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2015年5月12日(火)
『昭和90年』の肖像⑥ 鬼才・岡本太郎と日本

ゲスト

石原慎太郎
作家
山下裕二
明治学院大学文学部教授
堺屋太一
作家 ※VTR出演

岡本太郎の原点
秋元キャスター
「岡本太郎は1911年、漫画家の岡本一平と小説家で歌人のかの子の長男として生まれます。1929年に入学した東京美術学校を中退し、パリに留学するのですが、1940年のドイツ軍のフランス侵攻によって帰国します。戦争中は中国戦線に送られました。復員後、1948年、花田清輝らと夜の会を結成しまして、前衛芸術運動を開始。1952年には、縄文土器の優れた劇術性を発見した縄文土器論を発表します。1967年に、大阪万博の展示プロデューサーに就任し、『太陽の塔』を制作します。その一方で、メキシコにアトリエを構えて、巨大な壁画『明日の神話』を制作しています。その後、CMやテレビのバラエティ番組でも人気になるのですが、晩年はパーキンソン病を患い、1996年に急性呼吸不全で亡くなっています」
反町キャスター
「岡本太郎の経歴について、家庭環境、岡本一平、かの子の長男として生まれる。岡本一平さんというのは非常に有名な漫画家と言っても、劇画ではなくて新聞の1枚風刺画みたいなものを描かれていた?」
山下教授
「そうです。戦後の、いわゆるストーリー漫画みたいなものではなくて、時事ネタか何かの風刺漫画ですよね」
反町キャスター
「それと、お母さんは詩人、俳人だったとこういうことですよね?」
山下教授
「小説家であり、歌人である」
反町キャスター
「どういう家庭だったのですか?」
石原氏
「めちゃくちゃな家庭だった。それは自分のボーイフレンド。彼氏と同棲して、とにかく夫のいる家に、その男を住まわせて、自分が執筆する時も、邪魔だから太郎さんを紐で縛って、犬みたいに柱につないで、変なところに行かないように、一種の飼い殺しをしながら、かの子は小説を書いたんですよ」
反町キャスター
「児童虐待ではないですか?」
石原氏
「まさにそうですよ」
山下教授
「太郎さんはかの子の背中ばかり見ているんですね。物心つくか、つかないかの頃に。(かの子は)机にかじりつくように小説を書いて、その後ろで柱に紐でつながれて」
反町キャスター
「母親は、愛人を家に連れ込んで、一緒に同居をしていて、自分の作品をつくるために、動かないように子供を紐に縛って柱に括りつける?」
山下教授
「そういうめちゃくちゃな家庭が人格形成に良い影響を与えたという稀有な例でしょうね」
反町キャスター
「良い影響を与えた?」
石原氏
「そうですね」
反町キャスター
「良い影響を与えた感じになるのですか?」
山下教授
「いや、だから、全部自分で掴みとっていかなければいけない。かの子のことは、そんなに児童虐待的に扱われていても大好きだったんですね、岡本太郎は。マザコンですよ、極端な。私もそうだからわかりますけれども」
反町キャスター
「そういう扱いをされても、まだ、好きなのですか?」
山下教授
「そうです。だからこそ、かえって恋い焦がれるみたいな感情があったんだと思いますよ。一平さんはそれに対して非常に穏やかな人だったですよね」
反町キャスター
「そういう状況で、父親の一平という人は、たとえば、離婚とか、出て行けとか、言わないものなのですか?」
山下教授
「いや、全然、そうではなかったですね。むしろ、かの子を観音様のように崇めるようになっていっちゃうんですよね、一平さんは」
反町キャスター
「それともう1つ。出征しますよね。1942年、生まれから、31歳で出征。遅いではないですか。これは徴兵検査ですね。もちろん、出征ということは二等兵で行くにしては」
山下教授
「一等兵かな」
反町キャスター
「31歳で徴兵検査を受けて、行く。これは遅さの理由とか、たとえば、兵隊に行ったのが、彼に何か影響を与えたのか。どうなのですか?」
山下教授
「もちろん、与えています。それはずっとパリにいましたから。そう簡単に帰ってこられるわけではないですから、当時は」
石原氏
「太郎さんの兵隊時代の、非常に痛ましい話があるんですけれども、彼の属した連隊長が知らないけれども、師団長か知らないけれども、要するに、高級軍人の肖像画を、彼は描かせられるんですよ。ふんぞりかえっている高級軍人の前で、岡本さんは、絵筆を拾って、そいつの肖像画を描いてある写真があるの。これは本当に、痛ましいというか、太郎さんがどんなつもりで自分の上官の肖像画を描いたか、知らないけれども」
山下教授
「もちろん、ちっとも描きたくない画だったと思うんですよ。モノクロの写真だけで知られていたんですけれども、割と、最近、現物が出てきたんです。そのモデルになった軍人の御遺族が持っていて、それで岡本太郎記念館に寄付したいと言って、持ってこられました」
反町キャスター
「現在、飾ってあるのですか?」
山下教授
「いや、常時展示はしていませんけれど。戻ってきてから、敏子と一緒に私も見ました。あの絵は太郎さんが描きたくないのに、描かされていた画だということがよくわかるわねと敏子も言っていましたね。私ももちろん、そう思いました」
石原氏
「そうでしょうね」

ピカソについて語る
秋元キャスター
「岡本太郎とピカソというのはどういう関係だったのですか?」
山下教授
「太郎さんがパリに行っている間に、随分苦労したと思うんですけれど、ある時にピカソの画を見て大感激したと。こんなにめちゃくちゃでいいんだと。めちゃくちゃですよ。それから、太郎はピカソから大きな影響を受けるようになるんですよね。でも、岡本太郎はピカソをちょっと礼賛し過ぎだと思っています。あとに『青春ピカソ』なんていうタイトルの本も書いたとか、随分日本人に対してピカソのイメージを伝える役割を果たしました、岡本太郎さんは」
秋元キャスター
「岡本太郎の絵画について聞いていきたいと思いますけれども、まずは、代表作であります『痛ましき腕』ですね。こちらは1936年にパリで描かれたものですが、山下さん、解説いただけますか?」
山下教授
「腕がかなりリアルな形で、デッサンもかなりすごくしっかりしているんですけれども、描かれているんだけれども、本来、頭があるところに巨大なリボンがあると。でも、色彩は後年の岡本太郎に通じるような原色を使っている。基本的にはパリ時代に彼は抽象芸術運動とシュールレアリスムに関わったからシュールレアリスムに感化された部分はあるのだろうと思うけど、この時点で岡本太郎独自スタイルが完全にできちゃっていますよ。ただ、これは残念なことに、実は戦災で焼失しているんですよね。これは戦後の再制作ですよ」
石原氏
「そうです。これは岡本先生に会って、飾りっ放しだったので、俺この絵が好きだから、家が広いんだから貸してと言った記憶があります。岡本さんはうんと言わなかったな。岡本さん、愛着のある画だと思うし、太郎そのものですよ、これは」

画家・岡本太郎を探る
反町キャスター
「山下さん、本当にシュールレアリスムから入っちゃうような話ですが、超現実とか、夢で見るような話を画にするみたいな話で、いろいろな言葉を調べたら出てくるんですけれども」
山下教授
「夢って、でも、人間の1番の深層心理を投影しているものではないですか。そのイメージを変に加工をしないで、そのまま描いてしまっているのがシュールレアリスムの理念なわけですよ」
反町キャスター
「具体的に、顔ではなくて、リボンであるとか、腕に傷が横縞のように入っている部分は何をやりたかったのかというのを解説するのは野暮なことですか?」
山下教授
「野暮なことです。画はこのために書きましたとか、こういう意味がありますとか、そういうものを超えたところに芸術の本質というのがあるんですよ。だから、よく芸術を理解するにはどうしたいいんですかという質問があるんですけれども、理解しようと思うからダメだと。だって、面白いではないですか、これ」
反町キャスター
「別の聞き方をします。そうすると、そういう画をその後ももう1度、描かれたもので、画を描いた、彼の内面にあったもの。気持ちとして何があったと」
山下教授
「この中には強い不安感とか、あるいは孤独なありようというのが込められて、そういう意味では、先ほどの石原さんが言われたリリカルな、抒情的な要素もありますね。これは強い画であるけれども」
反町キャスター
「でも、それはパリにいる時ですよね」
山下教授
「そうです」
反町キャスター
「パリおいては、孤独…」
山下教授
「まったく日本人と群れるようなことはしていないですね」
石原氏
「彼が偉かったのは、パリに、日本人の画描きが憧れて行くでしょう。そうすると、すぐヴラマンクについたり、マティスについたり、お師匠さんにつくわけです。太郎さんは、一切、お師匠さんを選ばなかったし、いきなりソルボンヌ大学に入って、何を専攻したんだっけ」
山下教授
「人類学。民俗学ですね」
反町キャスター
「美術ではないのですか?」
山下教授
「美術ではないです」
石原氏
「これは物事を相対的にちゃんと正確に捉える、1つのメソッドで、そういう点では、彼は、たとえば、縄文の素晴らしさを日本で初めて言った人です。それを皆たまげて、誰かの影響を受けたのかとか、外国人に会って『あなた、縄文土器の美しさ、素晴らしさを体得したのですか』と言ったら、『誰に教わったわけではない、俺が博物館で見た』と言い放つんですよ。それは彼の独自の感性を持っていて物事を相対的に捉えながら、要するに、比較しながら、ある価値の絶対性みたいなものを見抜くうえで、それでも本当の教養、感性というものを持っていたから」
山下教授
「だから、それまで縄文土器は考古学な遺物としては知られているんだけれども、それを美として語った人は、岡本太郎までいなかったんですよ。岡本太郎は、以前の美術史の概説書というのは、仏教伝来から始まるんですよね。そうじゃない。それ以前に、はるか紀元前から縄文土器の造形があるではないかというのを言ったのは、岡本太郎が初めてですよ。そういう視点を持ち得たのは、パリで、民俗学、人類学を学んだというのはすごく大きかった。それと、先ほどのピカソの話と、これはリンクしてくるわけで、その頃、ピカソはアフリカの黒人からインスピレーションを得た作品を制作するわけですよね。太郎さんはそれにもシンクロをしたのではないかと思うんです。そのへんが全部、リンクしてきて面白いんですよね」
反町キャスター
「縄文土器として、縄目がついて、上に炎みたいな形ですよね。それと、腕の画は頭の中でうまくつながらないんですけれども」
山下教授
「これは確かに縄文土器とつながらないかもしれないけれども、『太陽の塔』は土偶の造形と似ているではないですか。顔がついていまして、縄文の土偶だと思うんですね」
秋元キャスター
「もう1つの作品を見ていただきましょう。戦後、復興期の作品ですね。『重工業』」
山下教授
「これは歯車があって、ここにそれに翻弄されているような人のような形が描いてあって、基本的には機械文明に翻弄をされる人間みたいなイメージはあるんだけれど、ただ、単にそういうものだけを描くのではなくて、まったく唐突にここにネギを描き込むわけですよ」
反町キャスター
「最先端の機械文明とネギ。これを両方、1枚の画に見せることによって、何を訴えたかったのかと思いますか?」
山下教授
「まったく異質のもの同士をぶつけあうというのが太郎の理念ですよね。それも対極主義という」
反町キャスター
「それは他の画でもそうなのですか?」
山下教授
「そうです。そういう要素は非常に強いと思います。あるいは文章においても、彼は対極主義ということを、繰り返し、繰り返し語っている。全く異質なものを妥協して、調和をさせてというのではなく、そこでぶつかりあうことによって、飛び散る火花みたいなものことこそが表現の本質であると」
石原氏
「ネギの意味合いは、要するに、機械文明の中の、埋没していく自然とかという解釈ができるわけだけど、そんなものではなしに、つまり、見た人間の直感を困惑させる、混乱させるという面白さを、太郎さんは、楽しんで、ざまみろという気持ちで、これを描いたと思いますよ」
反町キャスター
「これは何だろうかと見ている人達が思い悩む様を想像して喜んでいる部分もある人だったのですか」

万博『太陽との塔』を巡る激論
秋元キャスター
「1967年、岡本太郎は大阪万博の展示プロデューサーに就任し大阪万博の『太陽の塔』を制作します。当時、通産省の官僚として大阪万博を主導した作家の堺屋太一さんに『太陽の塔』の制作秘話について話を聞いてきました」

堺屋氏(VTR)
「大屋根というとだいたい幅120m、長さ400mぐらいの大きな屋根をつくろうと。その真正面に『太陽の塔』を置きたいという(岡本太郎さんからの)提案がありました。そうすると、それを聞いた丹下(建三)さんが激高しまして、自分がつくる大屋根の前に、そんなものを置かれたらぶっ潰しだと。『そもそもテーマタワーは南の端に菊竹清訓さんの設計で着工している。これがシンボルタワーである。シンボルタワーは2つはいらない』と。『絶対にこれは許せない』ということで、大論争になって、それではっきり申し上げて、掴みあいになったんですね。それでワイシャツ、ネクタイを掴んで押したりして大論争になって。そうしたら、それぞれに弟子といいますか、支持者がついて、磯崎新とか、曽根幸一という建築家と、荒山柑とか、平野繁臣さんとかいうような岡本さんのサポーターもついている。その人達が止めてくれると思ったら、それも一緒に掴みあいになったんですね」

反町キャスター
「国家的なプロジェクトを巡って著名人、日本の建築界のナンバー1と、芸術界のナンバー1と申し上げましょう。その2人がネクタイ、シャツの掴みあいで1か月間、睨みあうという時代。その時代はどういう時代だと思ったらいいのですか?」
石原氏
「日本の社会というのはその頃、活力が溢れていましたよ。人生を振り返って、見ても、あの時代というのは、高度成長の端緒についたところで、これから何が起こるかわからないという、良い意味での様観に満ち満ちていた時代で」
反町キャスター
「その意味では、石原さんから見ても、オリンピックに関わった、東京オリンピック間もなくです、その前にも長野オリンピックとか、札幌でもオリンピックもありました。万博もいろんなところでありました。花博とか、大阪とか、いろんなところがあったんですけれども、大きなナショナルイベント、ないしは国際的なイベントがある度に、そういう大喧嘩があったのかというと、僕が聞いていることにおいてそういうようなビッグネーム同士のぶつかりあいというのは聞いたことがないですよ。これは日本が、そういうぶつかりあいみたいなものを避ける時代になってきた。この1968年頃というのは皆がそういう臆面もなくと言ってもいいのですか、平気で素を出してガチガチやるような時代だったということになるのですか?」
石原氏
「そうですね。だから、僕なんかも自分のある作品で芥川賞を貰った時に、その選考委員の佐藤春夫さんという人は、僕のことを非難して、石原慎太郎ではない、あれは不慎太郎だと、慎まない男だと言って、僕のことを面罵はしなかったけれども、論評の中で罵倒をしたけれども、てめえがどんな小説を書いたかというと実にくだらない小説を書いていた人が。それで中村光夫さんが『歳をとりたくないものです』という論文を書いて援護をしてくれて、大論争になりました。でも、ダイナミックな時代だったと思ったね。僕はそのあと、ずっと芥川賞の選考委員もしてきましたけれども、何か足をすくうような、反乱というものを予感させる作品がなくなっちゃったね。皆、マーケティング、この頃は、小利口に。芸術家までマーケティングですよ」
山下教授
「ひんしゅくを買うぐらいでないとダメですよ。表現者というのは。受けとる側のイメージに収まるようなものというのは、決して次の時代を切り開けるものではないですよ。だから、石原さんの『太陽の季節』だって、あれが出た年の芥川の選評なんて、露骨におじいさん達が、けなしている人が結構いるわけですよ。それがちょっと前に岡本太郎が画壇で、ああいう先ほどの歯車にネギみたいな作品を発表した時に、一部に大ひんしゅくを買ったというのと同じ構造だったですよね。万博の時は、丹下健三と岡本太郎が本当にやりあって最後、丹下さんが既に設計が済んでいた大屋根を突き破る感じで『太陽の塔』ができるわけですね。でも、結局、現在に至るまでの残っているのは『太陽の塔』だけですよ。それは、要するに、前例を踏襲するものではないからこそ、あそこに現在でも屹立し続けているわけです」
石原氏
「万博オープンの時にこの塔の中に過激派が立て籠もって“反博(反万博)”を唱えたでしょう」
山下教授
「あの目玉のところですね」
石原氏
「そうしたら、岡本さん、せせら笑って、何が反博だと。おれが1番反博なんだと言ったんですよ」
山下教授
「だから、人類の調和なんて、自分はまったくそんなことを思っていないと。この万博のテーマそのものに自分は大反対だと」
反町キャスター
「そういう気持ちだったのですか?」
山下教授
「そうです。だから、中には、この太陽の塔の中には生命の樹というのがあるけれども、あれは人類が進歩しているのを表しているのではなくて、実は、人間の根源に遡れという、そういうメッセージですよ」
反町キャスター
「たとえば、丹下さんが想いを込めた最新の技術と、素晴らしい素材を使ってつくり上げた大屋根を、原始のモチーフである『太陽の塔』が真ん中に穴を開けて、ドンと立っているというのは、岡本太郎にしてみたら、してやったり?」
山下教授
「そうですよね。というか、ぶち破らなければいけなかったわけですよ、岡本太郎は。これが、要するに、万博のテーマをぶち破るという意味もあったわけですよ」
反町キャスター
「たとえば、反骨とか、反乱とか、そういうものがお腹の中にあった人が、ナショナルイベントですよ。国家的大行事である万博ですよ。その役職を得る。これをどう理解をしたらいいのですか?」
山下教授
「これは周りから随分反対もされたんですよ」
反町キャスター
「あなたらしくないから辞めろと?」
山下教授
「そうです。なおかつ若い時に、岡本太郎のアジテーションにそそのかされて、前衛的な美術運動をやっていたような人達は憤慨したわけです。岡本太郎ともあろうものが何で国家イベントに加担をするんだと。皆に言われた。そうしたら、逆に、これだけ言われるのだったら、やってやろうとなるのが岡本太郎です。自分でそう言っていますよ」
石原氏
「だから、万博というナショナルイベントを逆に活用をして、岡本さんは自分の主張をしたわけですから、大舞台で、見栄を見事に切ったと思いますよ」
反町キャスター
「確かに『太陽の塔』にしても、これをつくれと言われたわけではないですよね」
山下教授
「うん。そうです。テーマ館のプロデューサーに就任してほしいという要請を受けたわけだけれども、でも、そこで瞬時に巨大な塔のイメージが浮かんだと思います。岡本太郎がよく言っているのは、瞬間、瞬間を爆発して生きろと。だから、万博は結果的にはパビリオンの造作は、当時のちょっとした未来だったわけですよ。だから、そういうものはある意味、ちょっと経ったらすごく古くなっちゃうわけですね。『太陽の塔』は別に上辺の未来志向を表しているわけではないし、もっとそうではなく、根本的なことを考え直せよと言っているんだと思う。と言うか、岡本太郎は一生をかけて、それを言い続けたわけですよね」
反町キャスター
「あの時は、たとえば、月の石とかがあった。僕が記憶に残っているのは三菱未来館というのがあったなとか、そういうのが記憶に残っているんですけれども、皆とり壊されました。何も残っていない。これだけです、残っているのは。もしかしたら、岡本太郎の狙っていたのは、そこなのか?」
山下教授
「狙いも何もない。結果として、そうなるんですよ。そうだし、岡本太郎自身もこれを残せとは一言も言っていないんですよ。この『太陽の塔』も解体するのか、保存するのかという議論はあったんです。だけど、結果として、これだけが残ったわけですね。とり壊すことはたぶんないと思うけれども。これをダイナマイトで爆破すると言ったら、太郎さんはそれも大いに結構と言うに違いないですよ。芸術は爆発だと言った人だから」

岡本太郎の“アカデミズム”
秋元キャスター
「岡本太郎の著書をどう評価されますか?」
石原氏
「皆、素晴らしいですよ。(『忘れられた日本〈沖縄文化論〉』は)、沖縄は現在でも好きなところで、独特の要するに風土と文化を持っている。しかも、日本の伝統の妙が生きているところです。1番昔の、雅な日本語が残っていて、あれほど民謡の多い地域はないんだけれども、沖縄語で良くわからないけれど、解釈してみると、非常に古い美しい日本語でできている歌が多いですよね。そういう点で、岡本さんの沖縄文化論はとっても素晴らしいものだと思いますね」
山下教授
「沖縄文化論は、沖縄に行って、実際に太郎さんはいろんなものを見ているけど、この本を書くために沖縄に行ったわけではないですよね。骨休めのつもりで、沖縄の人に誘われて行った。そうしたら岡本太郎が見るもの、聴くものに本当に喜んじゃって、ここに本当の日本の1番古い地層が残っているんだみたいな、どんどんそういうことを喋ったそうですね。それを敏子さんが片っ端からメモした。だから、結構、旅館の便せんとか、何かにメモした。それを元に再構成したのがこの沖縄文化論です。太郎さんの文章は岡本敏子の口述筆記ですから、実は。彼女の文才がすごいです」
反町キャスター
「文章力という点ではなく、感じたものを口にして、それを書きとって文章として構成した部分というのは、それはパートナーである敏子さんの筆力?」
山下教授
「ただ、彼女は太郎さんの生前にはそれを決してカミングアウトしなかった。だけど、亡くなってから、実は私が口述筆記を、全部そうだというのは言いましたよね。敏子からそういう話も直接随分聞きましたよ。ある古本屋さんが岡本太郎先生の生原稿が出ましたので、見てくださいと持ってきたら、あら、それ、私の字よと、そういうことがよくあったなと言っていました」
反町キャスター
「それは敏子さんが岡本太郎という人間の足りない部分を補ったつもりでいたのか?」
山下教授
「足りないというわけではないですね。太郎のことも本当に尊敬していたし、籍を入れてないけれど、実質的に妻であり、妹でもあり、母のようでもあり、最高の有能な秘書でもあり、口述筆記をするライターでもありという」
石原氏
「本につくる前の、ゲラと言うんでしょうか、ドラフトはちゃんと岡本さんが目を通したと思うな」
山下教授
「もちろん、そうです。ただ、彼女が書き起こしたものに、岡本太郎が最終的にゲラをチェックするという、そういうやり方だったみたいですね」
石原氏
「しかし、岡本さんの著書の文章というのは、決して女性の文章ではないですよ、岡本太郎のものですよ」
反町キャスター
「岡本太郎の人に対する接し方、モノに対する接し方は、これはダメだと決めつけるのではなく、持ち上げたり、叩いたり、そういう感じで見る方だったのですか?」
山下教授
「そうですね。誰も言わないことを言うんですね。たとえば、『日本の伝統』という本の中で法隆寺に触れるところがあるわけです。法隆寺は火事が起きて金堂が焼けてしまいますよね。その直後に岡本太郎が書いているんですけれど、『法隆寺は焼けて結構』と書いてあるんです。考えられないでしょう。自分に言わせれば、焼けてしまった法隆寺を叩くのではなくて『自分が法隆寺になればいいのです』と書くわけです。だから、伝統として崇め奉るのではなくて、自ら創造するものが本当の伝統になっていくのだと」

『明日の神話』と岡本太郎
秋元キャスター
「代表作の『明日の神話』は、なぜ岡本太郎は原爆をモチーフに絵を描いたのでしょうか?」
山下教授
「この絵の真ん中のところに骸骨みたいなのがいますけれども、これはまさに広島、長崎の核の炎に焼かれる人間ですよね。右の端の方には実は第五福竜丸のイメージの船、ちっちゃい赤い船が描かれている。太郎は核エネルギーというものに対して何か考えるところを持っていたようで、この絵の『明日の神話』というタイトルですけれども、もともとのタイトルは、片仮名で『ヒロシマナガサキ』というタイトルを考えていたようですよね。面白いのは画面が過去、現在、未来みたいなところもあって、左端には3人の人物らしきものが、デフォルメされていますけれども、描かれているわけですよ。これは岡本家の3人だと思うんですよ。一平、かの子、太郎。ある意味、家族みたいな存在ですよね。そういう人間が核兵器の炎で焼かれちゃうわけだけれども、それでも何か核の炎をゲラゲラ哄笑しているような、そういうメッセージだと思う。人間というのは、核の炎に焼かれてもなお生き続けるんだみたいな、そんなイメージがあると思いますよ」
反町キャスター
「たとえば、人類の未来に対しての期待感、そういうものに対しては、どうだったのですか?」
山下教授
「単純なテクノロジーの進歩を期待していたわけではさらさらないですよね。むしろ人間は進歩していないんだと。現在の人間に縄文式土器みたいなものつくれるかと。本質を見失っているという意識はあったと思いますね。それを、そうではない根源に立ち返れとずっと言い続けた人だと思います」
秋元キャスター
「パートナーの敏子さんにはどういう思い入れがあったのでしょうか?」
山下教授
「(『明日の神話』は)どこかにあるはずなのよと言っていました。あれを探し出すのが私の最後の大仕事なのよと敏子はよく言っていましたね。それでメキシコでいろいろ調べてもらったりして、遂に2003年に見つかるわけです。資材置き場みたいなところに分解されて、捨て置かれるように置かれていたんです。その状態から、それを太郎財団が買いとるという形で、日本に輸送し、修復して、結局、現在渋谷に収まっているのですが、それにはすさまじいエネルギーが必要だったんです。ただ、これにもドラマティックな話があって、敏子の甥である平野暁臣さんという現太郎記念館の館長ですけれど、彼がメキシコに渡って、この壁画を日本に持ってくる交渉を全部整え、それが終わって、彼がメキシコから飛行機に乗って成田に着くその日に敏子が死んでいるんです。それはすごく奇妙なというか、2005年に敏子が亡くなった時は私も本当に戦慄しましたけれど、まさに、彼女はこれを日本に持ち帰ることの道をつけて亡くなったんですね」
反町キャスター
「巨大な壁画ですよね。この大きさは、岡本太郎生涯の作品の中で1番大きい?」
山下教授
「最大ですね、遺したものでは。もっと大きいものを創ろうとしていた。そういう計画は幻になってしまったけれども、あったらしい。これの倍くらいの大きさのものを構想していた」
反町キャスター
「これを最終的に渋谷に飾った経緯というのは?」
山下教授
「私もその選定に多少は関わりましたが、これをぜひ設置したいと名乗り出たところが3か所あったわけです。渋谷と、『太陽の塔』のある吹田市、広島市。いろいろと検討をしたのだけれど、他のところの案というのは、美術館みたいにしてガラスケースで覆ってみたいな案だったんです。それは太郎の思想に反する。本当の意味でのパブリックアートにならなくてはいけないのだから、むき出しで飾って、できるだけ多くの人の目に触れる場所こそ1番相応しいと。そうすると、渋谷のあのスペースが計ったように、長さが30mある。まるでこの絵のための空間みたいになっていますね」

作家 石原慎太郎氏の提言:『反乱』
石原氏
「これは前例というものを無視して踏みにじらないと、本当の進歩はないですよ。政治の世界で言ったら、要するに、官僚の行政支配というものをぶっ壊さないと社会全体が救われない。私は私でやってきたつもりですけれどね」

山下裕二 明治学院大学文学部教授の提言:『“常識”を突き破る想像力 太陽の塔のように』
山下教授
「常識は何ですかね。だから、石原さん言われたことも重なるんだけれども、常識というものは常に疑っていないと、常識と言われているものに絡めとられちゃうわけですよね。本当の意味での想像力、クリエイティビティというのは、人間から出てこなくなっちゃう。岡本太郎はそうであってはならないということをずっと言い続けた人ですよ。だから、まさに石原さんがおっしゃる前例主義に縛られないということと通じることだと思います」