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2015年5月6日(水)
『昭和90年』の肖像③ 吉田茂『遺産と誤算』

ゲスト

武見敬三
自由民主党総務会副会長 参議院議員
五百籏頭真
熊本県立大学理事長
井上寿一
学習院大学学長

吉田茂の遺産と誤算
秋元キャスター
「吉田茂はもともと総理大臣になりたかったのか。なった経緯についても教えてください」
五百籏頭氏
「嫌々していたんですね。吉田は帝国外交官として、国際世界の中の日本を大局から捉える才能があるんです。だけど、政治のジャングルの中で切った、張ったとか、それはとてもではないけれど、できたことではないし、特に彼のご家族は、パパには無理、パパは外交官でも我がままだと問題になるのに、政治の、海千山千の人達の中ではとてもやれないわと。牧野伸顕さんも、外交はともかく政治は無理だ、と言うので、家族は反対だったんですね。そこを乗り越えてやったというのは、私は、幣原喜重郎さんとのタッグゲームと言いますか、幣原さんは戦後の幣原外交、平和外交、協調外交でしばしば外相になったのですが、満州事変以降、軍部がのしてくるとまったく外されちゃったんですね。だから、皆とっくにいなくなった人だと思っていたんです。それを引き出したのが吉田茂で、幣原さんは外交文書とか、自分が書いた文書を大事にして、余生を送っていたのですが、昭和20年5月26日の第三次東京大空襲で、彼の千駄ヶ谷の家が全焼してしまったんです。本も手記もなくなったんです。自分の大事なものがなくなったと。彼は三菱のお嬢さんと結婚していたので、多摩川にあった三菱の倉庫の横の家を借りて住んでいたんだけれど、そこに吉田が幣原さんに一働きしてもらおうと。それはどういうことかというと日本は敗戦で、国際的信用を失った。完全に、平和、国際協調、信用があるのは幣原さんだと。そういうので呼びだそうとするのですが、幣原さんはイライラして、吉田が部下にメッセージを持って行ってくれと言って、多摩川に行ったら、手が震えて、顎がガクガクし、何を言っているかわからないですね。吉田さんはよくこんな人を引き出すなというので怪訝に思ったそうです。彼は鎌倉に引っ越して逃げると言っていた時に間一髪画策で、木戸光一らとやった画策で宮中からお召し列車が届いたんです。それで彼は陛下の前に呼び出され、『朕、卿ニ組閣ヲ命ズ』という決まり文句があるのですが、幣原さんは、『お言葉ではありますがこれだけは拝辞させていただきたく存じます。自分は年をとってダメだ』と言うんですよね。そのことを予期して吉田達が相談して、必ず幣原さんは断るから、普通の命令ではなくて、椅子を幣原さんに与えて懇ろに陛下からお話をするように企んだ。それを言ったところ、陛下が『幣原、私は辞めることができないんだよ』というように言われたら、幣原さんはグッときてしまって『最後のご奉公を勤めます』と言ってしまったんです。幣原さんにすると、大事なのは対外関係、つまり、マッカーサー司令部との折衝です。この国際関係で運命が決まるという時に、ちゃんとそれをできる人は誰かと言うと、吉田しかいないというふうに幣原さんは思って、口説こうとしたら家族が反対していると。お互い説得しようとして。戦前からそうなのですが、武見太郎さんは悪い人で、政治的密会をする時に、2人のカルテを連続してとらせるんです。戦前は帝国の大使であるグルーター氏と吉田が密談したのは武見太郎さんの診療所で、2人のカルテを連続してとるんですよ」
武見議員
「うちの父親は銀座四丁目に教文館というビルがあって、そこの3階に診療所を構えたんですよ。自分は日本で最初のビル診(ビル診療所)だと言っていました。そのビル診に当時の有力な方々が患者として来ていた。実は私の母方の祖母が牧野伸顕の次女だったんです。だから、牧野伸顕の長女が吉田に嫁に行った。私の母親からみれば、おじさんが吉田茂だったんですね。そういう関係もあったので、ずっと主治医を私の父がしていました。牧野さんもそうだし、吉田も主治医だったわけですね。その中には幣原さんもいました。幣原さんが牧野さんを診察しているちょうどあとに来られて、実は自分のあとを是非吉田茂にやってもらいたいと思っているんだと説明して、牧野伸顕さんの了解を得ようとしたんです。ところが、牧野さんの答えはノーで、吉田茂は、外交は知っているかもしれないが、内政がわからないと。従って、吉田には無理だと言って断ったそうですね。暫くして私の父と吉田さんがあった時に、牧野さんの爺さんは了解してくれたということだったので、俺は引き受けることにしたと。先ほど、断っていましたよ、と言った時には遅かったと」
反町キャスター
「誰が嘘をついたのですか?」
五百籏頭氏
「幣原さんが報復したんです。しっかり牧野さんの親父も了承したから引き受けろと。それをそうかと言って引き受けたあと、翌日になって、武見さんが嘘ですよと、本当はこうだったと説明に行ったが、引き受けちゃったんだよと吉田が言った、それに対する言葉が、あなた総理としてやっていけるお考えですかと、武見さんが聞いたの。それに対する言葉が歴史的な言葉で、『戦争に負けて、外交で勝った歴史がある』というように言ったんですね。日本は敗戦だけれども、敗戦を外交によって立て直すことはできると。歴史の前例があると。イギリスがモデルですね。英国史を吉田さんは戦時中読んでいて、アメリカ独立戦争に負けて、イギリスがあんな奴らに負けるなんて、二流三流国だとヨーロッパ政局からバカにされたんです。それをピットとか、優秀な外交官が次々に表われて、遂にナポレオンを跳ね返して、ヴィクトリア時代の全盛期をつくるんです。それを吉田は戦時中に読んでインスピレーションを高めた。日本も戦争に負けた、しかし、外交でこれを立て直すことができるんだと。自分が首相になる瞬間に、こんなに自分の歴史的な位置づけ、意味をはっきり言えた人は(他に)知らない」

日本国憲法をめぐる思想
秋元キャスター
「吉田茂が新しい憲法の草案を見たのは外務大臣の時だったということですが、吉田茂は当時どういう役割だったのですか?」
井上氏
「吉田は外務大臣ということもありますが、もともと外交官出身の彼にとって、憲法改正というのは、いわば降伏条件である。憲法改正は彼個人としてはする必要もないし、好ましいとも思わないけれども、日本は負けてしまったと。負けてしまった時の条件が戦争放棄であり、象徴天皇制を定めた憲法だと、だから止むを得ずこれを受け入れると。だから、まさに外交官出身の外務大臣としてこういう対応をしたということだと思います。ただ、他方で彼は外交官出身ですから、外交のことはよくわかっている。つまり、敗戦国とは言え、戦勝国にとって何か利用価値はあるだろう。その後の冷戦状況が進展していく中で戦勝国のアメリカにとっても敗戦国の日本の利用価値が生まれてくる。そうなると、日米間で事実上の外交交渉の余地が生まれてきて、日本にとって有利な形での独立を目指せるのではないかと。それらのもとになったのは憲法改正をどう受け入れるかということだったと思うんですね」
反町キャスター
「もう1つのポイントは、象徴天皇制だと思うのですが、それについては?」
井上氏
「吉田の理想の国は帝国憲法のもとでの立憲君主国のイギリスのような国が理想だったはずです。それが戦前は軍部の横槍で、彼の考えていた立憲君主国からはみ出してしまった。でも、戦後は軍隊が強制的に排除されたのだから、本来の日本に戻れるということで、特別に憲法改正しなくともいいと思っていたはずです。ですが、これは降伏条件を満たすためにやむなく受け入れたと。そのあといずれまた憲法改正をして、本来の帝国憲法に似たようなものでも構わないと思ったのかもしれません。でも、実際に憲法を改正してみると、この平和憲法というのはなかなか役に立つと。つまり、経済復興を優先的にやっていこうというように言った時に、軍事にお金を使わないで民生部門にお金を集中的に投下して、短期間のうちに経済復興していく。その時に平和憲法というのは役に立つのではないかと」
反町キャスター
「マッカーサーの天皇制の考え方と、吉田茂の天皇制の考え方は事実上重なっているところが多かった?」
五百籏頭氏
「違いはあると思います。もちろん、マッカーサーにとって日本人のような情緒的な内側からの情緒ではなくて、占領政策にプラスかマイナスか、平和化、民主化、非軍事化と民主化をやっていくうえで天皇は障害なのか、それともサポーターか。始めは疑っていたのかもしれないが、会ってみてわかったのは、この人は日本を代表する紳士であると。自分が責任をとりたいというようなことも言ったりもする。こういう人物だから日本国民は敗戦の中でも尊敬しているんだと。この人が民主主義反対だったら困るが、話してみたら、マッカーサーを大事にして、よろしくお願いしたいという立場です。そうすると、むしろ占領政策の展開の貴重な土台になると。日本の歴史の中で天皇が実権を持っていた時は少ないけれども、権威づける役割を果たしたんですね。マッカーサーという外部権力者の勢力もある意味、天皇から権威づけられれば、非常にやりやすいということなのではないでしょうか」
反町キャスター
「GHQの権威づけにという意味ですか?」
五百籏頭氏
「二面性があります。マッカーサーは自分の方が上だということをあの写真ではっきりわからせることがあった一方で、日本国民の心からなる親愛の念を持っている、その天皇をいじめたら自分は信用を失うだろう。大事にしているとわかれば、国民は自分をも信頼するだろうと。それは占領政策を容易にするだろうと、そういうような観点だと思いますね」

サンフランシスコ講和条約
秋元キャスター
「同じ敗戦国であるドイツやイタリアと比べて、異例とも言える寛大な講和条約を引き出すことに成功しています。なぜ吉田茂は寛大な講和条約を引き出すことができたのでしょうか?」
五百籏頭氏
「講和について吉田はもちろん、日本にとって平等、対等な立場をほしがりましたが、ダレスという人が、吉田自身も第一次大戦の仮講和会議に行っていたのですが、ダレスも行っていたんです、その時には会っていないけれども、ダレスも吉田も見ていた。敗戦国に対して天文学的賠償金を押しつけ、領土を切り刻む。そうやったことがいい結果を生んだかというと、たった20年でまた戦争を起こしている。ヒットラーを呼び起こしたと。それから、アンフェアなことはしてはいけないという認識があった。吉田もドイツのようにはなりたくないというのがあって、2人は案外話ができた、そういう幸運があったんですね」
井上氏
「国際的な冷戦状況が深刻になっていて、大陸の中国が社会主義化すると。また、朝鮮戦争が起きて、朝鮮半島が南北分断される。そういうアジアの情勢を見た時に、アメリカにとって唯一役に立ちそうな国が日本だと。そう見ると、日本はとにかくできるだけはやく回復したいと言っていることを受け入れることによって、自国の陣営に引き入れると。また逆に言うと、アメリカとの独立の形に対して交渉する余地が出てくるということですよね。そういうこともあって寛大な講和を勝ちとるというところがありますよね」
武見議員
「中華人民共和国が1949年に成立し、朝鮮戦争が起き、共産主義勢力がアジア全体に広がってくる。日本国内でも共産党の活動等もある。こういった状況下において、共産主義の脅威にいかに対峙するかということがアメリカ戦略の基本になっている。その中で戦前から産業を持つ1つの重要な国である日本という国が、親米的な民主主義勢力によって統治される、そういう環境を整えることがアメリカの外交戦略上重要になってくるわけですね。そういう時に占領を長く続けることが反米意識を増長させることにつながることは明白に見えていたはずです。それに対する配慮というのが、共産主義の脅威が増大したことも手伝って、こういう流れになってきたんだと思いますね。これを吉田は全体を的確に読みとって、日本の置かれた立場、国力に応じて極めて現実主義的に、できる範囲内で、そうした自分達が外交の選択肢を確保して、1日もはやく主権の回復を求める。共産主義の脅威にしっかりと対処して、天皇制を含めた、日本の民主主義国家体制がきちんと発揮できるシナリオをつくると。これが、吉田が考えていた戦後の日本のシナリオなのではないかと思います。吉田はそれをちゃんと考えながらやっていたんですよ」
五百籏頭氏
「状況思考の達人です。現在置かれている状況の中で大局的に判断するのが吉田の持ち味です。当時の日本は敗戦国であって、食うや食わずだった。そういう状況でお隣の裏山にはソ連という1つの超大国があるわけですが、それがのしのしと日本列島に上がってきたら、逆立ちしても止められないです。それではどうしたらよいか。駐留してもいいなんて国を売った密約みたいにも聞こえますが、日本に防衛能力がない以上、強い猛獣であるアメリカに番犬になってもらうしかないという決断ですね」

日米安全保障条約
秋元キャスター
「日米安全保障条約調印について、アメリカ側の署名数は複数だったということですが、吉田茂は1人で署名しに行ったと。なぜですか?」
井上氏
「これは日米安保条約、特に行政工程、この不平等性というのは極めて明白で、せっかく独立を回復する講和条約を結んだのに不平等な条約を新たに結ぶのかということでは非常に評判が悪いのはわかっている。わかっているが、しかし、どうしてもこの条約を結ばなければ、講和ができない。ならばこの不平等なことをよく自覚したうえで、自分の責任でこれに調印するんだと。他の人を巻き添えにしたくない。この不平等性は明らかなのだから自分のあとの世代がちゃんと平等なものにしてくれ。ここはやむなく自分1人の責任で調印するんだと、そういう決意の表われと、そう解釈するのが自然ではないのでしょうか」
反町キャスター
「それはほとんど形式的なもので、外務大臣兼総理が署名するというのは時の内閣、ないしは時の政治家がそれに対して当然連帯責任を負うというのは、普通に思うと思うんですけどね、そこで形式にこだわって1人でサインするというのはそれほど何か重要なものだと思っていたのか、ないしはそのプロセスに何かを見出そうとしたのか。何かあるのですかね?」
井上氏
「同じ保守勢力の中にも、このことに対しては非常に強い批判があって、反吉田勢力が満を持して出てこようとしている時ですから、そういうのを国内政治用の意味で抑えるという意味も含め、自分1人で責任をとっていくという決意の表われが国内に対しても非常にメッセージ性があったと思いますし、すごみがあったと思いますよね」
武見議員
「私は、1人で署名したということの持つ意味と重みというのは大変大きいと。池田勇人にしろ、他、自分の後継となるべく将来の指導者達を傷つけないと。このことにかかわる認識が非常に強かったと思う。しかし、吉田自身これが不平等で国民から受け入れられるかどうか自信がなかったんですよ。しかし、これを結ばなければ講和条約を結ぶこともできない。その責任は一身に自分が負うと。これは麻生和子さんというお嬢さん。あの麻生太郎のお母さんですけれどもね。直接、麻生和子さんから私、聞きましたけれど、彼女は一緒にサンフランシスコに行ったんです。それで帰ってきて、自分はこの安全保障条約を1人で締結して、場合によっては国民に石を投げられるかもしれない。そのぐらい国民がどう理解をしてくれるかということについて不安だったらしいんですよ。ところが、羽田に着いて、羽田から車で公邸まで戻って来る時、日本の国民が皆、日の丸の旗で歓迎して帰国を受け入れてくれた。その光景を見て吉田は、目頭が熱くなったと言っていましたよ。これはこういう講和条約を結び、不平等ではあっても安全保障条約を結んだと。そのことについて国民がそれを理解してくれたと吉田は理解したと言っていましたよ」
五百籏頭氏
「大局的に見れば、戦後、日本を防備する力もない時を守るということは、思っていたけれども、なかなか理解されない心配もあったのでしょうね」

吉田ドクトリン
反町キャスター
「その結果出てきたのが吉田ドクトリンですよね。軽武装、経済重視。吉田ドクトリンが私達にとってどうだったのか…」
井上氏
「吉田ドクトリンはあとから言われたもので、吉田がもし生きていて、吉田ドクトリンはすごいですねと言ったら、これは自分の考えではないと言ったと思います。彼にとってはやむなく憲法改正も降伏条件として受け入れて、当面、食うや食わずの、日本をはやく経済復興させるためにやっているのであって、本来は帝国憲法のもとで機能するような立憲君主国でいいのだと思っていたわけですから、いずれ日本は再軍備、彼にとっての好ましい戦前の日本のようにしたかったはずなので、吉田ドクトリンと言われているような、軽武装、経済優先でうまくいったのは、結果的にアレは自分が考えた考え方かと言われると、それは違うと言ったと思いますね。だけれども、吉田がそういう形で戦後日本の基礎をつくった、そのあと吉田学校の優等生達が先進国にしていくために努力を重ねていった結果、全体として見た場合に、吉田ドクトリンと言えば、吉田政権時代から生まれた戦後日本の復興の路線として合理的に説明できるということだと思うんですね」

“外交官宰相”“ワンマン”
秋元キャスター
「吉田茂が外交にこだわった理由、これはどこにあったんでしょう?」
五百籏頭氏
「外交を誤って日本は日本史上初めての完敗ですね。主要都市が全部廃墟と瓦礫の山。そういうことは初めてですよね。それは外交を誤ったからだと。戦争にのめり込んで、外交が弱くなった。それをちゃんと外交で立て直そうということは外交官吉田茂の年来のテーマですね」
井上氏
「国内が、政治的な立場の違いを超えて、誰もがはやく独立を回復したいということです。これは現在からはなかなか想像ができないのですが、占領が5年も続くということがどれだけ国民の、どういう人の立場に対してでも不自由さと辛さを感じさせるのか。戦争とは違った意味での非常に過酷な体験ですね。それをはやく終わらせたいといった時に、こういう外交経験が豊富な首相のもとでアメリカと対等に渡りあえるぐらいの、時にパフォーマンスも含めて対等性を演出しながら少しでも有利な条件で講和に持っていこうといったことを、国民が非常に強く支持したのだと思いますね。私はフジテレビの関連のドラマで非常に面白かったのがありまして、それは昭和を扱ったドラマの中で、一庶民の吉田とは全然違う没落していったある男の人が戦後、吉田ファンになって、どんなことがあっても吉田の言っていることが正しい、新聞を読んで吉田の言っていることに感激する。最後に大磯の海岸で偶然吉田茂とばったり会い、感激して握手するというシーンがあったと思うんですけれども、あれは当時の戦後の大衆の平均的な意識だったと思うんですね。インテリは吉田とは対立して、南原繁東大総長みたいな人と対立するんですけれど、大衆は吉田を支持した。だからこそ長期政権にもなったと思うんですね。目標が1つの方向になっている時には国内が多少何であれ、皆そちらの方向に向いていく。その意味では吉田は非常に幸せな人だったと思いますね。国が、皆がこっちに向かっていこうというところにいた首相ということで」
武見議員
「戦前の日本は軍事力に依存し過ぎて、その結果、軍部が台頭して国策を誤り、まさに国滅ぼすというところまできたわけですね。その反省を彼は極めて深く持っていたわけですよ。むしろ軍事力よりも外交を通じて国益を求めると。この考え方を持っていたのは明白です。外交というものに軸足を置いた日本の戦後の外交安全保障政策というものを彼は基本にしたわけで、時代状況もまさにそれを求めていたが故に、非常に成功をして、軽武装の中で日本は経済の発展に邁進することができた。あくまでも冷戦という時代状況があったからであって、現在まさに壊れ、中国の台頭があり、米国の相対的な力の低下があると。この中で、従来の吉田であれば、おそらくまた違った認識で現状を見て、日本の外交安全保障を語ったと思いますよ」
反町キャスター
「現在、吉田ドクトリンから脱却するタイミングにあると」
武見議員
「現在の時代状況は、吉田ドクトリンというものだけではもはや対応できない時代状況に日本は置かれていて、新たな我が国のあり方、ドクトリンをもう1度、再構築していく時期にまさに我が国はあるのだろうと思います」

井上寿一 学習院大学学長の提言:『外交的感覚』
井上氏
「これは吉田が好んで使った言葉で外交的感覚のない国は滅びると。外交的感覚の重要性というのをこう言っているわけです。これを吉田ドクトリンが耐用年数を過ぎても吉田のこの言葉は現在も十分通用すると思います。言い換えますと外交優位の国内体制を確立していかなければ、日本はこれから立ちゆかないだろうなと思うんです。国内事情を優先して外交するのでは日本の先行きはないと。この外交的感覚で日本という国を運営していかなければいけないのだ。それは当時も現在も変わらない。むしろ今後一層重要になっていくのではないかと思って、外交的感覚と書きました」

五百籏頭真 熊本県立大学理事長の提言:『負けて勝つ』
五百籏頭氏
「総理になる決定的瞬間に武見さんのお父さんに対して言った言葉そのものでありますが、彼の戦略と言うんですか、アメリカという大きな存在、占領軍という力を上手に活かして、あたかもそれを受け入れるようにしながら、日本の再生自立につなげていく。そういう生き方でもあると。やや逆説を伴ったダイナミックな対処をやって、戦後日本という真っ白だったキャンパスに、太い線をダッと引いたのが吉田だと思うんですね。状況思考の達人として経済を優先して、それで健全なる体をまずつくる。その決断というのが非常に立派だったと思いますね」

武見敬三 自由民主党総務会副会長の提言:『徹底した現実主義』
武見議員
「私は吉田茂という人は徹底した現実主義者だったと思います。日本がまさに廃墟と化して、結果として米ソの冷戦がアジアにもどんどん広がってきて、その地政学的な状況を的確に読みとり、日本の国の置かれた立場、日本の国の国力。そういうものに応じて、極めて現実的な選択を1つ1つ的確にやっていった。それが今日日本の1つの基盤をつくることに成功したと思います。現在もまさに大きく地政学的な条件が変わりはじめ、かつまた国際社会全体を見れば、人、モノ、金、情報が国境を越えて行き交って、グローバライゼーションというのが地球規模でどんどん起きている時代状況の中で、あらためてアジアにおける地政学的な変化と、グローバルな意味での大きな国際社会の変化をいずれもきちんと受け止めて、現実というものをしっかり受け止めた我が国の国力に応じた外交安全保障政策というものをまさにこれからきちんと議論をして策定する時期に入ってきている。そういう時に吉田茂のこの徹底した現実主義というのを我々はもう1回見直す必要があるのだろうと思っています」