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2015年5月14日(木)
『昭和90年』の肖像⑦ 続・田中角栄の光と闇

ゲスト

小沢一郎
衆議院議員
早野透
元朝日新聞編集委員 桜美林大学専任教授
山本皓一
フォトジャーナリスト

小沢一郎“オヤジ”を語る 田中角栄と自民党政治
秋元キャスター
「大正、昭和、平成の時代を生きた田中角栄総理ですけれども、経歴を振り返っていきたいと思います。大正7 年生まれ。終戦後、建設会社を経て、29歳で政界入りをしています。吉田茂内閣で法務政務次官。昭和30年、自民党結党に参加しています。岸内閣時代に郵政大臣。池田内閣、佐藤内閣で大蔵大臣を歴任。その後も、自民党幹事長と30代から40代で、次々に重職を務めていきました。そのような中、小沢さんの初当選は、田中角栄氏が2度目の幹事長を務めていた昭和44年。当時の写真もありますけれども、小沢さんが出会った頃の田中さんというのはどのような印象だったのでしょうか?」
小沢議員
「僕は、親父さん、親父と言っていますし、一言で言えば、政治家としても、人間としても、私にとっては親父という言葉で代表される人です。象徴される人物です。そういう人間的な親しみも感じていました。それから、何が違うかというと、彼は、言葉を断定的な表現で言いました。政治家というのは、どっちつかずの言葉が多いでしょう」
反町キャスター
「保険をかけます」
小沢議員
「そうです。何とはなしに。だけれども、彼は、こうだと。ああだ、こうだと。自分の意見を言う時に、結論をはっきりした言葉使いで言ってきたと思います。そういうような田中先生の言動にも惹かれたということです」
反町キャスター
「政界に入るにあたって何かアドバイスというのは、田中角栄さんからは、小沢さんにあったのですか。選挙に向けて、こうすれば勝てるとか。なかったですか?」
小沢議員
「それは厳しかったですから。すごく厳しかったですから、僕が最初、お会いした時に、普通、僕も親のあとですから、2代目ですから、当選の確率というのは高いですね。だから、普通のボスだったら、ああいいよ、いいよということに普通はなるんです。その当時の田中先生は、すごく厳しくて、すぐに、よし、とは言わなかったです。それで、とにかく個別訪問3万軒、ようやってこい。辻立ち何万回以上やってこいと。そのうえでもう1回来いと。入門が認められなかったんです、最初」
反町キャスター
「個別3万軒をやってから、もう1回来なさいと?」
小沢議員
「辻立ち、個別をずっとやって、もう1度出直せという言い方でした」

昭和の宰相・田中角栄 現代日本に遺したもの
秋元キャスター
「早野さんは、田中角栄という人物像、どのように見ていますか?」
早野氏
「私が会ったのはもちろん、新聞記者、朝日新聞の記者でした。28歳の時に地方支局から政治部に上がってきました。政治部で総理番をやれと。皆、最初は総理番ですね。その時、考えてみれば、田中角栄さんは55歳です、総理大臣。とにかく朝から晩まで田中角栄さんのあとを追いかけると。こういう仕事で、追っかけるけれども、足が速いですよ、すごく。すたすた、すたすた」
反町キャスター
「車とか、そういうのではなくて、歩きのスピードが速い?」
早野氏
「そう、歩きの。つまり、官邸から国会の中に行ったりするでしょう。その時に、国会の廊下は長いではないですか。そのところを追っかけても追いつかないというような精力的な人で。と思っていると、ちょうど官邸の外に出てきたりしていると、ちょうど春でしょう、異動期ですから。そうすると風が吹いて、その時、今日は春何番だと。春一番、二番、三番なんて、ふとそんなことを言ったりするものだから、彼は結構ロマンも持っているんですよ、心の中に。これは面白い総理大臣だな、親父だなと僕も正直思って。それで、先輩の記者に、角栄さんは面白いですね、と言ったら、お前、政治記者がすぐに政治家に入れ込むなと。馬鹿者と怒られたりして。でも、結局、入れ込んじゃって、彼の選挙基盤というのは、いったいどうなのだろうと。小沢さんがおっしゃったように、彼は新潟3区というところで、実に民衆の中から立ち上がってきているわけです。これを知りたいと思って、その後、新潟支局に、私もそちらを志望して行って…」
反町キャスター
「政治部の後に、新潟支局に?」
早野氏
「政治部の途中です。新潟支局に行って、新潟3区を、だいぶしらみ潰しに歩きました。朝日新聞の記者ですから、政治家に妙に入れ込むなと、絶対ダメだということはもちろん、ありましたから、私もそこは心がけているつもりですけれども、新聞記事で、角栄さんを贔屓するなんてことは無論しないつもりで行きましたが、しかし、人間、田中角栄というのには惹きつけられるものがありました」
秋元キャスター
「人を惹きつける人柄の背景ですが、山本さんが撮られている写真から見ていきたいと思うんですけれども」
山本氏
「ここに合宿と称する、軽井沢山荘の部屋の写真があるのですが」
反町キャスター
「布団で寝ていたのですか?」
山本氏
「そうです。これで、僕がびっくりしたのは、たとえば、屑カゴだとか、置いてあるんですけれど、100円ショップで売っているようなビニールを巻いた、安っぽい屑カゴだったわけです。当時、金権、金権と言われていました角さんが、こんな屑カゴを使っているのかと驚きました。それから、障子なんかも、年月が経って、シミが入っているわけです。畳も真っ茶色」
反町キャスター
「畳、古いですね」
秋元キャスター
「色が変わっていますね」
山本氏
「この山荘では男しかいないんです。角さんご本人とSPといとこで秘書をやっていた方がいたんです。それと、たまに早坂さんです。早坂秘書というのがいまして。これだけで1か月生活をするわけです。男所帯です。ここに私が外部の人間としてはおそらく非常に珍しかったと思います。お前、どこに泊まっているんだと。軽井沢のゴルフを撮影していた時です。バカ高いホテルに泊まっています、と言ったら、今晩から俺のところに来いよと言われたんです。隣の部屋に寝かされたのですが、一睡もできなかったですね。そこに至るまでには本当、驚くような、僕は忘れられないケースがいっぱいあるのですが、大の写真嫌いということで、写真が撮れないわけです。インタビューをやった時も、撮影の時間はあとでつくるから現在は写真を撮るなということだった。2時間のインタビューの予定が、延々6時間まで喋り通しだったんです。その間、カメラマンの僕は1mの至近距離にいて、写真を撮れないわけです。こんなにつらいことはなかったです。」
反町キャスター
「長いおあずけの時間がカメラマン魂に火を点けた?」
山本氏
「ええ」

日本発展の礎と功罪
秋元キャスター
「あらためて政治家・田中角栄はどのような功績を残したのか。一般的に、高度成長期は、1955年から1973年と言われていますけれども、まさに、その時代とともに政治家人生を歩み、議員時代から総理になるまでの間、足跡を残しているんです。議員時代の立法から内閣時代までに、公営住宅、有料道路、港湾、ダム、新幹線、空港、電源開発など、国土開発。社会発展のための土台づくりに必要な法律をつくってきました。それを国策として進めていくための住宅公団、道路公団などの組織。教員給与の引き上げ、高齢者医療の無償化など、社会政策にも尽力をされているんです。早野さん、日本全体が発展、近代化する過程で、これだけの制度、仕組みつくりに携わった点。これを早野さんはどのように評価をされますか?」
早野氏
「これは戦後です。戦争に負けて、日本が焼け野原になって、それから、日々の生活も、どうやって暮らしていっていいのかわからないというところに、1947年、敗戦後に田中角栄さんは国会議員になったわけです。でも、彼はまず民主主義。それから、次は中小企業、それから、住宅。というところから、まず、住宅をつくろうやと。そうしないと、住むところがないだろうと。こういうことですね。それから、そこで生活をしていくためには道路がめちゃくちゃになっているから道路をしっかりつくろうというようなことで、とにかく戦後の復興から始まったんです。それが、彼の最初の議員立法です。しかも、彼は本当に民主主義だと思うのは、国会議員というのは、立法の機関なのだから、俺達が法律をつくるんだろう。官僚がつくったからって、それに採決をするだけではないだろうというような、それを原点に持っているんですね。だから、自分で法律をつくってしまうわけです。だから、そこにある法律のかなりの部分が自分で書いた法律です。後に加藤紘一さん。おられたでしょう。加藤紘一さんは法律いくつつくりましたか。俺、1個もつくっていないなと言うぐらい、結局、そのあとは官僚任せの政治にまた戻っていっちゃったかもしれませんよ」

田中角栄が駆けた昭和史
反町キャスター
「小沢さん、田中角栄元総理自身で議員立法を33本だとか言われているんですけれども、法案づくりに向けた、田中角栄元総理の想い、エネルギー源というのはどこにあると思いますか?」
小沢議員
「田中先生は当時、国会議員は法律をつくるのが仕事だ、という話をなさっておられますけれども、この点は若干、僕は、親父さんから学ぶ点とそうでない点とがありますが、政権交代可能な議会制民主主義というのを、僕は、政治家の最大の目標として、現在なお、それが実現していないので、何とかと思っていますけれども、本当は与党が議員立法をするというのは、特別なものは別として、おかしいですね。なぜならば与党の政権ですから。政権を持っているわけですから。ですから、それは筋論としては、政府提案になるわけです。むしろ議員立法するというのは、政府提案ではおかしいというので、野党の仕事ですね。ただ、当時はずっと自民党政権でしたから、自民党が、与党と野党の役目を両方やっていたわけです。ですから、自民党に政調部会なんてありましたね。与党で、政調部会があるなんておかしいです。だって政府を持っているのですから。政府でやればいいこと」
反町キャスター
「小沢さん、民主党政権の時、その話されましたね」
小沢議員
「ですから、ここでは与党になると、影の内閣が、本物の内閣になりますから、そこへ議員もいっぱい内閣に入って、そこで自分達の政府で、一生懸命に法案づくりや、いろんなことを仕事にするわけです。それが本来の議会制民主主義ですね。ただ、日本の場合は、自民党一党でやってきたという特殊事情がありましたから、ですから、党と政府を分けて、そこでお互いに国民の利益を代表するのは、党だとか、そうでないとか、そういう役割分担をしたんです。ですから、その意味で、当時の政治の状況、経済の状況から言いますと、親父さんの先見性と決断と実行。それと結論は、俺が責任をとるという政治家としての素晴らしい才能がその時の状況によって花開いたということだと思います」

日本に何を遺したのか?
秋元キャスター
「IMF、国際通貨基金をはじめ、当時の日本は、国際社会での存在も大きく変わっていった時代だったんです。IMF『8条国』に移行。これは民間が行う外国との資本取引や輸入貿易制限が解かれ、本格的な解放経済の国となることということなんですけども。OECDに加盟ということで、先進国の仲間入りも果たしました。日韓基本条約の締結にも総理は尽力されました。日米では貿易摩擦という新たな関係の時代に入っていきます。総理大臣就任後は日中、日ソの関係修復にも尽力をされています。早野さん、このような外交面での田中角栄元総理の功績、狙いをどのように評価されますか?」
早野氏
「以前、小沢さんに田中角栄論を伺った時に、小沢さんは田中角栄、つまりは、戦後政治との決別だよというふうにおっしゃったのを、私は覚えているんだけれど、ある意味、戦後です。彼の活躍した時代は。戦後から、いわば日中の国交正常化で、1番戦争を激しくしたというか、こちらが侵略した中国と仲直りをすると。それも毛沢東と周恩来という向こうの、それこそ傑物が生きている間、目の黒いうちにやらないとこれはできないぞということで完成させた。彼はもちろん、政治は生活だと言って、生活重視です。言うまでもなく、彼は。しかし、日本が1人前の国家になっていくプロセスは、戦争の仲直りをする、いわば戦後という時代の枠組みの中で、彼は外交という局面を生きていたのではないかなという感じがします」
反町キャスター
「小沢さん、こういう外交交渉に向けた、田中元総理の情熱というか、手腕は傍から見ていて、どう見えたものですか?」
小沢議員
「当時も言われましたけれども、決断と実行。それで責任は俺がとると。この言葉に象徴されるのではないでしょうか。ですから、早野さんが言ったように現在、日中をやらなければいかんと、そう決めたら、何としてもやると。あの時の自民党の総務会は大変でした」
反町キャスター
「それは中国に行くなという意味ですか?」
小沢議員
「いや、止めろと。台湾派です。要は、中華民国の方です、半分は。自民党の。それでわんわんなりまして、それでも押し切って、これは、将来の日本にとって、世界の平和にとってということで、押し切ってやったと。責任は自分がとるという、そこが1番の親父さんの偉いところではないですか」
反町キャスター
「当時もそうなのですが、基本的に日本の安全保障というのは日米安全保障条約によって担保されているという基本構図は変わっていない。もしかしたら、田中さんの時代の方がもっと現在よりも対米依存度というのは高かったかもしれない」
小沢議員
「そうそう」
反町キャスター
「その時、アメリカに背を向けてとは申し上げません。ただ、アメリカに背を向けるリスクも持って、中国とか、ソビエトに接近をする。これはそこにどういうモチベーションがあったと見ますか?」
小沢議員
「いや、アメリカ自身がやり始めたんですから。その意味では、日中を正常化したって、別にアメリカがとやかく言う話ではないと思います。それから、ロシア、ソ連のことについては、1つは北方領土の問題もあります。それから、もう1つはエネルギー源を多角化するということもあったでしょう。いずれにしても、その1つ、2つが理由ということではなくして、日本は皆と仲良くしなければいけないという考え方があったのだろうと思います。そういう意味で、その当時の保守党、自民党と、現在の自民党とはまったく違っている。要するに、僕は、自民党は完全に変質したと思っているのですが、小泉内閣、安倍内閣と、それ以前の自民党というのはまったく違う政党だと思うぐらい、違ってきていると思います。と言うのは、かつての保守党、自民党というのは、政治は生活だという早野さんの言葉もありましたけれども、利益の公平な再配分。言い換えれば、国土の均衡ある発展。どこに住んでいようが、何をしようが、日本人として安定した平和な生活を営んでいけるように。たとえば、それが越後の雪深いところであろうが、岩手県の片田舎であろうが、どこであろうが、皆がそうやって生活ができるというために、当時、自民党はメディアから、自民党は田舎だけ大事にする。農村を大事にすると言って、叩かれました。しかし、それは基本的な保守党、自民党の哲学だった。政治のバックボーン」
早野氏
「それが列島改造論です。1番の精神だったんですけれども」
小沢議員
「それにつながったということです。ところが、小泉さん、安倍さんになって、自由競争が最優先だと。競争第一と。強い者が勝ち残ればいいんだと。弱い者はしようがないということで、格差がどんどん広がっているわけです。特に、地方はどんどん都会と格差が広がっています。ですから、自由競争第一で、利益は大企業がいっぱい儲ければ、いずれそのうち滴り落ちていくだろうと、おこぼれがいくだろうなんて、こんな発想は、まったくこれまでの自民党と異質です。自民党はできるだけ多くの人に利益を配分しようと言ったような哲学を持っていました。ですから、その意味で、本当に田中先生はそれを象徴するような当時の保守政治、自民党政治の大きな主導者だったと思いますね」

希代の宰相・田中角栄
反町キャスター
「田中首相退陣時の『私の決意』というのがあります。竹下登官房長官が代読をしました。その一部ですが、『わが国の前途に思いめぐらす時、私は一夜、はい然として大地を打つ豪雨に心耳をすます思いであります。私も政治家の1人として、国家、国民のため、さらに一層の献身をいたす決意であります』というコメントを発表しました。田中さんが金脈問題から始まって、この退陣に至るまでの経緯、まず辞める前までのプロセスをどう見ていましたか?」
早野氏
「僕はそういう元気で明るい総理大臣だった田中角栄さんの時に番記者になって、みるみる変化していく。1つは、石油ショックという、トイレットペーパーがなくなるみたいな騒ぎの中で、物価ががんがん上がってくというようなこともあり、石油の値段が4倍になった。角栄さんは一生懸命に答弁していました。耳に残っています。それがどうもうまく回転していかないというような。それで参議院選挙があったわけです。これで角栄さん、いろいろこれは秘術を尽くして、いろんな団体に票を出すように割り当てて、彼も必死に走りまわって、選挙運動をしたんですけれど。これはうまくいきませんでした。反主流と言われた福田さん、それから、三木さんがまず辞めちゃったのかな。堀さんという長官と3人が去って、内閣がいわば半身になってしまった。そこに登場したのが文藝春秋の立花隆さんの『田中角栄研究』ですね。僕もまだ番記者をやっていたんですけれど、これは総理に聞かなくちゃと、文藝春秋の、と聞いたら、何を言っているんだ、そんなものはない、なんて言われて、番記者も情けないもので、それ以上聞かなかったんですけれども。と言うように、彼も追い詰められてきていたんです。そうした中で、内閣改造で、最後、破れかぶれ改造などをやってみたりして、橋本登美三郎さんなんか、いい内閣ができたなと言っていたけれど、1か月でダウンしてしまった。ちょうどフォード大統領が来るというような時で、本当に気もここにあらずというような感じでした。角栄さんは、そこは政治というものをよくわかっている人だから、引き時だと思ったんでしょう。しかし、そういうような、いわば傷ついて倒れていくという状況だったから、あの角栄さんにしても、退陣の弁を官邸の記者会見室で言うのは少し気持ちが進まなかったのかな。竹下さんに読んでもらったと、こういうことですね」
反町キャスター
「田中金脈問題というのが噴出しましたが、経緯、当時の世相の雰囲気、どのように感じましたか?」
小沢議員
「僕は、そんな問題が内閣総辞職ということにつながったという話ではないと思いますね。ただ、田中先生というのは、世間で何だかんだ言われる以上にすごく純粋で、神経の非常にデリケートな、細やかな人ですよ。だから、そういったメディアの批判やら何やらを非常に深刻に受け止める。それでもって血糖値が300になったということがよくありました。政治的な福田さんや三木さんのことも、もちろん、その結果についての影響ももちろん、あったと思いますし、物価の高騰ということについても責任を感じていたのだと思います。ただ、あの時に最終的に何だかんだ言われたのは金脈だという話ですよね。あんなことで辞める理由ではないと、親父さん、やれと、こんなことでなぜ辞めるんだと言った1人ですからね。ただ、親父さん、非常に実は弱っていましたね。心身が」
早野氏
「外国人記者クラブに角栄さんが出かけて行って、約束だからと。そうしたら、遠慮容赦のない批判が出てきた。彼は疲れきって、これはダメだなと思ったのでしょうね。この退陣声明を出した日は、竹下さんに語ってもらって、自分は引っ込んでいたわけです。あれはたぶん総理執務室にいたと思うのですが、割とはやく目白に帰っちゃったんですよ。僕ら番記者は追っかけて行ったんです、目白まで。まだ総理だから、総理、我々にも少し話してくれませんかと言ったら、記者会見をやっていないから。出てきて、背広で、下駄履きで。いやぁ、外国人記者クラブで、あれは辛かったなと。あんなふうに聞かれちゃうと俺ももたないな、というようなことを正直に言っていました。総理大臣というのは2度とやりたくないなと言って、幹事長ならやっていいぞと。どういうわけだか、君達はこれからがんばれよと、君達はペンで国を背負っていく立場なのだからと、励ましてくれるんですよ、角栄さんは」

“今太閣”の素顔と真実
秋元キャスター
「写真を見ながら、表情の変化を説明してくれませんか?」
山本氏
「ちょうど1審判決を挟んで、その前年、当年と、倒れる年の初めというわずか3年間の間に撮った写真なのですが、これだけ顔が変わってきたんです。特に政治家の場合は権力を握って、責任、使命感、それから、野党とか、マスコミにごりごりやられますよね。そうなってくると、顔つきが変わってくるんですね。名をなした総理大臣というのは顔が劇的に変わっています。変わっていない総理大臣もいっぱいいましたけれども」
秋元キャスター
「どの部分に1番変化が現れますか?」
山本氏
「目ですね。それで中曽根さん以降、ほとんど顔が変わった総理大臣はいないんですよ。小泉さんも白髪になりましたけれども、顔つき自体は変わっていないです。ところが、現在の安倍晋三首相は劇的に変わりましたね。悪人面になりました」
反町キャスター
「悪い意味ではなく、悪人面」
山本氏
「そう」
反町キャスター
「1983年から1985年頃の田中さんの変化については?」
小沢議員
「ロッキード事件というのは、三木内閣の、三木さんの事実上の指揮権発動で始まった裁判ですからね。しかし、それにしてもロッキード事件以来、人相ももちろん、そうですけれど、政治家としての想いもちょっと変化したと思います。もう1つは創政会の時ですけれど、1番はロッキード事件をずっと背負って、政治活動をせざるを得なかったということで、非常に大きな精神的、肉体的苦痛だったと思いますね。僕ももう裁判所で、当時は現在の裁判所と違って、ベンチみたいな板の椅子に座らせられていました。それで僕も後ろの方で、親父さんがそれに座っているのを見て、本当に泣けてきた感じでしたが、それをじっと我慢しながら、やっている親父さんは辛かっただろうと思いますね。それで現在、悪人面という話が出ましたけれど、悪党に割り切ってなりきれる性格ならまだいいですよ。退陣もする必要はなかったし、ロッキードなんかにアレされることもなかったと思いますけれど、そこはすごく純粋で善人です。神経が非常にデリケートな持ち主でしたから、それだけに本当にロッキード裁判をずっと傍聴していて、本当に何でこんなという心境を思うと、本当にもう大変だったろうと思います」
反町キャスター
「政治家・田中角栄の魅力、発信力は落ちていったのですか?」
小沢議員
「そんなことはない。政治家として、人間としての魅力は全然変わらないです。ただ、世間でロッキード、ロッキードと言われますから、そういう意味での政治的影響力は以前よりも少なくなっていくというのはしょうがないことです。いずれにせよ、永田町政界には、そんなことで1人も欠ける人間はいませんから、田中派からは。それ以降も、ずっと鉄の団結でやっていきましたから、その意味で、田中先生も心強いと思ってくれたと思います」
反町キャスター
「その時の、竹下さんの創政会の旗揚げ、これは?」
小沢議員
「それは大いなる親父の勘違いです。僕らはいわば親父の子飼いです。幹事長の時の佐藤派に入れられたんです、当選して。俺達は佐藤派ではない、田中派だということを公言として、政界入りした。そのあと、我々が中心になったのですが、ロッキード事件を背負っていますから、また総裁選に出て、総理大臣になってということはなかなか、言うべくして、難しい。いっぱいの同志がいるから、後継者だけはつくっておいてちょうだいと、親父さんに間接的に頼んだこともあるんですよ。親父としたら、そんなのは冗談ではないという話で、しょうがない、勉強会だけでもつくるかということで創政会というのをつくっただけです。ところが、当時の田中派は、当初の田中派と違いまして、親父が変わった1つですが、自分の子飼いだけではなくして、いろんな人を入れて大きくしようとした。人数を多くすることによって、国民の支持がある。だから、この裁判はおかしいと言おうとしたんです。その点まともです。子飼いの人が創政会をやった。そうではない人達は、あいつらは反逆者だということで、親父の周りで囁くと。親父もカッとなった。それで親父に終ってから、俺と梶山静六、羽田孜が呼ばれて、最初から呼ばれて言われていたら創政会はなかったんです、そんな気持ちだった。それをギャーギャーやられたものだから、こうなっちゃったら、一戦交えるしかないと。怖かったですけれども、やったんですね。あとから考えると、権力者というのは絶対に後継者をつくらないと。それを心理としてわかった。僕らは100パーセント田中先生だったから、何かあれば全部親父なんだと。竹下なんか二の次だったという想いだったのですが、親父さんからすれば、後継者をつくったら、人心はそちらに流れると。だから、絶対に認めないということだったんですね。あとからわかった」

早野透 元朝日新聞編集委員の提言:『民衆とともに』
早野氏
「新潟3区という角栄さんの選挙区に行って、そこに本間幸一さんというボスがいて、しかし、もう山奥の村の隅々まで、苦境に立った角栄さんを今度は、私が助けると言っていたような、おばちゃん達がたくさんいました。という意味では、彼は本当に良いことも悪いことも一杯、権力者だから、それはあったけれども、基本的な気持ちは民衆とともにという思いだったのではないかなと、そこはすごく評価、共感しているところです」

フォトジャーナリスト 山本皓一氏の提言:『そのピカッとするのをやめろ』
山本氏
「これはストロボのことです。最初に取り出したら、おい、そのピカッとするのをやめろと。僕は最初ピカッとするやつ扱いだったんです。それから、3年の間でいろいろ僕の呼び名が変わってきました。次が、おい写真屋、それから、写真の専門家、ちょっと格上げされたんですね。それから、山本君になって、最後は山ちゃんだったんです。その呼び名が変わるにつれて、角さんの写真がだんだん撮れていけるようになったんですね。私が思うに、この人の1番に惚れ込んだ魅力というのは、豪腕と愛嬌だったと思うんです。軍団を前に檄を飛ばしている時の顔というのは怖いぐらいです。ところが、西山町のおばちゃんなんかと話している時には、これ以上のお人好しはいないという相貌を浮かべるんですね。角さんの前日本人的な、僕と会うと必ず、おい、飯食ったかと言うんですね。飯が食えるかどうかと言うのが彼の原点だったと思うんですよ」

小沢一郎 衆議院議員:『親父』
小沢議員
「私にとりましては、政治家としても人間としても親父そのものだったと思います。おかげさまで非常に子供のようにかわいがってもらいました。どんな政治的に秘密の話でも、どんな話でも私の前で全部喋ってくれました。誰かとの電話でも、お前、席を外せと言われたことは1度もありません。ですから、墓場まで持っていくものはいくつかあります。そういう意味で、いろいろと教わりましたし、親父のように慕っている人です」