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2015年11月12日(木)
『南京事件』とは何か 3論客の見方相互検証

ゲスト

秦郁彦
現代史家
藤岡信勝
拓殖大学客員教授
山田朗
明治大学教授

徹底検証『南京事件』 30万人虐殺の真相は?
秋元キャスター
「まず人数について見ていきたいと思います。戦後開かれた2つの裁判の中で、南京で開かれた軍事法廷では現地の指令官の1人、谷寿夫中将への死刑判決で、犠牲者数は30万人以上とされています。また、この裁判では3人の軍人も多くの中国人を殺害したとの罪で死刑判決を受けています。一方、同時に開かれていた東京裁判は中支那方面軍の松井石根大将が被告ですけれど、日本による占領後、最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万人以上。そのうち、10万人以上の殺害は松井被告も知り得たという理由で死刑判決となりました。まず南京裁判と東京裁判。それぞれ、これだけ人数が違うわけですけれど、この犠牲者の人数について、山田さん、何人と推定されますか?」
山田教授
「日本軍の南京地区占領、これは南京城内とその周辺を含めた話ですけれども、中国側に軍民合わせて十数万人をくだらない犠牲者が出たと考えています。その根拠は、現在、遡れる埋葬記録。これは東京裁判の時にも提出されたものですけれども、確実に、この事件があった当時、活動していたかどうかということが現在、確認がとれる紅卍字会という大きな団体。それから、崇善堂という団体。これからの埋葬記録を合わせると15万5000人になります。それから、これらとは別に、日本軍が揚子江に流してしまった遺体というのが、これは数千人単位であると考えていますので、全体では十数万人をくだらない規模になるのではないかと考えています」
秦氏
「私は軍民合わせて4万人という数字を自分の著書にも書いて、この20年余、この数字を全然変えていませんけれども。4万人のうち、3万人は捕虜の殺害です。捕虜を殺害するのは国際条約違反ですね。それから、この数字を出した根拠を言いますと、参戦した日本陸軍の部隊の戦闘詳報というのがあります。これは公的記録です。それに書いてある場合が結構多いわけですね。全部が全部、戦闘詳報が残っているわけではないのですが、それに推計を加えて、だいたい3万人という数字にしました。あとの1万人というのは、さらに、根拠が難しいんですけれど、これもいろいろなデータから推計をした結果1万人。合計で4万人ということです。当時、この数字、たまたま一致したのですが、南京事件の翌年の4月に中国共産軍の機関紙です。それが4万2000人という数字を発表しています。これは1番古いでしょうね、中国側のデータとしては。それから、ベイツという南京安全区、難民区、その世話をしていた宣教師が東京裁判で4万人という数字を出しています。これはたまたま一致したということです」
藤岡客員教授
「大虐殺があったということを示す証拠はありません。反対になかったということを示す証拠なら、私はいくつも出すことができるんですけれど、一例を挙げれば、中国国民党が漢江、漢江は地名ですが、漢江というところで1937年の12月1日ですから、南京が陥落する前から、翌年12月4日までの間に、300回の記者会見をやっているんです。この目的は、要するに、日中戦争の最中ですから、日本の非をあげつらって批判するということ。外国の記者や外交官などを集め、毎回そういう記者会見をしたわけです。ブリーフィングをしたわけです。ところが、この300回の記者会見の中でただの一度も南京で虐殺があったとか、捕虜の不法殺害があったという類のことについて言及していないんです。それから、記者からも質問も出ていません。もしも30万人の犠牲者、あるいは30万人と言わず、数千人の犠牲者でも、そういう虐殺事件があったのであれば、これは日本非難のために設定をされた記者会見ですから、必ず取り上げないはずがないわけですね。犠牲者数という言い方、虐殺事件があったことが前提になっていますけれども、虐殺事件がなかったので、私の考えですが、なかったので、従って、その犠牲者数はゼロということです。ただし、それは日本人の個々の日本兵による不祥事がなかったという意味ではありません。不祥事はあったとは思いますが、虐殺は命令を出して、作戦としてやらなければできませんから、そういう意味では虐殺はなかったということです」
秋元キャスター
「ここであらためて南京事件について、主な経緯を確認していきたいと思います。昭和12年7月。一発の銃弾をきっかけとする盧溝橋事件から両国の緊張関係は高まり、第2次上海事変の激しい攻防戦へとつながりました。11月、日本軍によって上海は陥落。蒋介石率いる中国側の軍隊は、当時の首都であった南京へと退きます。日本の大本営が南京攻略命令を発したのが12月の1日です。様々なルートを通って追走した日本軍が城壁に囲まれた都市、南京城に到達します。12月10日、総攻撃が開始されます。この時、蒋介石は重慶に向かったあとで、残った司令長官も戦乱の中で南京城からいちはやく脱出したと言われています。南京陥落が12月の13日。そのあと、司令部の入城式を挟んだ数週間、日本軍による掃討作戦が展開されて、いわゆる虐殺問題として議論されているのが、この期間に当たるわけです。この前半部分のところから検証をしていきたいと思うのですが、上海から南京に向かった日本軍ですけれど、きちんと統率されていたのか。それとも道中、略奪や殺害が起きた可能性があったのかどうなのか?」
秦氏
「上海戦では相当激烈な抵抗がありまして、日本軍も大きな損害を出したわけです。これが1つの遠因になっているんですけれども、やっと10月の末に上海の中国軍は南京へ向かい始めたのですが、派遣されていた日本軍は上海派遣軍という名前がついているんです。この松井大将も、任務は上海周辺を確保するというそういう任務だったんです。ところが、上海戦が終わりますと、我先にと追撃しろ、追撃しろというので、南京に向かって下がっていく中国軍を追いかけて急進するわけです。大本営は止まれ、止まれと、何回も指示を出すんですけれども、守らないです、現地軍が。それでこれは当時も日本軍はかなり下剋上が酷くなっていまして、上の命令が…」
反町キャスター
「下剋上というのは、要するに、言うことを聞かなくなっていたということですか?」
秦氏
「そうです。それで松井大将以下が中央の命令を聞かないで、中央としては、南京を獲る前に和平を講じたいというのがあったんです。ですから、首都を占領してしまったら長期戦になってしまうからと。だから、そんなことお構いなしにどんどん追撃していくんです。その結果、どういうことが起きたかと申しますと、全然補給の準備がなかったんです。それで食わなくても行けと、こういうことになるのですが、実際はそういうわけにもいかない。そこで略奪に入るんです。そうすると、ついでに若い女性が見つかると強姦をすると。それから、今度は憲兵が見まわりを始めるんです。そうすると古い兵隊は若い兵隊に、お前、強姦をしたら、必ず殺しておけよと。そうしないとお前は憲兵に捕まって牢屋に入れられるよと。だから、そういういろんな複雑な要素が絡んでいますけれども、とにかく、南京に殺到しちゃったわけです」
反町キャスター
「山田さん、いかがです?上海から南京への中国軍を追走している日本軍。その当時の日本軍の規律、軍規はどういうものだったと見ていますか?」
山田教授
「上海戦で日本軍は戦死、戦傷を合わせて4万人も出ているんです。大損害を被ってしまって。多分にその報復意識とでも言いましょうか。多くの戦友を失っているということで、そういう感情に駆られていたということはあると思います。それから、先ほど、秦先生がおっしゃったように、大本営が止めるにもかかわらず、どんどん政令線というのを突破して、軍が暴走していくと。そうなると、南京城1番乗りみたいな功名意識がどんどん出てくるんです」
反町キャスター
「日本軍の中で部隊ごとの競いあいになったということですか?」
山田教授
「そうです。特に、この上海派遣軍と第10軍という2つの軍がこれに参加しているものですから、その競争意識も働くんですね。ちょうど南京を包囲する形で、勢いで進撃をしていくわけです。先ほど、秦さんもおっしゃったんだけれど、食料がないです。当然、現地調達ということで、略奪をしてしまうという、そういうようなことが起きますし、南京を占領しても食料がなくて、実は日本軍が大変困ってしまう。だから、捕虜を養えないという状況が起きてしまうんです。これが後に出てくる捕虜虐殺の1つの要因です」
反町キャスター
「藤岡さん、どうですか?当時、日本軍の軍規はどうだったのでしょうか?」
藤岡客員教授
「上海から南京までの間の出来事を、南京事件に含めるんだという、空間的に広げると、これはキリがないです。こういうこと自体は不当ですけれども。もともと南京事件を日本から紹介した人物、本多勝一氏が『南京への道』という本を書いているんです。これは上海から南京までの間に、日本軍がどのように略奪、放火をやったかという、それを現地の農民や住民のインタビューで全部構成した本です。ところが、これについて川野元雄さんが、『南京“大虐殺”被害者証言の検証』という本を書いていました。最近です。この中で、箸にも棒にもかからない怪しいものは別にして、29件あったかもしれないという、そういう詳細な証言がありますから、それを全部調べました。実は川野さんがやったことは、この方は技術屋で、全ての出来事を時間と空間の交点に配置した、プロットした。そうすると、29件どれについても、その時点で日本軍はまだ到達していない。逃げる支那軍と追いかける日本軍と、こういう構図の中で、その時点で日本軍は到達していない。だから、できない。しかし、支那軍ならやることは可能だと。やったとは言っていません。やることは可能だった。そういうことが全体的に明らかになっているわけです。これは驚くべきことです」
反町キャスター
「上海で大激戦を経て、先ほど、山田さんが言われるところの戦死戦傷4万人という多大な犠牲を経て、それで、なおかつ中国軍を南京に向かって追いかけていく兵隊。しかも、部隊ごとに南京1番乗りを競いあう状況の中でどうしても規律というよりも進軍することが優先されると。食料がなければ調達するし、様々な諸々の軍規の乱れというのがあったのではないかというのが2人の指摘でした。藤岡さんはそれがなかったということですか?」
藤岡客員教授
「もちろん、まったくなかったとは言いません。だけれども、本多さんがルポルタージュで書いているようなことは、これは全て、清野作戦と言いまして、支那の軍隊の伝統的な作戦です。これは敵に一物も与えないために…」
反町キャスター
「何も残さないで行くということですね」
藤岡客員教授
「味方の農民を焼いて、きれいに野原にしてしまうんです。だから、清野作戦というのが伝統的にあって、自国の国民をそうやって殺したり、全部を奪ったりするわけです。そういう作戦がずっと展開されているんだと考えざるを得ないわけです」
秋元キャスター
「ここからは南京城における状況を検証していきたいと思います。南京の略図がありますけれど、当時の首都南京はもともと人口100万人と言われる周囲を城壁に囲まれた町ですけれども、この全体を南京城と呼んでいます。面積は山手線の内側の3分の2程度。外からの入口はそれぞれ城門がありまして、日本軍との攻防戦もこれらの門のいくつかで行われたと言われています。中央にある部分が安全区、もしくは難民区と言われる地域で、一般市民や、当時滞在していた欧米人も多くはこの地域に暮らしていたとされています。まず藤岡さん、陥落後に日本軍が城内に入った時、どのぐらい中国人がいたと分析されていますか?」
藤岡客員教授
「城内はがらんどうで人っ子ひとり見当たらない。たとえば、中山門という横の大きな通りですけれども、それはどういうことかと言いますと、これは司令官の命令で、要するに、100万人のうち、80万人ぐらいは自分の財産を持って逃げ出しているわけです」
反町キャスター
「もともとは100万人都市だったんですね?」
藤岡客員教授
「そうです。80万人ぐらいが逃げ出し、身寄りとか、そういうものがない、最も貧しい人達が20万人残ったわけですね。その人達は安全区に逃げなさいという命令が出て、20万人は、その狭い地域に、そこに逃げ込んだわけです。それはすし詰め状態で、大きな建物に収容されるとか、いろいろしていますけれど、とにかく大変な混雑状況です。その中に一万数千人の便衣兵、便衣兵も正規兵ですが、それが市民の服装をして、潜んでいるわけです。そういう状況の中で起こったということです。だけれども、日本軍はどういう作戦をしたかというと、13日に南京を陥落させて、14、15、16と3日間、掃討戦をやったわけです。掃討戦はこういう状況の中では、軍と民を分離するということをして、軍を、兵士を分別して、要するに、従う、おとなしい人は市民として扱う。抵抗するものを拘束するということで、6600人ぐらいの人を拘束しているんですけれども、それも全部そのまま自動的ではなく、ちゃんとさらに選別をして、それで処刑をしているわけ」
反町キャスター
「山田さんは、日本軍が南京城に入った時、この中で、どういう状況で、何が起きたと見ていますか?」
山田教授
「これは、ドイツ人のジョン・ラーベという人がもともと南京にどれぐらいの人がいたのか。先ほど、藤岡先生は80万人が脱出したとことをおっしゃっています。これはラーベの記述にもあるんですけれど、もともと135万人ぐらいの人がいたんだと。そのうちの80万人が逃げちゃったということで。それから、南京を防衛する中国軍がいるわけです。民間人と中国軍がいますので、60万人ぐらいはこの南京城区にいただろうと。これは逃げようと思っても、この段階だと揚子江を渡って逃げなくてはいけないので、簡単には逃げられないです。日本軍が空爆を加えていますし、渡ろうと思っても渡れませんからね。結局、閉じ込められてしまったという状態だと思います」
反町キャスター
「残された中国軍は指令官が逃げちゃったあとですから、中国軍は武装解除して投降するのではなく、一般市民に紛れ込むという方法をとったというのは、ここはどう見たらいいのですか?」
山田教授
「これは、便衣兵というと、密かに武装していて反撃するというイメージですけれども、もちろん、そういう人もいたかもしれませんけれども、多くは戦意喪失、民間人の中に紛れ込むことで助かるという、そういう考え方だったと思うんです」
反町キャスター
「秦さん、南京城、日本軍が入っていった時、中にはどのぐらいの中国人がいて、どういうような状況だったと見ていますか?」
秦氏
「先ほどのお話にありましたように、南京市の公式の調査で、前年12月に100万人という数字があります。これは1番確かです。その後の出入りが非常に多いため、いくらいたかというのはわからないです。ただし、相当数いただろうと私は思っています。なぜかと言うと、安全区ができた時に入ったのが約20万人。これは宣教師達のグループが食料の調達もありますし、一応算定したんです。ですから、これもほぼ確かだと。ところが、20万人で、あとの南京は空っぽだったという説を最近、強調する人がいるんですね。それはどういうことかというと、20万人しかいないのに、なぜ30万人が殺されるのか、というトリック論法です。なぜトリックかと言いますと、安全区というのは面積的には、ご覧になる通り、8分の1です、南京城内の。あとの8分の7というのはたくさんの住民が住んでいたわけです。しかも、空爆の…」
反町キャスター
「住んでいたわけですか?先ほど、藤岡さんの話だと他はがらんどうで、多くの人は…」
秦氏
「それは根拠がないです」
藤岡客員教授
「たくさんの証言があります」
秦氏
「だって、全部まわって見たわけではないでしょう?」
藤岡客員教授
「複数の証言が」
秦氏
「複数の兵隊さんの印象か何かでしょう」
藤岡客員教授
「もちろん、入った時のです」
秦氏
「それはそうでしょう。中山路を入っていく時に、両側に小旗を振って迎える中国人がいなかったという。それは納得ですけれども。小さな町ではよくあるんです。権力者が入れ替わるとそういうのが。それがなかったと。当然、街路に出てきているのがいないわけです。ですから、少し奥に皆隠れていたと思います。様子を見ていたと。私は相当数いたというのは、神戸の震災の時に家が壊れても、そこに住んでいる人がいて、要するに、収容所に来ないと。ただ、食料だけは取りに来るという人がたくさんいたんです。だから、空っぽということはあり得ないですね」
反町キャスター
「入ってきた時に誰もいないと。これは嘘ではないかという、この点については?」
藤岡客員教授
「いや、嘘ではないです。嘘ではなくて、そういう記録が、日本側に複数ありますから。ですから、それは入った時の状況というのを描写しているわけで、それは嘘をついているわけではないんですよ」
反町キャスター
「そうすると、秦さん、先ほど言われた、20万人しかいないというのは過少ではないかと?」
藤岡客員教授
「20万人というのは、王固磐という警察署長が、南京陥落の直前に、ある会合で報告していることです。その20万人は、15人の国際委員会のメンバーもずっと共有していて、それで、国際委員会のメンバーは占領日本軍に対し、20万人の市民を養うためのお米だとか、食料。そういったものを要求するための手紙を何回も出しているんです。ところが、それは全然、この20万人という数字が減らないわけです。その1週間後にも、20万人。10日後も20万人という感じで、ついに1か月後には25万人に増えると。これはおそらく兵農分離して、それで良民になった兵士、元兵士、これも入っているのだろうと思っているんですけれども。ともかく30万人をどうやって…。この影も形もない、もし何らかの民間人に対する殺害があれば当然、それを抗議して書くはずです。まったく記録がないですよ」

『大量虐殺』はあったのか?
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日本軍兵士の日誌より(昭和12年12月16日)

第8中隊・伍長 二万の内三分の一、七千人を今日 揚子江畔にて銃殺と決し 護衛に行く、そして全部処分を終わる、生き残りを銃剣にて刺殺する。
断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり 第19連隊・上等兵 五千名を揚子江の沿岸に連れ出し 機関銃を以て射殺す、其の后 銃剣にて思ふ存分に突刺す、自分も此の時ばかりと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう
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秋元キャスター
「捕虜の大量処刑があったのか、なかったのかについては?」
山田教授
「現在お読みになったのは、第13師団の山田支隊という部隊が、いったん確保した捕虜を2日にわたって揚子江岸に引き出して、機関銃で射殺して、このあと揚子江に遺体を流しちゃうんです。それで証拠の隠滅をはかったということです。多くの人がこのことを日記に、この部隊は書いていまして、中には将校で、どうしてこれは軍命令としてこれがきたと。食料がないから、日本兵も餓えている状態だから、とても捕虜を養えないから、この処分を決したんだと言うことを日記に書いている人もいます」
反町キャスター
「完全に降伏して武装解除した、降伏している捕虜の殺害ということになるわけですよね?」
山田教授
「いったん収容所に入れて、そこから引き出し、わざわざ連れて行って、それで組織的に殺害しているわけです」
反町キャスター
「7000人、5000人と言っているが、虐殺に入る?」
山田教授
「これは虐殺だと思います。これを虐殺と言わなかったら、何も虐殺ではなくなっちゃいます」
藤岡客員教授
「確かに資料を一方の側から見れば、そういう観点で拾っていけば、そういうふうに再構成できなくないかもしれないけれど、しかし、事件の全体にはそれ以外の要素があるわけで、ですから、私は現在2人の話は随分聞かされたなということで、思い出すことですけれどね。だけど、これも軽々には即断できないことだと思いますね」
反町キャスター
「2つの日誌は嘘なのですか?」
藤岡客員教授
「嘘ということではなくて、心優しい日本人は、そのように痛みを感じて、そういうことを書いていると思いますよ。だけど、その一部分を取り出して日本軍の虐殺だというのは、私は早計だと思っています」
秦氏
「現在のお話は、幕府山の近くで1万4000人と言われている、朝日新聞が端数まで書いていますよ。要するに、それをバラックに1万4000人すし詰めになって、明日の飯をどうしようかというようなことまで書いているのですが、これは南京陥落の翌日です。要するに、城内から逃げ出してきた連中がたくさんいまして、これはおそらく兵隊は、半分はいなかったと思う。老幼男女いろいろいたんですね。これをどうしようということで、13師団の司令部で電話をかけたわけですよ。松井さんの司令部に。松井司令官は釈放しろと言ったんです。これは、それまでは中国兵は弱いから、無理やり兵隊にさせられているのだから、釈放すれば、それぞれにのぼりを立ててそれぞれの故郷に行ってしまうと。戦力にならない。これが非常に有力だったと、中国軍の処理については。ところが、上海戦では中国軍は精鋭部隊が出て戦ったのだが、ちょっと話が違った。それで松井司令官のところへどうしましょうかとお伺いを立てたところ、松井司令官は釈放しろと言ったんですね。そうすると、そこにいた長勇という有名な暴れ者の参謀がいまして、それが、やっちまえ、と電話で怒鳴ったんですよ。だから、命令違反ですよ。長はそれを自慢して、俺は何万も殺してやったということで。安全区でやった7000人よりもこちらの方が酷いですね。民間人が入っているのを承知のうえでやったわけですから」
藤岡客員教授
「そういう解釈が盛んに言われてきたことで、私も知っていますけれども、どっちみち戦闘行為は同じようなことはあちらこちらで起こっていると思いますよ。日本軍が捕虜の収容所をつくっていないということは、まったくつくっていないと言うことは嘘ですけれど、予想以上の捕虜が来てしまった。どうしようかと。そういうことがあちらこちらで生じているわけですね。たとえば、戦闘で投降してくる兵士がいるわけで、他方で攻撃してくるやつがいる。と言うようなことにどう対応するか。非常に難しいわけですよね。そういう戦場で起こったいろんなことを、一方的に日本側だけに非を求めるという、戦後のスタンスというものは、私は見直してほしいなと思っています」

歴史を直視せよ 日中論争の行方は?
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日本政府の見解(外務省HPより)
日本政府としては日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。
しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。
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秋元キャスター
「日本は南京事件をどう総括して、世界に向けて歴史認識を打ち出してくべきなのかについては?」
山田教授
「南京事件というのは日中戦争における残虐事件の最たるものであると。それを象徴するものだと思います。そこで起こったことはいったいどういうことなのかということを、日中双方で冷静に検証する必要があると思います。これは被害者の声を無視してこれを検証することはできません。ですから、いろいろなわからないファクターはあるんですけれども、その被害者の声に耳を傾けることが大事だと思いますし、日中戦争の記憶というのは極めて重要なものであるにも関わらず日本社会の中である意味タブーとして触れられてこなかった、継承されてこなかった部分ですね。これは体験者が、つまり、親が子、あるいは孫に語れないことが多すぎるからです。しかし、非常につらいことではあると思うんですけれども、裏側の記憶も含めて歴史的事実を直視して、その記憶を継承していく、これが非常に大切なことだと思います」
秦氏
「私は、南京事件については、政府の公式見解がありますよね。ですから、これに対して異を唱えると、それで、たとえば、ユネスコから撤回しろという話を持っていくと、日本政府に先に言ってちょうだいよと、まとめてからこっちに持ってきなさいと言われるに決まっているんです。しかも、登録は済んでしまったわけでしょう。ですから、これを現在から蒸し返して見ても、ちっとも生産的にならない。向こうも象徴的な数字として30万人ということを掲げている以上、撤回は絶対にしません。不毛な論争はやめた方がいい。むしろ記憶遺産がさらに悪用されないように、いま悪用されようとしているわけですよ、来年の春に。ですから、そちらに全力を注ぐと。それから制度改革です。これはユネスコ側ももっともだということで、皆その必要性は感じているわけですよ。ですから、その基準をどうしたらいいかということで、19世紀以降の現象は対象にしないと。これなら皆、賛成すると思うんですよ」
反町キャスター
「記憶遺産に入れない」
秦氏
「入れない、対象にしない」
藤岡客員教授
「南京事件を一言で総括すると、南京戦はあったが、南京虐殺はなかったという命題に私はまとめられると思っているんです。南京虐殺はなかったということだけを言うと趣旨がわからない。南京戦はあったんです、間違いなく。殺し合いはありました。けれども、それは南京虐殺ではない。南京虐殺はなかったということです。それで先ほど、山田先生が最初に、軍民10万人で、埋葬記録が15.5万人とおっしゃいましたが、崇善堂というのは、架空の団体というのか、やっていないということは証明済みですから。そうすると、紅卍会の記録は4万人ですが、これは実際には3倍に水増しされていて、これは丸山進さんという方が責任者で埋葬をやったのですが、実数では1万5000人から8000人くらいです。ですから、30万人の死体もないわけだし、それから、ほとんど戦闘によって死んだ人で、男性の比率が圧倒的に多いわけです。ですから、それは戦闘の死者であって市民の虐殺とは関係のない次元の話だと。だから、埋葬から入っても、人口から入っても、いろんなルートがありますけれど、どのルートから入っても、日本軍による組織的な民間人の虐殺は一切証明されていないです。ですから、そういう意味で、私は世界に向かって、南京虐殺はなかったということを踏まえて、少なくとも政府見解の中にはなかったという説も含めて諸説あると言うくらいにしないとですね」
反町キャスター
「政府見解から直すべきだという意味で言っています?」
藤岡客員教授
「私はそう思います。日中共同研究で北岡さんは、要するに、検証の結果、限りなくゼロだという立場の研究書が現在もう20数冊出ているわけです。それを一切無視して、引用せずに報告書を書いていますから。私は非常に偏っていると思うんです。そういうことから脱して、もうちょっと柔軟な幅のある表現にした方がいいと思っています」

山田朗 明治大学教授の提言:『歴史的事実を直視する』
山田教授
「あったことはあったものとしてきちんと直視するということですよね。それは感情において忍びない、プライドを傷つける、いろいろあると思いますけれども、歴史的な事実が何であったのか、これをベースにしなければ、何の議論もできませんし、私達の認識も深まらない。これが1番大事なことだと思います」

現代史家 秦郁彦氏の提言:『あったことは否定せず、訂正すべき部分は直すようにする』
秦氏
「あったことは認めた方がいいと思います。しかし、訂正すべき部分はいろいろとあるわけですよね。そこについては大いに議論したらいい。それを全否定するというのはまずいと思いますね」

藤岡信勝 拓殖大学客員教授の提言:『行き過ぎた美徳は悪徳になる。声をあげ、気概をもて』
藤岡客員教授
「お二人は心優しい日本人の美質をたくさんもっていらっしゃって、相手に言われてないことまで調べて日本が悪かったということをおっしゃっているわけですね。だけれど、実際には日本兵が南京で子供達と本当に楽しく交流し、それから、屋台が出て日本兵がお客さんになって、それからハンコまでつくった人もいるんです。そういう証言なども私どもも聞く機会はありましたけれども、確かにサディストみたいな人がいたかもしれません。しかし、同時に、大部分の日本の将兵は非常に心優しく、真面目に戦争に関わっていた。ですから、私は、確かに日本人の美徳だけれども、行き過ぎた美徳は悪徳になると思いますね。ですから、声をあげ、気概をもてと私は言いたい。今日は2対1ですから、なかなか十分に言えなかった点がありますけれども、私は決して事実を捻じ曲げるという意味ではなく、事実を事実として見れば、だいたい記憶と言ったって、中国は何をしてきたのかと言えば、6000万人からの自国民をいろんな機会に殺害してきたわけですよ。20世紀で1番人を殺したのは中国という国です、国家の中では。その記憶はどうなるんだということになります。間違った南京大虐殺という話はもう願い下げにしていただきたいと思っています。そういうことをはっきり日本人は主張すべきだと思っています」