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2015年5月4日(月)
『昭和90年』の肖像① 三島由紀夫政治と覚悟

ゲスト

村松英子
女優
西尾幹二
評論家 電気通信大学名誉教授
小島千加子
元編集者 ※VTR出演
徳岡孝夫
元新聞記者 ※VTR出演

評論家 西尾幹二と三島
秋元キャスター
「三島由紀夫と彼の生きた時代を見ていきたいと思います。大正14年、東京の四谷で生まれました。初等科、中等科、高等科と学習院に通っています。昭和19年、東京帝国大学、現在の東京大学法学部に入学します。昭和20年、20歳で終戦を迎えます。昭和22年に大蔵省に入省するも、執筆活動に専念するために、翌年9月に退官しています。昭和24年、書き下ろし長編小説の『仮面の告白』を刊行。この作品が大きな話題を呼び、24歳で一躍著名作家となり、以後、次々と話題作を発表していきます。西尾さんは、三島さんとは1度会っているということですが」
西尾名誉教授
「1回しか会ったことがないんですけども、ちょうど私がドイツから帰ってきて、ある雑誌に長編連載、自分の体験、あとにヨーロッパ像の転換と題する、新潮新書から出た本ですが、それが出る直前、私の連載を三島先生が大変評価してくださっているという噂を伝えてくれる人がいて、たぶん新潮社が間に入っていたのだろうと、現在思い出せなくて、わからないのだけれども。それで推薦文を書いてくださるという話になって、推薦文をまだ見ていないうちに、先にお礼に行ったというか、顔も見せないでそんなものをもらうのは失礼だと思ったので、それだけの話ですけれども、でも、その推薦文はあとでもらったら、大変褒め過ぎで、恥ずかしいぐらいの褒め過ぎだったのですが、とにかく伺ったら、真っ白く、くるくる階段を登っていく、極めてユニークな建物。私を紹介してくれる人と一緒に上がっていきまして、そうすると、元気のいい、快活で、ピシッとした姿勢で『三島です』と、私が座っているところへおいでになって、用意されていたビールをサッとついでくれて、とにかくよどみなくお話になられ、呵呵大笑するし、それから、いろいろ人の悪口を言ったりするんですけれども、そこは何かデリケート、デリカシーが欠けているという印象はまったくなく、とにかく、まだまったく仕事を始めていない1人の文学青年を遇するふうではなくて、本当に1人の人間として接してくれているわけです。これは学校の先生、私の若い頃は、学校の先生がお宅を訪ねることはあるわけですけれども、そういう雰囲気とまったく違うんです。率直、かつ礼儀正しくて、トイレに立とうとしたら、サッと階段を駆け下りて、ドアをバッと開けてくれるんです、ここですと言って。そんなことをできるなんて、考えられないわけです。そのあと、夕食に呼ばれて、奥様のお料理を頂戴し、いろんな話を伺ったんですけれど、これからゴーゴーを踊りに行こうと。ゴーゴーなんて踊ったことないし、あまり見たこともないんだけれど、ゴーゴーを踊りに行こうというので、ついて行ったわけです」
反町キャスター
「ちょっと断りにくいですね。行こうと言われると」
西尾名誉教授
「しかも、奥様もご一緒にご同行で、途中で六本木のある店を指しまして。あそこの角に、小田実が建てたんだと。私はそのあたりの空気が一変に汚れ、濁ったように思えて、一目散に走って逃げたんだと。そういうところがいかにも三島さんらしいです。だからといって、私はデリカシーに欠けているとは思わなかったです」

編集者が語る三島
秋元キャスター
「三島由紀夫と長い間、編集者としておつきあいをされていた、元新潮社の小島千加子さんにも話を聞いています」
小島氏
「これが、三島さんが亡くなった日にいただいた連載小説の最終回。もちろん、最終回ということは、三島さんは一言もおしゃっていない。普段なら、あと3回で終わる、何月号で終わるとおっしゃるんですけれども。ですから、こちらは寝耳に水で、びっくり仰天して、慌てて後ろを見たら、また、丁寧にこういう書き方がしてある。どういうことだろう。この小説『天人五衰』の頃になると、本多というのが歳を取っちゃって、明らかに死期が近いとわかるわけです。三島さんは人間が歳をとることは滑稽だと言うんです、許せないと。始めのうちはその程度だったんです。老いは嫌いだと言ったってそれは自然で、人間誰もが歩いていく道だから、こちらは気楽に考えていたんだけれども、三島さんの本当の願いは、ご自分で正直におしゃっていたのは老いることが醜いと。自分が老いることは許せないと。根本はそれだろうと思うんですね。60、70ましてや80、90になった自分なんて思い描くのも嫌だったのではないですか」
――三島由紀夫とは?
小島氏
「言葉の大切さ、文章というものの美しさ、文章が人に訴える力。これはすごいと思います。本当に複雑だと思うのは、あれだけ、あの当時、スター扱いです、文壇の中では。現在みたいな世の中と違ってあの当時の三島さんの活躍ぶりは華やかで、人が新聞などで、だいたい三島さんが何を観に行ったとか、こんなことをやっていたとか。すぐに新聞のちょっとしたコラムの中に出るくらいの、本当にスター級の人でしたから」
秋元キャスター
「小島さんのお話を聞きましたけれども、三島さんは老いが許せないということでしたけれども、村松さん、それは感じていましたか?」
村松氏
「口癖でした。老いることは醜くなることだから嫌いとおっしゃって。だから、三島先生、御能が好きでしたから、能の世阿弥の言葉に、若い時には若さの花があって、中年でだんだん成熟していって、老いになる、歳をとると、そこで咲かせるのが本当の花だという著述があるんです、花伝書の中に。どうして御能が好きなのに、それを大事に覚えて意識してくださらなかったのかと、山本健吉さんという評論家が先生の追悼のアレでおっしゃったのが印象的でしたけれど。三島先生はともかくボディビルをやったりして、ひ弱だったのに手に入れた素敵な肉体を、これは人工的だからとおっしゃっていたんです。若い人がマイカーを自慢するみたいに、僕は筋肉を自慢したいし、見せびらかしたいのだとおっしゃっていた方ですから、それが衰えていくなんて許せなかったでしょうし、もともとシェイクスピアみたいに老いは嫌い、若さが好きな方でした」

弟子が語る劇作家三島
秋元キャスター
「村松さんが、三島さんから聞いたという言葉をいくつか挙げてあるんですけれども、なかなかすごい言葉なんです。『僕の文学のエロスの井戸に棲む蛇は、日本の能です』と」
村松氏
「僕の文学のエロスの井戸に棲む蛇は、というのは、フランスのクオリティ紙の新聞のル・フィガロの記者に、あなたの文学のエロスは何と聞かれた。それに対する答えです。この頃になると、先生は本当に文武両道とおっしゃったし、日本の文化をとっても大事にするようにおなりになっていて、先生はまず文武両道で、肉体を大事にする方と、剣道を始め、居合をやっていらっしゃったし、文と武の両方です。御能というのは、侍の、武家の文化です。と同時に、言葉は、日本語が1番美しかったと言われる、古今集の時代、あるいは新古今集の言葉です。だから、こんなに美しいもの。武家文化として大事にして、非常に洗練されたものですから。そういうものを全部ひっくるめて三島先生は能しか信じない。様式として能しか信じない。と言うのも、口癖でおいでになりました」
反町キャスター
「作家でもあり、戯曲の脚本家でもあった。その違い、その使い分け。村松さんは三島由紀夫から話を聞いたことはありますか?」
村松氏
「先生はもっと芸術的な話をしていらっしゃいました。小説はお金になるから、妻子が養える。戯曲は全然、お金にならないから、趣味みたいなものだというような言い方をおっしゃっていましたけれども、それは先生特有のレトリックであって、同じように真剣にお書きになりました。極端な言い方ですけれど、先生は、作品と自分の間に距離を置く方でしたけれども、小説には地の文章があります。戯曲は全部セリフでしょう。だから、先生自身は隠れられるんですね。何の何某に全部言わせちゃうのですから。と言うようなことはあったと思います」
反町キャスター
「戯曲の方が、三島由紀夫が出ているんですね?」
村松氏
「勘がいい」

楯の会と全共闘運動
秋元キャスター
「作家として活躍していた三島由紀夫ですけれども、昭和40年代に入りますと政治活動家としても目立つようになってきます。昭和42年自衛隊に体験入隊します。昭和43年、民兵組織『楯の会』を結成。昭和44年、東大全共闘の討論集会に参加ということになっていますけれども、西尾さん、三島さんが自衛隊に体験入隊し、『楯の会』結成に向かった、この背景というのはどのようなものなのでしょうか?」
西尾名誉教授
「まったくわかりません。と言うのは、三島さんはいろいろな行動をしましたから。自衛隊体験入隊もその1つで、思想的にはよくわかりましたけれど、そこまでするということは、普通の人には理解できなかったし、『楯の会』も、私は制服を着た姿の人達を見たことはないですよ。その中の1人が、あとに私の友人にもなっていますから、いろんな話を聞きましたけれども、なぜそこまでするかというのは正直わからなかった。それを持ってきました。『三島由紀夫 東大全共闘』という本です。話題になった討論。三島由紀夫対東大全共闘。面白い箇所を一か所だけ、ちょっと読んでみます。とても面白い箇所ですが、いきなり東大の全共闘の学生と三島さんの討論で、三島さんはこう言うんですよね。『私は、モーリアックの書いた「テレーズ・デスケルウ」の小説をよく思い出すのです。あの中に、亭主に毒を飲ませて殺そうとするテレーズという女の話が出てきます。何だって亭主を毒殺しようとしたか。愛していなかったのか。これははっきりは言えない。憎んでいたのか。これもはっきり言えない。はっきり言えないけれども、どうしても亭主に毒を盛りたかった。その心理を、モーリアックは、いろいろ追求をしているだろうが、最後にテレーズは、亭主の目の中に不安を見たかったからだというのであります。私(三島)はだねと思うのですが、諸君も、とにかく日本の権力構造、体制の目の中に不安を見たいに違いない。私も、実は見たい。別の方向から見たい。私は安心している人間が嫌いだ』と。これが三島さんと全共闘が、ある意味で、心理的にピタッと一致する場面です。面白いでしょう」
反町キャスター
「それはどう感じますか?政治行動としては真逆になるんですね?」
西尾名誉教授
「真逆というよりも、共産党も自民党も腐っているという、そういうことでしょう。共産党に忠実な政治的行動。自民党に忠実な政治的行動。どちらも政治的です。全共闘というのは非政治的ですよね。ある意味ではめちゃくちゃだったから。そうして、それがめちゃくちゃだったから、ところが、不思議なことが起こるので。作家というのは、本当に私は不思議だと思うのですが、実は三島さんの『楯の会』は、結果としては、その次に起こる、いわゆるカルトというものの走りですよ、『楯の会』は。ですから、ご承知のように、作家というのは、時代の病を、自分が表現するんです。時代の病を。全共闘運動というのは2つの方向に分かれるでしょう。1つは、言うまでもなくおふざけみたいな方向にいっちゃう。つまり、次の時代、70年過ぎ、三島さんが死んだあとは漫画チックになります。田中角栄が出てくるでしょう。田中角栄というのは権力を愚弄する人物として出てくるわけです。皆、拍手するとともに、権力と権威を愚弄する。権威を愚弄するものが、当時の全共闘で、その後、いっぱい東大とか、皆、権威を叩くではないですか。『白い巨塔』という映画が出てきて。そういう方向と、それから、あくまで全共闘的理念を信じる勢力はハイジャックとか、赤軍派とか、穴倉を掘るようにいくではないですか。三島さんは、愚弄の方にいかなかったんです。穴倉を掘る方と手を結んだんです。ある意味、裏側から。裏まわしで。ですから、危険な行動だったんです。大事なことは…」
反町キャスター
「危険な行動というのは、つまり、『楯の会』の目指しているものはどういう形で権力者を不安がらせたいと思っていたと思いますか?」
西尾名誉教授
「それはわかりませんけれども、あれが結成された時期は、間違いなく、日本の危機だったんです。危機が訪れると三島さんは期待したし、小林秀雄ですら。あの時、皆が立ち上がっていたら三島は腹をかっ切ることはなかったかもしれないと。あの時、皆が立ち上がるような空気があったんです、日本の社会が。つまり、天皇制をいただいた共産革命ということを言っていたわけですから、共産党は。危なかったんですよ、日本は。新宿事件があったでしょう、騒乱が。激しくいろんなことがあっても、全部はっきり拒絶しないでしょう、日本の社会は。そのうちにどんどん社会が混乱をしていく。それに終止符を打ったのは、1969年の年末の総選挙。それで自民党が大勝して、いっぺんに世の中、保守化するわけですけれど。それまでは本当にこの国はどのようになるかわからないから、三島さんは本気でそれを信じていたと思います」
反町キャスター
「だけど、1969年の選挙で自民党が大勝して、そのあとですよね?」
西尾名誉教授
「いや、それはそのあとだけれども、三島さんの振り上げた拳は、どこへ持っていっていいかわからなくなるではないですか。一方では、青年達は穴ぐらのように、浅間山荘事件とか、あちらの方にいっちゃうではないですか、赤軍派とか。三島さんは、時代の病を背負ったんです、そういう意味では。この時代の持っていた、おそらくその次にオウム真理教が出てくるではないですか。それらの時代の持っているいろんな不思議なニヒリズムの極限みたいなものを体現した人です」
反町キャスター
「麻原彰晃と三島由紀夫を同列で扱っているように聞こえますが」
西尾名誉教授
「結果として、現象面として、社会心理的現象面」
反町キャスター
「麻原彰晃も三島由紀夫も時代の不安を体現する存在だった。そういう意味ですか?」
西尾名誉教授
「そうです」
反町キャスター
「村松さんは初めに会った時というのは、三島由紀夫は別にボディビルをやっているわけでもないし、『楯の会』をつくっていたわけでもありませんね」
村松氏
「最初はボディビルを続けていらしたようですがお目にかかる前からやっていらした」
反町キャスター
「だんだんと政治的なものに対する想いが強くなっているか。ないしは『楯の会』を結成した時期、自衛隊に体験入隊を重ねていくような時期。そういう時期を経ていって、三島由紀夫にどういう変化があったように感じますか。それとも、変化は、変わらなかった。ずっと三島由紀夫は三島由紀夫のままだったのですか?」
村松氏
「演劇に関しては、特にお変わりになったことは感じませんでしたけれど、亡くなる頃になったら別です。その時の話はあとですればいいでしょう?そうではなく、それまでの経過としてはそんなではありませんでした。ただ、先生と個人的に、いろんなお話をする時には、60年安保のことになると、いろんな社会の流れを見ていらして、危機感をお持ちになって、70年安保はそんなに盛り上がらないというか、変な言い方ですけれども、ポシャったんです。ですから、先生はそれをなさるアレはなかったし。それから、その前には大きな形で民兵をつくろうと、シビリアン・コントロールという言葉をおっしゃっていましたけれど。それがうまくいかなくて小さな隊というか、『楯の会』になったというか、あれは何となく見ていました。何となく遠くから。遠くからというか、ある距離を置いてです」
西尾名誉教授
「三島さんはあるところで明日がないという生き方をしたいんだと。明日があるという生き方をするのだったら、これは嘘をついたことになると。戦争中は、来週の水曜日、帝国ホテルで会いましょうという約束はできなかったと。空襲があれば、それまでなので。従って、その日はわからないと。つまり、それが僕の文学の原点だと言うんです。わからないという1点に基準があるんだと。それが、僕の悲劇理念だというようなことをおっしゃっているんです。つまり、それは未来が見えないということで、未来が見えないのは人間の生き方、全てに共通することですけれども、呑気な社会の中で、そうではないという生き方があるということを体で表現しているわけです。そうしなければ文学として成立しないというのが三島文学だったと私は思うわけです」

新聞記者が語る三島事件
秋元キャスター
「三島事件ですが、自決直前に三島由紀夫から手紙を受けとっていたという新聞記者の徳岡孝夫さんに話を聞いてきました」
徳岡氏
「三島さんは、たとえば、デモが起こっている時にデモの横に立ってデモを観察する、あるいは全共闘が東大の安田講堂を占拠したら安田講堂へ行って、彼らと論争した、そんなことをしたのは作家の中で三島さん1人だけでしょう。三島さんは要するに、原稿を書くだけでなくて行動、アクションを信じていましたから、そういう時代に、積極的に関わっていました。11月25日です、会社で10時に電話が鳴ったと。『三島です、お手数ですが、午前11時に市ヶ谷会館のロビーに来てください』と。11時に『楯の会』の1人が『これが三島隊長に頼まれたものでございます』と私に渡した。この封筒を手にとって、これは三島さん1人の写真です。それから、その時に亡くなった森田君の写真です。それから、手紙が出てきた。手紙には『バンコク以来の友情に感謝してこれを書きました。傍目にはいかに狂気の沙汰に見えようとも、私どもとしては憂国の心、憂国の情に出たものであるとおわかりいただきたくこの手紙を差し上げた次第です』と書いてあった。ちょっと普通の事件と違うぞ、何かあるぞとその時、思いました」
――なぜ三島由紀夫は自決という道を選んだのか?
徳岡氏
「文武両道ですね。文と武があるとすれば、自衛隊に武の伝統を継ぐものであると見たのではないのでしょうか。武の伝統を捨ててしまって日本は優しい文の伝統だけでやっていこうと思っても無理なのではないでしょうか。どこかで日本人も戦わなくてはいけないのではないでしょうか。自分を守らないといかんという局面に立たされるのではないかと…人は永遠に生きられるものではない。そうしたら命を何のために捧げるのか、家族のために捧げるのか、国のために捧げるのか、あるいは抽象的な大義のために捧げるのか、人によって違いはあるでしょう。人によって命の使い方はいろいろあるのでしょうけれども、しかし、三島さんのように45年の人生をあの一瞬に使い果たしてしまったと。この使い方も1つの使い方ではないかと思いますね」
村松氏
「三島先生は、文武両道ということでやっていらっしゃいましたから。その武を突き詰めていったら死ですよ、突き当たるのは。武士道は死ぬことと見つけたりと。『葉隠』を先生がお好きだった、そうなっていきますでしょう。先生はこんな時に、こんな形でというのは思いませんでした。お母様に三島先生は『僕のすることは100年後、200年後にならないと分かってもらえないと思う』とおっしゃっていたそうです。ですから、当時、私達は皆ショックを受けましたけれど、皆はうろたえて、うろうろして、まだ100年、200年は経っていませんけれども。演劇的な立場からすれば、私は2つの変化を先生から体験しました。1つは、夏のある日に呼び出されて、それこそ西尾先生ではないけれども、ゴーゴーを一緒に踊って、それから、お食事の時に、芝居を君のために書くと約束したけれど、したかなと思うんですけれども、先生はそう思っていらっしゃる。小説を先行しなくてはならないから、再演のもので我慢していてということが1つです。お芝居書くことは2度と…先生は死ぬことを決めていらした時です。それを一生懸命、義理堅いから、私に説明してくださった。あとでわかりましたね。それから、英子は女だから幸せにならなくてはいけないよとおっしゃったんです。女の幸せとは先生、何ですかと伺ったら、それは母親になることだよっておっしゃった。先生ったら太宰治と反対のことおっしゃる。太宰は女には幸福も不幸もないのですなんて書いているでしょう。ふっと思いましたけれど、先生すごく真面目な顔をしておっしゃっていたから、そんな軽口はたたけませんでした。帰りに送られた車の中で私は不安に駆られて、先生死んじゃ嫌ですよと言ったんです。打てば響く方です、先生は。パンパンと響くんですけれど、その時、絶句なさったの。絶句してそれから、僕が死んだら英子は怒って僕の首蹴飛ばす?とおっしゃったの。先生、悪趣味と思いました、私。そうしたら、ははってお笑いになって、そうしたら車は家の門の前に着いてしまったので、おりますよね。そうしたら先生、窓開けてとっても優しい微笑みで送ってくださったんですけれど」

三島事件の声明文“檄”
反町キャスター
「三島由紀夫は檄文を配りました。檄文の中で『国家百年の大計にかかはる核停條約は、あたかもかつての五・五・三の不平等條約の再現であることを明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル1人、自衛隊からは出なかった。(中略)あと2年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵にとして終わるであろう』と、西尾さんは、何でここの部分がポイントだと?」
西尾名誉教授
「三島さんの自決が外から見て良くわからないと言われるのは、特に外国の人にとってわからないのは、当時、日本は日米関係が安定していて、70年は自動延長でしたし、外敵はいないし、平和で、何で敵がいないのに戦うのか。自閉的、幻想的な文学者の思い込みの死なのかと、こういうことで具体的に現実社会の中にとっかかりがないかと、機運はないのかと、皆だいたいそう言われていたわけですよ。しかし、当時は、1963年に核不拡散条約というのが結ばれます。1964年、東京オリンピックの年に中国が核実験をしています。1965年に佐藤栄作がジョンソン大統領と会談します。佐藤さんは日本の核武装を求めますが、にべもなく断られてしまいます。当時、台頭してきた日本とドイツに対して核を持たせないというのが、実はこの核不拡散条約(NPT)の最大の目的。それは、村田良平元外務次官もそういうことを言っていますが、1968年にNPTが調印されます。しかし、日本はこの調印をためらい続けます。調印はするんですけれども、批准は6年後、三島由紀夫さんが亡くなってから6年が経った1976年にやっと批准をするんです。つまり、それはなぜかというと、ためらいは国家を守るという粘り強い意思が当時の日本政府にはあったということです。外務省にはあったし、日本の自民党政権にもまだあった。つまり、二重国家になってはいけない、いつまでも敗戦国であってはいけないという想いが日本人一般の中にまだあったから、6年間言うこと聞かなかったわけですよ」

三島事件とは何だったのか
反町キャスター
「仮に自決をしなかったら…」
村松氏
「あり得ないですよね。と言うのは、(三島)先生は、自衛隊に何度も入隊をしていらっしゃいます。自衛隊を知り尽くしていたのが先生です。だから、自衛隊にそれこそ夢なんかかけてないですよ。自衛隊が決起すると思っていらっしゃらないです、初めから。それも先読みしていらした。そのうえで、マイクロフォンを使えば聞こえたでしょうが、しかし、あれは様式的に肉声でなければならぬとおっしゃったそうです。聞こえなくてもいい。ご自分の様式を守ったんです。檄文が三島文学から逸れている。様式に則っとったからです。和歌が先生らしくない。これも様式に則ったからです。全部様式に則ったうえで、先生はある意味での無駄死にとわかっている無駄死にを諫死としてなさった。自衛隊が決起するなんてさらさら思っていらっしゃらなかったと思います。だから、『薔薇と海賊』の最後の台詞が大事です。『私は決して夢なんぞ見たことがありません。』これが先生の心境です」

女優 村松英子氏の提言:『情熱と冷徹な批評眼』
村松氏
「(三島)先生は私の大恩人ですし、演劇上、人生も教わったし、褒め言葉というのかいろいろあります。しかし、先生がファナティクと言われるほど並外れた激しい情熱をお持ちで、片方で非常に冷徹な批評眼を同時にあわせ持つ天才だったんです。だから、先生は市ヶ谷の時も、人からどう見えたかは知らないけれども、最後まで冷静でいらしたと思います。そういう天才の真似はできません。天才のみ持てる2つを同時にあわせ持つことですから。でも、この情熱と冷徹な批評眼をあわせ持つということは、非常に大事な姿勢ではないかと思います。片方に偏らないで」

西尾幹二 電気通信大学名誉教授の提言:『アメリカの袋を破れ』
西尾名誉教授
「私は反米では決してありません。アメリカに占領された。中国やロシアに占領されないで良かったと思っています。それから、アメリカは考えられる限りある種の寛大な帝国です。もう1つ大事なことは、戦後アメリカのマーケットを日本に解放した。それで日本の経済が成長したということもアメリカに感謝し続けなければいけない大きなポイントだと思っています。しかし、日本人が、自分で破らなければ、踏み越えなければいけないのは、アメリカという袋の中に入れられてしまった、袋の外から見ることができないですね。袋に入れられたものは自分の姿を見ることができないですよ。現在の日本人は概ねそうですよ。本当に愚かにもそういう状況に陥っていると思います」