さん、皆さんと一緒に遊ぶのはあまりにも刺激が強すぎた」
明石氏
「一人で育ちましたからね。大人の中で育った、当時の、ある意味では、厳しい教育を受けていらっしゃいましたから、そんなに優しくはなかったです、はっきり言えば。だから、人の気持ちがよくおわかりになるとか、そういう感じではなくて、ご自分中心というか、そういう雰囲気を私どもは感じていました」
反町キャスター
「それは、要するに、子供同士の遊びをやる、子供同士の遊びを楽しむというより前に、たとえば、そういう意味における、天皇陛下になるべくの教育みたいなね。君子教育みたいなものを周りから、大人から受けることによって、遊びをする前に、もっと別のことを考えなくてはいけないというプレッシャーというのか、そういうものが小さいうちからかかっていたと。そんな感じですか?」
明石氏
「そうだと思いますね。ただ、周りからの教育も勉強ができるようにとか、そういうことよりも将来、立派な姿勢でいらっしゃりたいとか、あるいはもっと言えば、たとえば、思いやりを持ちなさいというようなこともちゃんと教えていらしたようですけれど、それはなかなか子供だから、そう、すぐには反映できないですね」
秋元キャスター
「日光の田母沢御用邸で撮影された当時の写真がこちらですけれども、陛下がいらっしゃいまして、その奥で敬礼しているのが明石さんということですけれども、明石さん、疎開中の陛下のご様子ですとか、お暮らしぶりというのはどんな様子だったのでしょうか?」
明石氏
「我々も子供でしたから、日本の置かれている立場とかが、だんだん戦争が酷くなって、もう東京は丸焼けになってと。そういうのは観念的にはいろいろわかりますが、子供だから、当時とすれば、どちらかと言うと、のんきな疎開だったかもしれません」
反町キャスター
「奥日光に最後行かれたのは、20年の7月、8月ぐらいからですか?」
明石氏
「はい」
反町キャスター
「その時点で、たとえば、日本を取り巻く環境、つまり、戦況ですね。どういうものだったというのは皆さん、知っていたのですか?」
明石氏
「私の親父も、貴族院という政治家で、国会にいましたからね。どれぐらい大変なのか、家も焼けましたし、そういう情報というのはなんとなく入ってくるんですね」
反町キャスター
「陛下にもそういう情報は、情報というのか状況は伝えられていたものですか?」
明石氏
「いや、わかりませんけれど、お側にいる人達がそれとなく、お知らせしたとは思います」
反町キャスター
「そうした中、8.15の玉音放送になるんですけれども、玉音放送の日というのは、皆さんで聞いたのですか。奥日光ではそれは聞けたのですか?」
明石氏
「僕はお腹壊したか、風邪をひいたかで医務室にいましたので、皆と一緒には聞いてはいないですけれども、あとで聞いてみると、よくわからなかったということもありますけれども。これで日本が負けたんだよと先生から言われても、泣いたりした子は、一人もいなかったというのが現実ですね」
反町キャスター
「陛下がその時、どういうご様子だったのかというのは聞いていますか?」
明石氏
「それはわかりません。別のところでお聞きになったようですけれども、よく、これで平和になったからと明るい顔をなさったとか、そんなことは勝手な予測をしただけの話であって、私の感じでは、大変悔しかったとしか、お考えになったのではないかと思います」

天皇陛下と『2人の恩師』
秋元キャスター
「明石さんは陛下の教育係として特にこの2人が重要な人物だったと考えているそうですが、まず終戦後、中等科に進学した陛下に英語を教えるためにアメリカから来日したエリザベス・ヴァイニング夫人です。そして、元慶應義塾塾長で1949年から東宮御教育常時参与として皇太子時代の陛下の教育責任者を務められた小泉信三さんですが」
明石氏
「この2人が、まず負けた日本の天皇になる、象徴というものがどうあるべきかを考えていらした。1番大きいのは、独りよがりの日本の中の天皇ではこれからはもうダメだと。だから、要するに、外国、海外でも理解され、なおかつ同じ気持ちで、日本の天皇を見られるというか。それには、これまでの教育ではダメなのではないかと、お二人ともですね。だから、国際的に理解され、通用される皇室にならなければ、これからは価値がないというか、理解されないという。そういうことをまず考えたのだと思います。だから、お二人ともまったく共通ですけれども、そのためにはまだお子さんである東宮殿下にもそれなりの力をつけていただかなければならないということですね。英語だけでの話ではなく、立憲君主というのはどうあるべきなのかとか。そういう海外の例を引きながら、国際的に日本の皇室が理解される。それにはそれなりの力をお持ちいただかないと。一朝一夕にはできないと。簡単に言えば、お二人ともそうですね」
反町キャスター
「特にヴァイニング夫人は英語の先生ではなかったと聞こえます。今の話を聞いていると。英語という言葉を通じて新しい皇室のあり方というものを伝えようとしていた。そういう理解でよろしいのですか?」
明石氏
「結構ですね。だから、当時、若かった皇太子殿下に何としてでも、そのへんの人間力みたいなものをつけていただかないとダメだというのがヴァイニングさん。だから、ヴァイニングさんというのは戦勝国から占領国に来た夫人ですけれど、まったくそういう気配はなかったですから。これはご立派でしたね。それから、熱心なクリスチャンですが、私どもが知っている限り、学校の中、あるいは外で、神様という言葉は一言も言いませんでした。国家には秩序が必要。だから、なぜ日本は皇室を敬わなければいけないのだと、それを教えてくれたような気がします」
反町キャスター
「それを教えていたというと、いわゆるポツダム宣言とか、戦争末期における連合国軍の方針とかを見ていると皇室を解体するのか、どうなのかみたいな議論があった国から来た人間が、今後の日本の戦後の再建のためには、皇室が1つの柱としてしっかりしなくてはいけないという、そういう指導というか、あるいは教育をされた?」
明石氏
「具体的には言いませんけれど、当時の日本というのは何でもいいのが自由主義というか、実際に来ている占領軍の兵隊さん達を見ていても、極めてフリー過ぎたし、それから、映画を観てもそうでしたね。だけど、ヴァイニングさんはちょっと違いましたね」
反町キャスター
「どなたがヴァイニング夫人を英語教師に充てるということを決めたのですか?」
明石氏
「それはわかりませんけれども、ブライスさんというイギリス人も応援したと聞いていますけどね。ブライスさんの話で好きなのは、ブライスさんも個人教授で、当時の皇太子殿下に英語を教えていたんですね。ブライスさんはわざと鉛筆を床に落とすわけ。それはブライスさんの足元へ落としているんですね。それで殿下に、鉛筆が落ちましたと。どちらが拾えばいいでしょうと言うわけです。殿下はあなたの足元に落ちているのだから、先生が拾えばいいでしょうというわけだ。違いますと言うんですね。あなたはクラウン・プリンセスだと。どこに落ちたとしても、クラウン・プリンセスが拾うべきだと」
反町キャスター
「そういうものなのですか?どこに落ちても、クラウン・プリンスは拾わずに、周りの者が拾ってくれるのを待つべきではないのですか?」
明石氏
「逆ですよね。非常にいいお話だと思っていますけれど」
反町キャスター
「渡邉さん、現在の話。ヴァイニング夫人の果たした役割、小泉さんの果たされた役割。現在のブライスさんの話も含めて、戦後、現在の陛下に対する教育環境がどういうものだったと感じる部分はありますか?何を目指していたのかみたいなもの、目的。教育には目的があると思うのですが」
渡邉氏
「私は直接知らない話なのでアレですが、小泉先生にしろ、ヴァイニングさんにせよ、それぞれ立派な人格者で、人格者として日本の若い皇太子にどういう人間になっていただくべきかを教えたという。人間学みたいなものが非常に重要だったのではないかと思います。それから、私は人間というものは、1人の人や2人の人の影響だけで育つものではないので、いつも申し上げることですけれども、陛下に影響を及ぼした人は、たくさんいるわけですから。でも何と言ったって、小泉先生とヴァイニング先生というのは、大きな存在であったことは確かだったと思いますよね」

『象徴』としての天皇陛下
秋元キャスター
「橋本さん、終戦後、皇室のあり方も大きく変わっていきますよね」
橋本解説委員
「1946年、昭和21年の時には、いわゆる天皇人間宣言という、神格を否定したものであって、天皇というのは神話の世界から国民と結びついているものではなく、信頼と敬愛を持って結ばれているものであるというようなことが、昭和天皇が詔勅として出されています。それと、もう1つは、日本国憲法が制定され、昭和22年ですけれども、その際に、元首という言葉、大日本帝国憲法で元首という言葉だったのが日本国の象徴であり、統合の象徴であるという言葉に変わったのが1番大きな変化ではないかと思っています」
秋元キャスター
「渡邉さん、天皇陛下は、時代の変化に向き合ってこられた昭和天皇のお姿というのは、皇太子としてどのように映っていたと思いますか?」
渡邉氏
「要するに、戦前、元首であり、統治権の総攬者であった方が象徴に変わられて、どうなったかということから何かを学ばれたかどうかというのは、私にはわかりませんが、ただ、昭和天皇からいろんなことを学ばれたことは、当然のことながらお父上であるわけですから、確かだと思います。私が伺ったところでは、東京におられるとお互いに公的なお立場があるから、そんなに自由にお話し合いがなされないけれど、たとえば、那須の御用邸とか、葉山の御用邸にいらっしゃった時に、いろんな話をなさったようで、葉山の御用邸では、確かご結婚前に行って、泊めていただいて、そこでいろんな話をしたというのを、確か記者会見で言っておられたことがあります。だから、何があって、しゃちほこばって、何かをきちんと教えるということではなくて、自然にいろんなことを学ばれたということなのだろうと思うんですけれど。だから、その中に今お話のようなことがあったのかもしれないけれども、私はむしろもうちょっと基本的な、人間はどうあるべきかとか、陛下は自分で記者会見で言っておられますけれども、自分でモノを考えなければいけないとか、他の人のことを思いやらなければいけないということは、昭和天皇のご言動を見て自分は学んだと言っておられるんですよね。だから、そういうことも含めて、直接、間接に、いろんなことを学んでこられたと思います」

天皇陛下『慰霊の旅』の思い
秋元キャスター
「これまでずっと慰霊の旅を続けてこられる、そこにはどういった強い想いがあったと感じますか?」
渡邉氏
「この前の戦争というのは日本の歴史にとってたぶん最大の出来事であったわけだろうし、それが陛下からご覧になれば、お父上の時代に起こったことだったわけですね。つまり、近未来に起こった。そこで大勢の人が亡くなって、遺族も残され、時が経っていくと。そういう中で亡くなった人を追悼するというのか、霊を慰めると言ってもいいのかもしれません。これはまったく自分の推測ですけれど、陛下はまるでご自分の生涯の最大の務めの1つだと思って、やっていらっしゃるという感じがするんです。戦後50年では、国内で硫黄島はその前の年でしたが、硫黄島から始まって、沖縄、長崎、広島、それから、東京の下町と行かれ、それから暫く経って、今度は南太平洋で慰霊をしたいということをお考えになりだしたわけですよね。南太平洋というのは、要するに、海の外という意味だったわけですけれども、なぜ南太平洋かというのは、私もその頃まだそれほどそういうことを詳しく伺ったりはしませんでしたが、たぶん実現可能性とか、いろいろなことをお考えになってのことなのだろうと思うんです。それでやってみたら、今度行かれたパラオも含めて、なかなか皆、小さな島国だし、準備態勢もないし、難しいということになって、そうしたら、いや、それならサイパンなら行けるだろうとおっしゃって、戦後60年にサイパンが実現したわけですね。そうしたら、私はそう言っては失礼ですけれど、それでだいたい南太平洋は終わったのかと実は思っていまして、それで10年経って、ずっと想い続けておられて、10年経ってパラオが日本からの観光客も多かったりしましたので、10年の間に随分いろいろな施設などが良くなって、いらっしゃれるようになったと。それでもお泊まりになるのは海上保安庁の船を持って行ったわけですけれど。その想いと言いますか、これは生半可なことではないと、1つの例として思いましたけれども。最近若い方が、どうして天皇陛下はそんなに戦争、戦争と戦争のことをおっしゃるのですかと言う人がいますが、私はむしろ逆にどうして、それがそんなにわからないのかがわからないと思います」
反町キャスター
「次の天皇陛下、その次の天皇陛下にも、この慰霊の旅を続けてほしいとお考えなのでしょうか?」
渡邉氏
「旅のことはわかりません。旅は具体的なことですから。だけど、慰霊の気持ちはずっと、当然のことながら、引き継がれていってほしいと思っておられると思いますよ」

天皇陛下『生前退位』のご意向
秋元キャスター
「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉がありました。陛下のお気持ちをどのように受け止められましたか?」
渡邉氏
「これはなかなか簡単には言えなくて。私は何回も何回も読み返して、読み返す度に何か新しいことが見えてくるような気がしていますけれども、要するに、これまでどれだけ全身全霊を持って、天皇としてのお努めを果たしてきたかということを皆にわかってもらいたいということと、高齢化に伴ってそれが十分にできなくなった場合にどうしたらいいのかということを、これは自分のことだけではなく、これは今後の制度のあり方に関わってくることですから、それを皆で考えてほしいということと、要するに、2つをおっしゃったわけですけれども、だけど、本当にその言葉の1つ、1つが選び抜かれていて、それが積み重なって、まさに熟慮を重ねられたうえのことだと感じています」
反町キャスター
「生前退位という言葉は、陛下のお言葉の中には一言も出てきません。だた、受け止めとしては、消去法的に生前退位というものしか残らないよとお話になっているように僕には見えます。いかがですか?」
渡邉氏
「そういうふうに受け取られることは、僕が間違っていないというのも変ですが、間違っておられないのだと思います。そのお言葉の最後のところには『象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念ずる』とありますけれど、これがまさにそういうことなのだと思いますね」
明石氏
「大変合理性を尊重される方ですから。もともと。ちょっと伺った限りでは、大変ロングスパンで考えていらっしゃると思うんですね」
反町キャスター
「ご自身のことではなくて?」
明石氏
「ええ」
反町キャスター
「今後の皇室?」
明石氏
「今後というか、歴史を遡りまして、持統天皇とかそのへんから出てくるんですけれども、生前退位というか、生前譲位というのはいくらもあったわけです。それがどういう結果をもたらしたかはいろいろあるんですけれど、非常に長い日本の歴史を考えると、そんなにびっくりする話ではないと、これは。だから、ただ、ここ何代か、明治以降ですけれども、遡るとそれぞれのご苦労の中でいろいろな、たとえば、摂政の問題とか、いろんなことであまり良くなかった結果が結構あると。陛下のお気持ちの中には、天皇というのは政治から離れて、もうちょっと違う立場で国民を見ているのだと。それさえ継承していけば、私の代にそういうこと、合理的なことへシフトしても一向に差し支えないのではないかという感じですね。だから、子の代、あるいは次の代だけの問題ではない。もっと長い目で日本の皇室、天皇のあり方というのを見れば、終生なさるということはもう無理だということだと思いますね。ですから、これだけ自由主義の国家がたくさんある中で、たとえば、当たり前の話だけれども、男女同権もないわ、それから、精神優先主義みたいなものがまかり通って、それは、結局は皇室を利用するというか、言葉では尊崇するということを言いながら、実際には自分達の主義主張に未だにこだわると。これは今の時代に、国際的には通用もしない、独りよがりであるというお気持ちがあるのではないかと私は思っています」
反町キャスター
「生前退位を実行するとしたら、皇室典範を改正しなければいけないという議論とか、特別立法をしなければいけないという議論があります。陛下が今回の発言の結果として、国政に関する権能を有しない天皇陛下のお言葉によって法律の改正の動きが出てくることは、これは天皇陛下が国政に関する権能を発揮されたのではないかという指摘が。一部にあります。どう感じますか?」
渡邉氏
「私は学者でもないし、法律家でもないので、よくわからないところがあるのですが、ただ、陛下がまさにここで述べられたようなお考え、お気持ちを国民に理解してほしいと言ってお話になったわけですから、何をどうしてくれと言っておられないですね。だから、今度は政治の側と言いますか、実際にものを動かす側が、陛下がこうおっしゃっていたから、こうすると言ったなら、それはおかしいかもしれない。そこが1つ切れれば、そんなに問題はないと思います」

天皇陛下の同級生 明石元紹氏の提言:『伝統と国際性』
明石氏
「私は伝統と国際性と書きました。これはちょっと先ほど触れました、要するに、伝統を尊重しつつ、いかに世界レベルで日本の皇室がいろいろなことを発信し、理解していただけるかということですね。言い換えれば、人間尊重と平和だと私は思います」

渡邉氏 元侍従長の提言:『国民と皇室の相互信頼』
渡邉氏
「これは国民と皇室の相互信頼ということですけれども、皇室の将来のあり方というのは皇室だけのことではないわけで、むしろ国民が皆でそれを考えなければいけないことだと。それで、その間に相互信頼がある。今、そういう状態であると思っていますけども、いずれにしても、そういう状態が続いてほしいと思っています」