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2015年9月22日(火)
五輪エンブレム再公募 創作と模倣の境界とは

ゲスト

松尾貴史
俳優・タレント
山田奨治
国際日本文化研究センター教授
福井健策
骨董通り法律事務所 弁護士

五輪エンブレム撤回 ネット大炎上の背景は?
秋元キャスター
「まずオリンピックのエンブレムが白紙撤回されるまでの経緯から見ていきたいと思います。7月17日に新国立競技場デザインの白紙撤回というのがありました。その1週間後、7月24日にアートディレクターの佐野研二郎氏のデザインを採用した公式エンブレムというのが発表されました。ベルギーの劇場ロゴをデザインしたデザイナーのオリビエ・ドビ氏がエンブレムの使用差し止めを申し立てています。それを受けて、8月の5日に佐野氏が記者会見を開きまして、盗用との指摘はまったくの事実無根と独自性を強調しました。しかし、8月半ばに佐野氏のデザインのキャンペーン商品について、スタッフが第3者のデザインを写していたことが発覚し、佐野氏に対する疑惑の声というのが高まります。8月28日に大会組織委員会は、佐野氏の原案を公表して、デザインの独自性を主張するのですが、それも、またネット上で、別の展覧会のポスターに似ていると指摘される中、佐野氏自身が取り下げを申し出る形で、9月1日に白紙撤回を発表したという流れですけれども、まずは山田さん、今回の騒動、どう見ていますか?」
山田教授
「こういった騒動が起こる背景が整っていたと私は思うんです。つまり、それはいくつかの要因があって、第1にこういうシンプルで、幾何学的な要素の組みあわせで表現するという、近代デザインの1つの流れです。それは19世紀のロシア革命の頃に起源を持つ、1つの流れ、構成主義という流れですけれども、それは単純な図形の組みあわせであるが故に、見た目に似たものが生まれやすいんです、どうしても。それが第1点です。第2点目として、これも近代特有の考え方として独創性を重視するという考え方。第3点に、オリジナルなものを生み出すのを、まるで神の如きの存在としての作家というものを崇める傾向。この構成主義と独創性と作家性の近代独特の考え方に現代のインターネットの情報集積力であったり、探索力であったり、発信力といったものが加わることによって、構造的に生み出されている現象だと思います。もちろん、実際、盗用したかどうかなんてことは佐野さん本人にしかわからないことですけれども、盗用がなかったとしても、こういう問題が起こる構造があると考えます」
反町キャスター
「山田さんの感覚でいうと、これはアウトなのですか?セーフなのですか?」
山田教授
「元の作品に著作物性があるかどうかという問題があるんです。著作権の構成というのはこういう応用美術と言いますか、こういったものにかなり厳しい構成をとっているんですね。よほどの美的な要素を持っていて、鑑賞の対象にならないと、著作権で守られるものにならない。ですから、デザインの世界では普通は商標でやるわけです。登録制の商標権で守ります。そういう法的な背景を前提にデザイナー達は仕事をしていますので、法的にかなり著作権が安全だと。主な主戦場は商標になるわけです。世界がそういう前提ででき上がっていますので、それを今回大騒ぎになっているように、著作権の問題があるということを言い出すのはデザインの世界自体を狭めてしまう恐れがあるので、私は、これは類似としない方がいいと考えます」

著作権法的に問題は?
反町キャスター
「福井さん、著作権と登録商標という言葉が山田さんから出てきました。この2つの区別。簡単に教えていただけませんか?」
福井氏
「どちらも知的財産権といわれるものの仲間ですけれども、まず著作権。これは典型的にいうと、文章とか、音楽とか、あるいは映像とか、人が創作したと言えるような作品、情報に対して生まれる権利です。すごく強い権利です。全世界で自動的に守られるんです。つまり、人が似たものを使っちゃいけないのです。期間がとても長いです。権利の種類も強いです。そういう強い権利であるが故に、先ほど山田さんからも指摘があったけれども、あまり組みあわせが有限であるような図形であるとか、文章。こういうものに著作権を認めてしまうと、世の中、使えない情報ばかりになってしまって、どんなマークをつくっても、何かの著作権侵害だということになりかねないです。ですから、シンプルな図形とか、比較的定型的な文章の著作権は認めない。著作物ではないと、こう考える。では、それをどうするんだというと、こういうマーク、シンプルなマークは商標だったら守られるわけです。これは商標権という別の種類の権利で今度は登録が条件です。しかも、国ごとです。だから、ある国や地域ごとに登録をすることによって権利が認められ、幅も比較的狭い。期間は更新可能だけれども、デフォルトで言うと短い。いわば弱い権利だ。弱いが故に、ややシンプルなマークに認めても、それほど問題は少ない。そういうように、バランスをとっているんです。2つの権利のいわば役割分担です。確かにこの種のマークは、まず商標で考えるのが普通、原則であり、今回、リエージュは商標登録をしていなかった。だから、敢えて著作権で攻めてきたみたいな、そんな文脈でしょう」
松尾氏
「モノをつくるということに関しては、グラフィックデザインの世界で言うと、アイデアがすごく大きいと思うんです。アイデアというのをゼロから生み出すことはあり得ないと言い切っていいと思うんです。つまり、既存のエレメントの新たな組みあわせというものがデザインをするとか、あるいは表現をするということの手法にほとんどのものに通底をしているのではないかと思うんですね。佐野さんが言っていることを引きあいに出すと、つまり、デザインに対する考え方というのがすごく大きくものを言うのではないかなと。ほとんど似た形は世界中にある。デザイナーの数だけ、あるいは小説家の数だけ、画家の数だけ。もちろん、音楽もそうですけれども、どんどん毎日、毎日、作品が増えているわけです。地球上に蓄積していっているわけですよね。技術が発達し、先ほど、検索する力というのが、ネットの力によって、発信する力もあるというようなことで、見つけ易くもなり、チクリ文化というのが当たり前の形になって、まして、大きなものに対して、嫉妬の感情と言ったら言い方がきついかもしれないですけれども、何か引っ張り落としてやろうという気を持っている。負のエネルギーを持っている人達は、それを躍起になって探し始めると、どんなものをつくっても認められない世の中になってしまうのではないかなと危惧します」
秋元キャスター
「福井さん、今回の騒動をどのように見ていますか?」
福井氏
「現在、お二方のお話を伺って、非常に同感のところが多くて困ったなと。争点がないなと思いながら、伺っていたんですけれど、このエンブレムだけに絞って言うなら、法的には著作権侵害の可能性は低く、おそらく。それだけについて言うなら、撤回の必要性は必ずしもなかったと思うんです。ただ、その周辺の、たとえば、図案の流用だとか、そういう問題は別であって、そこにはクロの部分があったと思うわけです。あわせて同時に考えさせたことは2つあって、1つはそういう法律論。時にはまったく異なる文脈で必ずしも同じ文脈ではないもので出てくるウェブ世論という、非常に大きな力、これが立ち上がってきて、そのウェブ世論が現実の国家政策さえ変える力を持ちえたと。それは時には、松尾さんがおっしゃったように、非常に個人に対して苛烈といってもいいような、大きな力。時には暴力にすらなるわけですよね。しかし、もちろん、いい面もあるわけです。我々はそれとどう付きあっていけばいいのかという、このウェブ世論との関わり方という課題を突き付けられたなというのが、1つ感じるところ。それは、著作権や知的財産権の面でもそうである。それから、もう1つは、これはオリンピックの運営体制そのものを取り巻く不信感とか、不満感とか、そういうものを人々が、組織委員会、あるいは運営側に対して突き付けた大きな警鐘のようなものだったのではないかなと感ずるところがあるんです。このオリンピックの招致が決まったあと、人々が何かこれは一部の人々が、自分達に都合のいいように物事を進めようとしているのではないのではないかと。たとえば、全体からすれば、小さいことでいえば、エンブレムの選考プロセスしかり、あるいは先ほどから出ている競技場の問題しかり。もっと言うと、組織委員会の、たとえば、理事の方の顔ぶれですね。極端に政治家寄りで、極端に平均年齢が高く、おじさん寄りである。たとえば、女性の比率、若者の比率、文化人の比率。文化発信イベントは今や常識だと思うんだけども、文化人の比率が極端に低いですね。そういう中で、競技場の問題や今回のエンブレムの選考みたいに自分達の都合のいいように進めているのではないかなというような不安感。本当にこれが皆のお祭りになるのかしらと。皆が楽しんで祝福できるような国家イベントになるのかしらという、そういう想いが象徴的に、このエンブレム問題に流れ込んできたようなイメージを自分の場合は受けたんです」

白紙撤回の背景
反町キャスター
「福井さん、先ほどの話だと、これはシロ、クロで言ったなら、これはクロではないという立場でみているんですね?」
福井氏
「これはおそらくシロですし、法的には。これが著作権侵害であろうという知的財産権の専門家はほとんどいないと思います」
反町キャスター
「では、どうしてそういう状況の中で、戦えば、負けない可能性が高いと皆が思っている中で、なぜ今回、取り下げたのかということについては、1つの考え方として商業主義があるのではないかという指摘があります。ここまでケチがついてしまったエンブレムを使い続けることに対して、大会のスポンサーにあがっている大手企業のうちの何社かに、これは使いたくないよ、と言われてしまったと。それに対して、組織側が抗しきれなくなって取り下げを決定したという情報も、僕ら聞いたりしています。オリンピックにおける商業主義。エンブレムというのは、その使用権を売り買いする部分もあるわけではないですか。商業主義によって今回取り下げることになったかもしれないという、この経緯についてはどう感じますか?」
福井氏
「2つ言えると思うんです。1つは、おっしゃる通り近代オリンピックというのは、公式スポンサーからのスポンサーシップ収入。これに大きく依存をしているわけで、そうでないと現在あるような規模、内容でのオリンピックの開催は難しいと思うんです。スポンサーは商売ですから、株主のために最善の利益を追求するのが仕事ですから、当然だけれど、宣伝効果の上がらないようなエンブレムでは困るわけで、そのような要望を出してくるのは、彼らの立場からすれば当然でしょう。そういう突き上げを受けて、それが組織委員会の方針に影響を与えた可能性は確かにあるだろうと思います。もう1つ言えるのは、日本の企業はというか、日本人は裁判が嫌いですよ。裁判沙汰になること自体が推定悪という前提はあるでしょう。たとえば、裁判そのものをショーとして楽しんでしまうようなアメリカみたいな国民文化、あるいは時には企業風土があれば、これはおそらく負けないから。ベルギーの裁判だって話題づくりでいいではないかと。過去のオリンピックや巨大な国際イベントだって、この種のクレームというのは確かに少なくないです。リオの五輪でもあったはずですから。ですから、そんなのは戦いながらどんどんやっていけばいいではないかという考え方もあり得たかもしれない、あの国ならば。しかし、日本では裁判を抱えながら、そんなお祭りはやりたくないよと。裁判を抱えながら公式エンブレムの宣伝広報はできないよという発想を持つ人は多いのではないですか」

創作と模倣の境界とは?
秋元キャスター
「3人とも著作権の侵害には当たらないのではないかという意見だったと思うんですけれど、そうなりますとわからなくなってくるのが模倣ということとアイデアを貰う、インスパイアされる。この線引きはいったいどこなのかということなのですが、山田さんはその線引きはどこなのでしょうか?」
山田教授
「歴史が積み重なっていくとある分野での表現というのはどんどん出尽くしていって、蓄積が多くなっていくわけです。そうすると、表現の出てくる幅というのがどうしても狭くなってくるわけです。かつて和歌だとか、江戸時代の俳諧だとかというものを見ると、そういう状況が生まれているんです。歴史が積み重なるにしたがって新しいものが出にくくなると。そういう時にどう考えたかというと、作品の類似というものを、表現の類似と趣向の類似に分けて考えるようにしたんです。たとえば、松尾芭蕉と、その弟子の向井去来は、表現も趣向も類似しているものはダメだと。ただし、表現は似ていても、趣向が違っていれば、別の作品と考えよと論じています。つまり、表現は似ていてもいいと。ただし、趣向やアイデアやコンセプトまでは同じものはダメだと。こういう考え方を、もっと我々は振り返ってみてもいいのではないかと思います。つまり、趣向の違いを嗅ぎ分ける。表現上、似たものの奥にある趣向の違いを嗅ぎ分けるということを楽しむというわけです」
反町キャスター
「福井さん、表現と趣向の違いを嗅ぎ分けるという、この話というのは、法律の世界においてはアリなのですか?特に国内的にアリなのか、なしなのか。国際的にアリなのか、なしなのか。そこはどう見たらいいのですか?」
福井氏
「著作権の世界でも趣向をコンセプトと言い換えるならば、表現とコンセプトやアイデアの区別というのはすごく重要です。その前提として、先ほど、反町さんが、どう考えればいいでしょうかと言われた。それって、私はバランス論だと思うんです。それで、先ほど出ている通り、我々の文化や文明にはどうしても模倣という要素は必要ですよね。それがないと我々の文化は必ず停滞するし、失速します。しかし、一方においては、人が苦労してつくり出すという営みは営々としてあるわけで、それを丸々、言ってしまえば、パクッてしまい、それで稼いでしまう人。典型的に言うと海賊版ですね。これがどんどん行っては困る。これは事実です。オリジナルは一定程度、保護しなければいけないというか、保護するべきだという立場に我々は立っている。つまり、模倣の自由をある程度認め、社会の自由さを認めていく一方で、オリジナルを守ってやる。このバランスをどうとっていくかです。今回の問題だって、いろいろ言いながら、要するに、バランス論だと思うんですよ。バランスをとるために、著作権とか、そういう法制度はいくつかのセーフガード。いかにバランスをとるのかという仕組みを持っています。たとえば、そのうちの1つは、ありふれた定石的な表現というのは独占させない。人の作品の中でもその中のありふれた要素や、定石的な一文を借りてくるのは構わない。なぜなら、そんなものを独占させたら、新しい文章を誰も書けなくなっちゃう。それから、実を言うと、作品を見た時にそこからアイデアを借用するのは構わないよというのが、現在のセーフガードになっているんです」
反町キャスター
「アイデアを借りるのは模倣ではないのですか?」
福井氏
「法律上のセーフガードは、アイデアは自由です」
松尾氏
「たとえば、ハリウッドの映画で、主人公に目的があって、それに対して障壁がある。それを乗り越えたら第2の障壁がくる。それを遂行するにあたって最後の方で1番の協力者だと思っていた人が裏切り者だったというような、いくつかのひな形があって、そこに脚本をぶっこんでいってハリウッド映画のハリウッド映画たる盛り上がりをつくるという手法が一時あったんですけれども、それに関して、この順番はパクリではないかとはならないですよね」
福井氏
「まさにおっしゃる手法もアイデアのうちですね。たとえば、アニメーションで言うならば、ストップモーションアニメーションというのは最初誰かが開発しているわけです。もちろん、1人ではなくて、徐々にではあるけれども。最初は誰かが開発をしている。それを開発した。これはアイデアですね。素晴らしいアイデアだ。それを開発した人からすれば、自分に黙って同じストップモーションで次の作品をつくった人というのは不愉快に見えたかもしれない。売上げの半分を持っていってしまったように見えるかもしれない。でも、それを禁止したらどうなるかと言ったら最初の許可なしに誰もストップモーションアニメなんてつくれないわけです」
反町キャスター
「そこで著作権なり、何なりを認める、特許でもいいです、認めることによって最初につくった人の独創性を守る。そこに金銭的な費用負担を発生させることによって、独創性や想像力というものを守るのが法律ではないのですか?」
福井氏
「そこに今度、著作権の強さという問題が出てくるわけです。著作権というのは、期間がすごく長く、最初のクリエーターの生きている間の全期間、及び死後50年間。現在、アメリカ、ヨーロッパだったら、死後70年。合計100年ぐらいその作品を独占させる制度です。幅もとっても強いので、ほぼほぼ後続者は公には使えなくなります。もし今言ったストップモーションアニメーションというのを100年間独占させて、その人が狭量な人で他の人には認めないと。遺族が出てきて、とてもではないけど、お金を積んでもらえないのだったら他の人には認められないと言ったら、100年ストップモーションアニメーションは進化が止まるんです」
松尾氏
「表現というものは、もう出尽くしているのではないかというような悩みが常にあって、安野光雅さんという画家の方と福田繁雄さんというグラフィックデザイナーの方が2人ともトリックアートの大家で有名ですけれども、対談をなさっていて、ご自身も若い時に編集者やいろいろな先輩方に叱られて、もう新しいものなんか何もできないのではないかなと悩みながら、中央線に乗って、電車の中、乗っている人の顔を見ると皆、顔の順番、配置されている道具建ては同じなのに全員違うということに、ふと気がついた。これはまだやりようがあるのではないかと元気づけられたというお話があったんですね。それを読んで、ああなるほどなと。それが、つまり、顔のオリジナリティと言っても困りますけれども、つまりは皆、違うんだけれども、どういう思いをして、どういうことをして生きているかということと、似ているということの価値のバランスというかな。どちらかで判断をされるものではないなということをちょっと気づかされたことがあります」
山田教授
「今回、問題がオリンピックのエンブレムとベルギーのロゴとの類似性の問題に集約されてしまったんですけれど、佐野氏が込めた重要な趣向として、たとえば、白黒を反転させたら、パラリンピックになるとか、もっと重要な点は展開力ということがありまして、そのロゴを3×3、9分割して、要素をバラバラにすると、様々に活用ができると。そこが佐野エンブレムの1番の売りだったし、この審査委員会が1番評価した点だと思うんです。その重要なことについてあまり論じられず終わってしまったという点がちょっと残念だったかなと思います」
反町キャスター
「その議論を進めると、いわゆる簡単なパクリかどうかなんていう議論ではなくて、佐野さんがつくったこのエンブレムというものが、いかにオリジナリティに富んだものかということの論証になったという意味で言っていますか?」
山田教授
「かもしれないですね」

修正2回・審査のあり方
秋元キャスター
「五輪エンブレムの決定までの経緯に問題があったのですか?」
松尾氏
「1970年の大阪万博時のシンボルマークが、ある偉いさんが、印象が親しめないのではないかというような意見があって、それが撤回されたことがある。それ以外の応募作品であった、大高さんのシンボルマークになった。なぜ1位の方の問題が見つかって、他の上位作品にいこうという意見がまったく出なかったというのかが不思議ですね」
山田教授
「最初に佐野さんが記者会見した時、この説明をすればよかったんですけれど、絶妙のタイミングであと出しをしました。効果的に燃料を投下したなと」
福井氏
「一企業の広告だったら、コンペのあとでスポンサーの要望で手直しなんていうのは当たり前のことだと思うんだけれど、仮にも世界的イベントの五輪のエンブレムですよね、ちょっとセンスの悪さを感じざるを得ない。選考が公正なのという疑問を抱かせるような選び方にいつの間にかされちゃっていて、最後にこれだけが出てきたというあたりにセンスの悪さを感じるんですよね」
山田教授
「佐野氏の原案がヤン・チヒョルト展に似ているという話がありましたよね。ヤン・チヒョルト展のポスターと原案の類似というのは、最終案とベルギーのロゴの類似よりも遥かに類似していると思うんですよね。しかも、佐野さんは展覧会に行っているんですよね。ロゴは記憶にないと言っているのですが、行ったことは認めてしまっていますので、依拠性をある意味、認めてしまったところがあると。原案とヤン・チヒョルト展のポスターの類似が遥かに問題であると感じています」

ネット社会の力
秋元キャスター
「撤回された理由にはネットの影響が大きかったと言われていますが」
山田教授
「今やネットは多くの人が使っているツールですので、その影響力はとても大きいと思います。エンブレムの展開例における写真の流用ですとか、トートバッグの模倣を炙りだした点については非常に大きな力を発揮したと思います。ただ、1つ残念なことは、そのパワーがデザイナーの個人攻撃にも向かってしまったということ。それと、ここ何年かの傾向なのでしょうけれど、大きなメディアが情報ソースとして積極的にネットを活用し始めているという状況があると思います。かつネットの議論をメディアが検証せずに無批判に取り上げてしまっている傾向がある。それは言葉を返せば、メディアの力が落ちているということなのではないかと思うんです」
反町キャスター
「大手メディアがかえってネットメディアの意見を拡散させていると。そこに何らかのフィルターがない?」
山田教授
「メディア自身の批判精神がちょっと弱くなっていると思います」
松尾氏
「たとえば、週刊誌だったり、新聞だったり、本人を出します、テレビに取り上げますとなると、その間にチェックするということが何段階もあって、そこらへん吟味というプロセスがある。ネットの場合は、本当にでたらめであっても、アンフェアな状況であっても、何でも出したらあっという間に世界中に見られるという歪んだ力を持っている部分も確かにある。その中で、負の力を出してしまうのが、匿名性。1つは告発するとか、大きな組織の圧力を受けずに何かを世の中に知ってもらう時には役に立つのですが、現在噴出しているのは、鬱憤だったり、嫉妬だったり、抑圧されたエネルギーが、匿名というところであけすけにいくらでも放出することができるというのが、人々が拡散することで、掛け算で核分裂のようになってしまうところがあると思います」
福井氏
「ネット自身はフィルタリングの機能をたくさん持っている。自分と同じような意見だけを耳にしながら生きていくことがネット上では可能ですよね。そうすると、ある種の意見はすごく先鋭化しやすいわけです。そういうものが信用性の担保とか、必ずしも検証されないで、断片化されるのが当たり前な状態で、速く拡散するわけですね。言ってみればネタと信憑性のある情報を、ほとんど区別がつかないまま、拡散する力を持っている。そうなると、どうなるのかと言うと過剰性が特徴になってくる。たとえば、怒りも一気に過剰にガッと高まる、褒める時も一気に高まる。法律に関しても過剰な順守を求めるような声になることになる。世の中には既存の情報がたくさんあるので、どれとも似ていないことは非常に難しいし、コピペをまったくやっていない人はたぶん1人もいないんですよ。ネットユーザー自身が日常的に結構やっています。大げさに言えば、多少許しあいながら、存在しているようなところがある。それを問題ではないかと過剰に、法律をまるで完全に順守しなければいけないように炎上させることも可能になっているわけです。そうすると、不機嫌な社会というのか、不寛容な社会というのが、時に高まりやすくなる。このことがこれまでの著作権のルールにさえ変容を迫ってくるし、いろいろなビジネスのやり方や、デザイナーの生き方とか、こういう国家イベントの運営の仕方とか、いろんなことに変容を迫ってきていると感じるんですよね」
反町キャスター
「マスメディアがネットのものを無批判に扱っているのがポイントでもあると思いますか?」
福井氏
「100%あると思います。いや、95%ぐらいあるのではないですか。1つにはマスメディアだけでなく、自民党の政治家も対処の仕方を全然学んでない感じがして、恐れ過ぎるところもあります。メディアの皆さんもネットで騒ぎになっているという時、実際において、その議論を指導しているのが何十人なのか、何百人なのかを計測する方法はまだ持っていないでしょう。何か騒ぎになっていると。本当は全体のうちの1%かもしれない。それすら検証できない中で、これがネットの声であるというのはちょっと…」

五輪エンブレム再公募 国民の理解を得るために
秋元キャスター
「新デザインの再公募に何を望んでいますか?」
山田教授
「デザイナーの方々には萎縮はしてほしくないですよね。このレベルの類似を問題にされるならば、仕事ができないという危機感があると思うんですね。どんな表現をしたとしても似たものはどこかにあるし、それが見つけられやすくなっていることは前提にしなくてはいけない。それに対してデザイン界がどう応答するかが問われていると思うんですよね。おそらく名のあるデザイナーは出しにくい。むしろ若手の方とか、広く一般市民にも、自分には失うものがないと思っているような方がチャレンジし、グラフィックデザインの新しい潮流をここでつくり出すのだという意気込みを見せてほしいと思いますね」
反町キャスター
「組織委員会の最大の責任というのはエンブレムの問題を起こしたことによって、チャレンジすることに、皆が身構えてしまうという風潮をつくってしまったと思って聞いていたのですが」
福井氏
「それをつくり出したのは何かと言うと、ちょっと古い形の運営、古い形の土建型、土建国家的なイベント像があったのではないかと思うんです。あれだけ政治家の比率が高く、平均年齢もちょっと高い、女性率も低い、壇上に男性しか並ばない、というのがあり得るのか。文化発信イベントは世界で常識だと思うのですが、文化人もいない。若い現役のアスリートも少ない。そういう中で、古い文脈の中で行ってきたことが今回の事態の遠因だったのではないか。それがいつの間にか、内輪で決まっちゃったという選考にも端的に出ていたと思うんですね。そういうことをあらためていくことで少しずつ開かれたものにしていくというのかな、まだまだ時間があるのだから、それは十分可能ではないかなと思うんですよね」
松尾氏
「招致時のエンブレムのデザインがとても浸透したし、皆が親しんだということで、本当はこのままでいいのではないのかという…お金のやりとりとか、そういうことがなければ、このままちょっと色あいを変えるぐらいで使えるのではないかという気もしたぐらいですよね。自由に、親しみが持てるものをどうつくっていくのかというのは、手練手管のプロフェッショナルがつくって、また、プロフェッショナルが集まってクローズドで選ぶということにならないようにしないと、同じ轍を踏むことになりかねないなと思いますね」

弁護士 福井健策氏の提言:『祭りは楽しむのがクール!』
福井氏
「世界的なスポーツの祭典であり、文化の、人々の集うイベントです。お祭りである以上は楽しむべきである。あらためるべきはあらためてもらいたいと思いながらも、今回のエンブレム(問題)で、自分が楽しく思ったのは、パロディエンブレムがいくつも出ましたよね、この問題が議論になったあとで。おでんでこのエンブレムの形を真似して、おでん70円セールですというのを出したり、ネット上にも随分パロディエンブレムが出た。そういう論争も含めて楽しんでいるよという姿こそ、世界の向けてのクールジャパンだと思うんですよ。いろいろあるけれども、来てよと、そんな議論をしていきたい」

山田奨治 国際日本文化研究センター教授の提言:『参加・説明・共感』
山田教授
「応募から審査に至るまで全てのプロセスに誰もが参加可能であることということが大事だと思います。実際、既にその方向に動き出しているようですので、このへんは大丈夫なのかなと思います。次に、デザインの趣向が何であるのか、つくった側、あるいは選んだ側がよく説明する。それと同時にデザインを見た側も、そこからどういう趣向を受けとったのかということを説明し、それを楽しむ。そういうプロセスを経れば、共感というものも生まれてくるのではないかと考えています。参加・説明・共感というのは、実は民主主義的なプロセスそのものでもあると思うんですよね」

俳優・タレント 松尾貴史氏の提言:『アマチュアリズム』
松尾氏
「オリンピックを表現する時に、枕詞みたいにつく言葉で、偉大なるアマチュアリズムというのがありますけれども、参加できる何か、別にアスリートではなくても参加できる意識、いろんな方達がいろんな形で参加できるというようなことを、演出力の問題もあると思うんですね。アマチュアというものが今度は参加することに意義があるという、近代オリンピックの父であるクーベルタン男爵の言葉に通ずるところが、どこか整合性を持ってくるのではないかな思います」