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2015年8月3日(月)
70年談話と過去の談話 作成のキーマンに聞く

ゲスト

石原信雄
地方自治研究機構会長 元官房副長官
北岡伸一
21世紀構想懇談会座長代理

戦前・戦後総括のあり方は 7人の総理に仕えて
秋元キャスター
「ゲストの石原信雄さんは、実に7人の総理の下で内閣官房副長官のお仕事をされてきました。その7人の総理大臣ですが、1987年の11月からの竹下元総理、宇野元総理、海部元総理、宮澤元総理、細川元総理、羽田元総理、村山元総理、この7人の下で働かれたということですけれども、石原さん、いろんなことがあったと思いますが、この7人の総理の中で、特に印象に残っている方はどなたでしょうか?」
石原氏
「竹下内閣スタート前の中曽根内閣の時に、靖国神社の公式参拝問題で大議論がありまして、中曽根総理は公式参拝をされたんですけれども、その反響があまりに大きいということで、事後、公式参拝はやめられるということがあって、それに対する賛否両論がいろいろあったんですけれども、そのあとを受けてスタートした竹下内閣から村山内閣までは少なくとも対中関係、あるいは対韓関係は、全体としては、比較的平穏であったと思います。印象に残っているということでは、竹下内閣の時には、中国との関係を、善隣友好を進めるというムードだったと思いますね。村山内閣では、ちょうど戦後50年という節目だったものですから、かつての戦争に対する反省というか、総括というか、そういうような考え方を村山総理自身強く持っていまして、それが村山談話という形でまとまったわけですけれども、私の印象では、あの談話を発表した時は、私はもう官邸を去っていたんですけれども、しかし、全体としては、そう大きな反発というか、そういうのはなくて、そういうものかという流れだったように思いますね」
反町キャスター
「靖国参拝の話をまず聞きたいですけれど、石原さんは、中曽根さんが靖国参拝をされたことによって日中関係がぎくしゃくして、それ以降、要するに、中曽根さん自身も靖国参拝を自粛され、そのあとの政権である竹下さんから村山さんに至るまではその問題、靖国の問題が大きな…、つまり、誰も行かなかったということですね」
石原氏
「行かないことについて閣議の了解があるとか何とかという説があるんですけど、私の記憶ではありません。ただ、何となく中曽根内閣の時のあとを引いていましたので、靖国参拝というのはあまり問題意識を持たれていなかったのかというのか、内閣として了解しなかった。政治家個人としてはともかくとして、内閣、あるいは閣僚としては靖国参拝をしようかどうか。あるいはすることの是非という、議論はあまりなかったですね」

歴代総理の歴史認識
反町キャスター
「中曽根さんがいて、そこで日中関係の問題があって、この石原さんが官房副長官を務められた7代の間というのは、誰も靖国に行かなかったという、この靖国参拝がなかった7代の内閣、この時代、石原さんから日中関係が比較的平穏な時代だったという話がありました。これはどう見たらよろしいのですか?」
北岡氏
「1つは、日本の経済力が大きかったですから、日本との関係を本当にこじらせたくはないというのは、中国も韓国も思っているわけですね。ですから、徹底した歴史会談をしようというのはなかった。それが1つ目です。それから、第2に自民党を右左真ん中と分けますと、右が岸派、基本的に。真ん中が佐藤・田中派。左に宮澤派、池田派、宏池会があるわけです。三木さんはそちらの方に入るわけです。これを見ると岸系がないですよ。だから、この田中系と、宇野さんは中曽根系ですけれども、ごく短期だし、海部さんは三木派と。宮澤さんは宏池会。細川さんは近いという意味では田中派ですけれど、これは新党だし、羽田さんは田中派と。村山さんは社会党ということで、基本的に、自民党の真ん中より左の内閣なんですよね。それが2つ目。3つ目に、中曽根さんは随分周到に計画をして行き、1回でやめると決断をされるわけですね。その準備はかなり十分にされたものなので、それをひっくり返すほどの強い動機は誰にもなかったということだと思いますね」
反町キャスター
「石原さん、そのあたり、副長官をお務めになった、この総理の中でとなると歴史認識問題について1番敏感と言いますか、踏み込みをした総理は誰かと、この話になるんですけれども、やはり村山さんになるわけですか?」
石原氏
「そうですね。村山総理は、村山総理が就任をされた時に、1番心配をされたのは安全保障条約をどうするかと」
反町キャスター
「それは社会党だからという意味ですね?」
石原氏
「社会党の、特に村山さんは左派の出身ですから、左派の主張というのは、安全保障条約を破棄しろという人でしたからね、その方が総理になられた時にどうなるのかという、それは外務省から、アメリカ大使館なり、国務省なりはすごく気にしていたんですよ。その点については、村山総理は安保を堅持するという決断をされたので、一応クリアをしたわけですけれどもね。しかし、その時には村山総理は総理として日本国全体の立場で安保条約を堅持せざるを得ないという判断をされたんですけれど、同時に、過去の戦争に対する思いというのは、ずっと持っておられたと思いますね。ですから、それが、翌年就任して、村山談話として出てくるわけですけど、はっきり言葉ではおっしゃらなかったですけれども、感じとしてはそういう感じはしましたですね」

村山談話はどう生まれたか?
秋元キャスター
「さて、戦後70年にあたり間もなく出される安倍総理の談話ですけれど、戦後50年の節目に出された村山談話をどのように継承をするのかというのが、1つ注目をされています。あらためて村山談話をこちらで見ていきたいと思います。『わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。疑うべくもないもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします』というものですが、この談話が出されたのが1995年8月ですけれども、石原さんは、2月に官房副長官を退官されていますけれども、この談話をどのように受け止められましたか?」
石原氏
「村山談話を出された時は、私は官を辞しておりましたので、直接文言について云々する立場にないですけれども、ただ、村山談話で述べられているような主旨、過去の戦争に対する反省、あるいは近隣諸国に対してご迷惑をかけたというような考え方、基本的な考え方というのは、村山総理は就任して間もなく東南アジアに行かれた時に談話を出された。これは閣議決定とか、そういう手続きを踏んでいませんので、いちいち一字一句議論をしたことではないですけれども、ただ、そういう考えを村山総理が持っておられて、それを談話として出されたことは覚えています。その時、村山さんの談話に対し、当時は自社さでしたから、自民党と社会党とさきがけの連立でしたけれど、自民党を含め、村山さんが東南アジアで発言されたことについて少なくとも閣内で異論を言う人はいなかったですね」
秋元キャスター
「村山談話の出る前の年、1994年、村山総理が東南アジアの国々を訪問して談話を出されています。『我が国が過去の一時期に行った行為は、国民の多くの犠牲をもたらしたばかりではなく、アジアの近隣諸国等の人々に、いまなお癒しがたい傷痕を残しています。私は、我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに対し、深い反省の気持ちに立って不戦の決意の下、世界平和の創造に向って力を尽くしていくことが、これからの日本の歩むべき進路であると考えます』ということですけれども、村山談話と似たような言いまわしも見受けられるんですけれど、石原さん、この談話は?」
石原氏
「私はこの時、官邸におりましたからそういう発言を村山総理がされたのは承知しています。その時、閣内から、これに対して異論を唱える人がいなかったように…私は、まったく耳にしていません」
反町キャスター
「これは訪問先でのコメントというか、談話なので、これは閣議の了解も必要ないですね?」
石原氏
「ええ、ただ、内容は、村山談話の内容とかなり似ているわけですから、ただ、主要閣僚から、これに関する批判とか、反対意見とか、私はまったく耳にしていなかったですね」
反町キャスター
「それは、村山談話を発表するにあたってはある意味、閣議決定をしていますね?」
石原氏
「それは、正式な閣議決定です」
反町キャスター
「その閣議決定をする直前に、政治の細かい話ですけれども、内閣改造をしていますね」
石原氏
「そうです」
反町キャスター
「たとえば、平沼さんとかが入閣をされたりしているわけですよ」
石原氏
「それは、私は改造前の閣僚の皆さんとは一緒に仕事をしていましたから、その人達の感触では異を唱える人というのは全然いなかったですね。村山さんが、東南アジアに行かれた時の発言については、それは新聞報道されていましたし、閣僚の皆さんも承知をしたはずですから、それに対する異論は全然聞こえなかったですね」
反町キャスター
「北岡さん、この東南アジアにおける村山談話。それが翌年の、本物のというか、閣議決定を経たうえでの村山談話につながっていく。その経緯をどのように見ていますか?」
北岡氏
「まだ内閣の側の注目は全然違いますよ。出先で総理が何を言うか、あまり気にしていないですよ。この間にあったのは国会決議ですよ。国会決議をやろうとして、国会決議は満場一致でなくてはいけないので、自民党から、非常に強い反対が出てたんですよね。それで非常にボコボコにされた、私はその作成に関わったもので、よく覚えているんですけれども。村山さん、これを出されたわけで、前と比べるとその4点セットみたいに言うけれども、お詫びというのは入っていないですね、最初のは。あとは同じですよ。お詫びも、お詫びの気持ちだから、反省の意と似ているんですけれどもね。私も、この中身は大して違和感はないんですよ。ただ、国会決議に対しての自民党の右派からの抵抗が非常に警戒されて。だから、平沼さんはたぶん反対だろうというので通常の閣議決定のプロセス、下から、事務次官会議から積み上げるのではなく、割合いきなりボンと出して決められたと、伝聞ですけれども、聞いています」
反町キャスター
「そういう意味では、村山さん自身も簡単には通らないかもしれないという緊張感を持ちながら、この1994年の東南アジア談話を基にして、1995年の村山談話に向けては慎重に進めて行ったと見ているのですか?」
北岡氏
「1994年は大丈夫だったんでしょうね。国会決議がうまくいかなかったというのは国会決議が何月だったんですかね。これより前ですね。その時に、これは、どうしても、総理談話を閣議決定ぐらいやらなければと思われたんでしょう。ああいう談話を閣議決定することはよくあるのですか?」
石原氏
「閣議決定をする場合としない場合とあって、それは閣議決定をとる形、内閣としての正式な意思決定ですから、非常に重いものになりますね」
北岡氏
「だから、国会決議が1番重いですよね。国権の最高機関で、満場一致ですから。それはできなかった。次善で、これを出されたのではないかと、私は推測しているんですけれども」
反町キャスター
「石原さん、世間というか、海外の評価は?」
石原氏
「東南アジアに行かれた時の、村山総理の談話というのは、私の記憶では、反発というか、あるいは物足りないとか、そういうのは全然記憶にないですね。比較的、そういうことがあったのかなという程度。だから、非常にそれをベースに外交問題になるとか、国内でもめるということはなかったですよ。だから、あまり強い印象が残っていないです」
反町キャスター
「ただ、歴史認識という形で言うと、東南アジア歴訪の際に言うということは、たとえば、インドネシアであるとか、タイであるとか、マレーシアであるとか、そういう国々に対する配慮をしての発言だと僕らは感じるんですけれど、ただ、歴史認識だと中国、韓国も意識した発言だろうなとは思いながらも、東南アジアで言うという意味。当時は東南アジアにおける反日感情というのは爆発寸前の、そんな険悪な雰囲気で、村山さんが是非そこで何らかの反省の意思を表明しなくてはいけないような緊張感があったのですか」
石原氏
「たぶん外務省がサポートしていましたから、その前、確か日本が経済的な進出を強めた頃で、タイで暴動があったんですね。ですから、そういう雰囲気を踏まえ、おそらく外務省の意見も反映をさせた、村山総理の現地の談話だと思います。ですから、あの時、私の記憶では閣内でもちろん、まったく議論になることはありませんでしたし、それから、当時の海外の反響もあまり印象に残っていないということは、そのままスッと受け入れられたということではないでしょうか」
北岡氏
「強い賛成も反対もなかったんですよ。これは東南アジアに行ったら何か談話を出しますよ。もっと有名なのは福田ドクトリンですよ。この時は、1995年は東南アジアに、そんなに反日感情はありません。1992年にカンボジアPKOをやったら意外に反発もなく、すんなり受け入れられたという、むしろそんな感じだったですね。これは村山さんが言いたいと言われて、強い反対も、強い拍手喝采もなかったと私も思っているんですけれども。それから、東南アジアは相対的には対日感情は悪くないですけれども、ただ、過去を振り返りますと、中国に次ぐ犠牲者を出しているのはフィリピンですよ。フィリピンは100万人以上の方が死んでいるんですよ。戦闘をやっていますから、日本が侵入した時と逃げる時と。ですから、膨大な数の犠牲者は出ているんですね」
石原氏
「フィリピンは確かに反日感情が強かったです」
北岡氏
「この頃から、だいぶ良くなってきていてね。だから、東南アジアで反省とか、謝罪を言うのは意味のあることではあるんですよ」
反町キャスター
「意味のあることであると言いながら、北岡さんのお話を聞いていると、たとえば、河野談話の時とかは石原さんが官房副長官を務めている時でして、宮澤さんが韓国を訪問する前に、何とか韓国における反日の感情を抑えなくてはいけないという背景もあって、河野談話のとりまとめを急がれたという背景がありましたですよね」
石原氏
「ありました」
反町キャスター
「それと同じような外交的な必要性が、東南アジアをまわるにあたって村山内閣はそれを持っていたのかどうか?」
石原氏
「私は、総理が東南アジアに出発する前に、いわゆる歴史認識的な問題というのが非常にホットなイシューになっていたという記憶はないですよ。ですから、むしろ村山さんがああいう発言をされたというのは、村山さん自身が村山総理自身のお考えで発言をされたということ。それはそのまま受け入れられたと私は理解をしています」
秋元キャスター
「村山談話は戦後50年ですけれど、小泉談話が戦後60年で、今年、出そうとされるものが戦後70年の安倍談話ということになりますが、10年ごとに戦争を総括する談話を出す必要性、これは?」
石原氏
「これは、私は、小泉談話というのは全然タッチしていませんから知らないですけれども、50年とか、70年というのは節目ですよね。節目ですよ、これは。だから、理屈ではなしに50年経ったら、50年を振り返って見て、どうかという節目だから、村山総理は、そういう思いを非常に強くお持ちだったと思いますね。だから、決してあの談話を出した時点が不自然だと思わないんですよ。50年という節目、戦後、あの戦争を振り返ってどうかということを総理が談話として発表されるということは、不自然な話ではないと思うんですよ。だから、今回はまた70年という、これも1つの節目ですよ。5とか、7とかですね」
反町キャスター
「5はわかるのですが、7も節目ですか?」
石原氏
「7も節目ですよ。いろいろな記念行事というのは、5周年とか7周年というのをやりますよね。7というのは、1つの節目ですよ。そういう意味で、私は、50年の談話とか、70年の談話というのは、節目として不自然ではないですよ。むしろ自然ではないでしょうか」
反町キャスター
「そうすると、同じ中身でもいい?」
石原氏
「それは、ただ、50年というのは、まだ過去に対するこだわりというのが強いと思うんですけれど、70年ともなると、過去に対する想いと、それから未来に対する想いと、その中間点にあるのではないでしょうか。こちらの談話は、北岡先生にご苦労いただいているはずですけどね」
北岡氏
「50年というのは、1つの区切りですよね。確かに。村山さんがやりましたと。70年は、私は、メディアが出さないのか、出さないのかというから出すんだと思いますよ。そうですよ。安倍さんから自分で出したいと言っているのではないと思います。そういう期待感があるから出すということで、もし何の声もなかったら出さないと思いますよ」
反町キャスター
「それは、たとえば」
北岡氏
「ちょっと待って、その前に、小泉さんは、何で60年かというと、あの時、私は国連大使だった時ですよ。安保理改革で中国は大反対をした。その時に、歴史カードを出してきたわけですよ。その時、あれが大騒ぎになった3月から4月ですね。4月のバンドン会議に行って、その延長線上にこれがあるんですよ。必然的にそういうものが出てくるわけで、今回70(年)でメディアが出さないかと言った理由は、安倍さんは歴史認識が違うのではないですかという、メディアの方の正しいか、間違っているかは知りませんが、そういう推測があって、出さないのですか、どういうのがいいのですかと言われて、安倍さんの方が出しましょうとなったというふうに私は理解をしていますけどね。それで、石原さんが言われたところでいうと、平和な時間が20年増えているわけですよ。前は50年ですが、今度は70年ですよ。戦争をした時間は切り方によりますけれど、仮に満州事変なら15年ですよ。15年対20年、15年対70年。そうすると、戦後を語る、未来に向けて語る部分が増えるのは、当然ではないですかね」

70年談話どうあるべきか 懇談会の方向性は?
秋元キャスター
「2月からスタートした有識者懇談会の雰囲気ですとか、内容ですとか、いかがですか?」
北岡氏
「村山さんのこれは、私はそんなに違和感がないですけれども、遠くない過去の一時期とはいつのことと思ったわけです、最初。これを見た時。だから、何でこうなったのかという話がないわけですよ、その歴史の流れというのは。だから、総理の考えとしてはどうしてこういうことになったのか、そういう歴史の流れを戦争に到る道、戦後の平和の道、今後どうあるべきかと、こういうことを議論して、1つの報告書にしてくれないかというので、それを議論しているわけです。ですから、戦前の総括もあれば、戦後の総括もあれば、これからどうしようという話も議論しています」
反町キャスター
「3つのパートからなると思っていいのですか?戦争に到るまでの経緯、戦後の日本、これからの日本と国際社会の関わり、こんな3つのパートからなると思ってよろしいのですか?」
北岡氏
「これはもう中身の話はどれだけやるかというのあるのですが、ただ、だいたいの議論はもうWebサイトで公開されているんですよ。最初は戦争に到る道をどう考えるかと。それから、戦後の発展をどう考えるのかと。そのあと他の国々、たとえば、1つは欧米、アジアとの和解をどう進めたかということをやって、それから、それはパート3、パート4ですよ。21世紀はどういう時代であるべきか、最後に具体的に今年どういうことをしようかということで5部、あるいは6部ぐらいの構成になっているということですね」

戦前・戦後総括のあり方を問う
反町キャスター
「先ほど、村山談話にあたって1994年、東南アジア歴訪の際の村山発言、それは1995年の村山談話の大きな強いベースになっているという話をしました。1つの例になるかもしれないと思って、今日用意してあるのが今年の4月のアメリカ議会における総理の演説です。これはザクッと2つのパートにわけてあるんですけれど、『戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての想いは歴代総理と全く変わるものではありません』と。この部分というのはいわば村山談話と重なる部分もあるような主にアジアの国々に対する反省の想いの部分です。それと、これも同じ上下両院の合同会議における演説にあった部分ですけれど、『真珠湾、バターン、コレヒドール、珊瑚海、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました。歴史とは実に取り返しのつかない苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙祷を捧げました』と。こういう演説の節も総理の演説の中にあったんですけれど、これはアジアに対してはこれまでと同様の表現でありながらも、アメリカ兵に対してはアーリントン墓地訪問のあとの想いを話されたと思うのですが、具体的にアメリカ兵の犠牲が多く出た戦地に言及し、真珠湾、バターン、コレヒドール、これはフィリピンですよね。珊瑚海海戦、そういったところの地名を具体的に述べ、深い悔悟という表現にしてあります。より具体的な地名も書き込んだうえで、深い悔悟という言葉を使った総理の想い。何かアジアに対する反省の想いと、アメリカに対する深い悔悟の想い、表現が非常に微妙に違うものを感じるんですけれども、どう感じますか?」
北岡氏
「考えすぎですよ。アメリカとの演説ですよ。アメリカ人がターゲットになるのは当たり前ではないですか。逆だったら変でしょう。アメリカに行ってアジアの話ばかり言って、何も言わなかったらおかしいでしょう。むしろ似ている面の方が多いのではないですか?」
反町キャスター
「『同じことを入れるのであれば談話を出す必要はないではないですか』ということで言うとどういう内容になるのだろうかという、この方向性、この時メディアが騒いだのは痛切な反省とか、そういう言葉ではなくて、そういう言葉が入らないのではないかとワッと騒いだんですけれども、そこは違うのか?その方向性なのか?どう見たらいいと感じますか?」
北岡氏
「この時の発言の文脈はわかりませんけれども、私もインタビューされて、売り言葉に買い言葉みたいなことあって、同じですか、入りますかと言われたら、なぜそんなことにこだわるんだと言いたくなるのですが、そんなに違わないと思いますけど、平和な時代はもう20年過ぎているわけですよね。その時、多少は違うだろうと。私はよく言うんですけど、私は、日本は侵略したという見方ですよ。だけども、侵略という言葉ではなく、日本は大量の軍を送り込んで多くの人を殺したと言っても同じ意味ですよね。それだっていいと思うし、もっと生々しいかもしれない。ですから、ある言葉があるかないかという、検索チェックをしているのではないのだから、全体を読んで、読み解く能力は少なくともジャーナリストにはほしいなと思いますね」
反町キャスター
「この70年談話、村山談話とどこを変えるべきなのか。中国、韓国に対してはどういう談話であるべきなのか?」
石原氏
「50年と70年というのはその間、20年経過していますし、100年単位で言えば、半ばと70年と、次の次の時代を意識する時点になっていますから、私は当然、今度の安倍談話をどういう形式で決めるかは知りませんけれど、もしこれが出されるとすれば、過去の問題について一応歴代内閣の認識を継承するということは公式に言っておられますから、その表現がどうなるかはともかく、過去の歴代内閣の考え方を踏襲しているということが表現上何らかの形で示されるのだろうと思います。同時に、その後20年間、我が国は国際貢献をしていますから、その点は我々としては努力したわけですから、それはある程度は増えて、さらに、将来どうするのかということ。これは国内国外に対するメッセージですから、将来に対する抱負、展望といったものが当然示されるのではないかと期待します」

韓国“慰安婦問題” 河野談話誕生秘話
秋元キャスター
「石原さんは事務方のトップとして河野談話にかかわってきましたが、どういう経緯でこの河野談話が生まれたのでしょうか?」
石原氏
「直接のきっかけになりましたのは、宮沢内閣がスタートしたちょうどその頃、元従軍慰安婦と言われた人達が、戦時中の慰安婦に対するいろんな権利侵害に対して日本国政府は謝罪と国家賠償をすべきだという訴えを東京地裁に起こしたんですね。ちょうど宮沢内閣がスタートしたその頃だったんですよ。そこであの戦時中、事実があったのか、なかったのかということから始まりまして、韓国側は日本政府としても誠意を持って実態調査をして、それに基づいてちゃんと国家賠償をすべきだという主張をされておったわけです。しかし、当方とすれば、そういう事実が本当にあったかどうか、当方の手で、日本国政府の手で調べてみなければいけないということで、宮沢内閣としてまず調査したわけです。従軍慰安婦と言われるものの実態がどうだったのかを調べたわけです。そうしたら調べた結果としては確かに戦中、慰安婦と言われる人達の存在が裏づけるいろんなデータが出てきたわけです。1つは慰安婦、慰安所の設置運営について、治安を守るようにとか、あるいは慰安婦とされた人達の輸送について便宜をはかってほしいとか、いろいろ慰安婦の存在を裏づけるような資料が出てきたんです。ですから、その限りにおいて日本国政府として女性達が気の毒な状況に置かれたということがわかったものだから、それに対する謝罪の意を含めた談話を、これは当時の加藤官房長官の名前で出したわけです。ところが、その時に問題になったのは、慰安婦とされた人達が、要するに、家計を助けるために募集に応じたか、それとも自分の意思に反して慰安婦にされたのかということが問題になったわけです。そういう慰安婦という存在があったことは文章その他でわかるわけですから、それを認めて遺憾の意を表明したんだけれども、問題はその募集にあたって本人の意思に反して強制的に、連行したという事実があったのかなかったのかと、これが非常に問題になったわけです。韓国側としては自分の方で進んで応募したのではないと。当時の日本軍なり、日本政府の強制のもとに慰安婦とされたんだと。だから、国家賠償しろ、謝罪しろと、そういうことになっているんですけれども、当方としてはそれを裏づける資料がなければ、それを前提とした謝罪というのはあり得ないわけですから、そこで、内閣としても本当に誠心誠意あらゆる手段を尽くし、募集にあたって強制があったのかどうか調査したわけです。私は各所を督励して調べました。それから、国内だけではなくて、アメリカの公文書館まで行って調べたんです。結果、慰安婦の存在は非常にはっきりわかったのですが、募集にあたって、強制的に慰安婦を連行したと裏づける資料が見つからなかったんです。だから、当方としては資料がない以上はそれを前提とした議論には乗れませんし、そういう議論は並行しておったのですが、最終的には韓国側は、それでは客観的な資料がないのであれば慰安婦とされた人達の話を聞いてくれないかと。要するに、当事者の供述を聞いてくれないかという話になったわけです。それをどうするか。だって本人ですから。本人の供述というのはどれだけ客観性があるのかどうか議論はあったんですけれど、最終的にとにかく話を聞いてくれと。そのうえで強制性があったかどうかを日本政府として、決めてくれという話になったんです。そこで最終的に当時の宮沢内閣としての総理の判断もあって、それではヒアリングやろうと。慰安婦とされる人達の話をとにかく日本の担当官が直接聞いてみようということで調査したわけです。そうしたら、担当官のヒアリングの結果としては、どう見ても本人の意に反する形で応募せざるを得なかったということがあるということが、ヒアリングの結果として、心証として、それがそういうことがあるということになりましたので、それを談話の形で、本人の意に反して募集されたということが、あったということを談話に折り込むと。それが最終的に河野談話になったわけです。ですから、本人の意に反する形で、慰安婦とされたということを認めるか、認めないかという最後のポイントになったわけです。それは河野談話では、そうしてその意に反する形で募集に応じざるを得なかったと表現することで、最終的には決着したという経緯です」

石原信雄 元官房副長官の提言:『善隣友好』
石原氏
「私は、内閣で7代の総理にお仕えしましたが、幸い私のお仕えした時は、隣国との関係で多少問題はあるにはあったのですけれども、基本的には友好な関係であったと思います。これからも隣国というのはお互いに経済の面でも文化の面でもいろいろ交流があるわけですし、善隣友好ということでお互いが努力すべきだと思いますね。不信感を煽るようなことはなるべく避けるということが大切でないかと思います。もちろん、安全保障の問題というのは、これは基本的に重要ですから、疎かにしてはいけませんけれど、それはそれとして基本的姿勢としては善隣友好でお互いに努力するということではないかと思いますね」

北岡伸一 21世紀構想懇談会座長代理の提言:『学問は歴史に極まり候』
北岡氏
「これは、学問は歴史に極まり候というのは、荻生徂徠の言葉ですけれど、広く見聞を広げ、事物に即して知識を広げよと、歴史の中には全てが詰まっているということです。と言うことは、全て単純な、全て真っ黒な、あるいは全て真っ白な歴史はないです。歴史の中にいろんなひだがあり、良いものも悪いものもあって、人間の偉大さも卑小さも全部詰まっているということで、歴史というのは時間をかけてじっくり勉強してくださいというお願い。薄っぺらな本を読んでわかったつもりにならないでくださいというお願いです」