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2015年5月1日(金)
ベトナム戦争終結40年 日本人記者が見た真実

ゲスト

古森義久
産経新聞ワシントン駐在客員特派員
牧久
元日本経済新聞記者
藤本博
南山大学教授

米の軍事介入 その背景
松村キャスター
「ベトナム戦争の構図をおさらいします。そもそもフランスからの独立を巡って勃発したインドシナ戦争を経て、ベトナムは南北に分断をされていました。当初はソ連、中国の支援を受ける北ベトナム軍と、アメリカ軍からの支援を受ける南ベトナム軍が対立。その後、南ベトナムで政府とアメリカの打倒を目指す、解放民族戦線が北ベトナムの支援を受けて活動を開始します。さらに、アメリカ軍も直接、介入することで四つ巴の戦いが繰り広げられました。最終的な犠牲者の数ですが、兵士については、米軍側がおよそ5万人。南ベトナム軍がおよそ17万人。北ベトナム軍が、およそ110万人と。民間人は南と北をあわせ、およそ200万人が犠牲になったと見られています。年表でアメリカの軍事介入の歴史を見ると、トンキン湾事件を経て、最初の北ベトナム爆撃、ローリングサンダー作戦を開始します。その時は、米軍はおよそ18万人を投入していることになります」
反町キャスター
「トンキン湾事件についてちょっと細かく簡単に紹介だけしたいのですが、トンキン湾事件は、北ベトナム側が南ベトナム軍の艦艇かと思って魚雷を撃ったら、それがアメリカ側の駆逐艦だったという事件ですけれど、これに対してジョンソン大統領は、我が国に直接向けられたこの新たな攻撃行動は、戦う重要性を再び思い知らされたと。これを受けて、アメリカ軍が、さらに、軍事介入の度合いを強めていくこととにはなるんですけれども、このトンキン湾事件、少なくとも2回の魚雷攻撃がアメリカ軍側にあったとされるのですが、2回目以降、8月4日の攻撃はニューヨークタイムズが後日、入手した機密文書によると、アメリカが仕組んだ捏造だったことが明らかになっているということですけれども、捏造という前提で聞いていきます。古森さん、これは1回、北ベトナム側は魚雷を撃ったということだけれども、十分、それなりに理由としては成立するとは思うんですけれども、捏造してまで、前のめりに、北ベトナムに対する軍事的な介入をしたかったようにも見えます。このへんにおけるアメリカ側の、ベトナムに対する想い、どういう狙いがここにあったと見ていますか?」
古森氏
「当時の状況で、南ベトナムという国家が完全に軍事力によって崩されてしまうのではないかと。これはとめなければいけないという、アメリカ側にとっての、当時の、国家的要請というのが、非常に強かったと思うんです。特に、民主党政権、ケネディ政権のあとを継いだジョンソンさんはそういう考え方を持っていた方ですし、支える民主党の政治家達の間にもそういう意見が強かったと。もう1つは、トンキン湾事件では、2回目と反町さんおっしゃったけれども、1回目というのが8月2日にあって、実際に北ベトナムが撃っているとあとから認めているわけですね。だから、北ベトナムが非常に好戦的な態度をとっていて、アメリカとの対決を辞さないというような状況が既にあったということ。一方、うんと後ろに下がって、俯瞰して見た場合に、アメリカが介入していかないと、超大国が出ていかなければいけないと。西側の自由民主主義の旗手として出ていかなければいけないという、これはあとづけで、たとえば、この時点で、北ベトナムは南を軍事力で倒そうとしていたという、あとから、そういうことを言う人が出てきたんです、学者で。もう1つはSEATO(東南アジア条約機構)という東南アジアとアメリカが入った軍事同盟らしきものがあって、これが1つの根拠になる。それから、もう1つは、飛躍ですけれど、国連のいろいろな憲章の中で軍事力で国家を殺そうとする、要するに、意図とか、試みがあれば、それに対して対応してもいいんだというような、そういう原則があるとか、いろんなあとづけの理論というのは、この40年に渡って出てきているわけで、それほど、アメリカという超大国にとって要請が強かったということだと思います。だから、ほんの氷山の一角のようなトンキン湾のことをうまく使って、そのことだけ見れば、捏造できて、やり方が汚いではないかと言えるかもしれないけれども、背景には、そういう熟成された雰囲気というか、(アメリカは)世論の国ですからね。アメリカの世論はベトナム介入と言っていたわけですね、当時は。その後、ギュッと変わりますけれども」
反町キャスター
「牧さん、この時点におけるアメリカの想い。捏造してまでやらなくてはいけないほどの、勢いがあったのか。ないしは古森さんが言われたみたいな醸成された流れの中で、トンキン湾事件というのが、いわば1つの通過点にしか過ぎなかったのか、どうか。そのへんの当時の情勢。どんなふうに感じていますか?」
牧氏
「私はその年に日本経済新聞に入ったんです。当時ちょうどオリンピックの年で、社会部にいましたもので、ベトナム戦争なんてまったく関心のない時代だったわけでして、その時には読者だけだったんだけれど、大学時代からの流れの中からいうと、ここはソ連とアメリカが真正面からぶつかるというようなことになってくるのではないかという予感はしていたということで、その分析までは私はしていなかったということですね。たぶん、その後の流れを見ると、それは単なる解放戦争ではなくて、ソ連とアメリカの代理戦争が始まっていたのだと思っています」

北ベトナムの反撃 戦闘は泥沼に
松村キャスター
「アメリカが圧倒的な戦力を展開しながら、なぜ泥沼化したのかの検証をします。北ベトナム軍によるテト攻勢で、アメリカ大使館までが占拠された他、米軍による虐殺事件なども起きます。この頃、ジョンソン政権が送り込んだ兵士は、およそ54万人とピークを迎えています。さて、写真があるのですが、アメリカ軍が大使館を奪還したあと、最後に隠れていた北ベトナムの兵士が連行される瞬間を捉えた写真です。アメリカ大使館が占拠されるまでになったのですが、最新兵器と近代戦術を駆使するアメリカが、なぜ発展途上国のベトナムとの戦争に苦戦したことになるのでしょうか?」
藤本教授
「私が思うには2つありまして、アメリカは空から空爆をしました。実は、北ベトナムだけではなくて、南にも砲撃、あるいは空から爆撃がありまして、むしろ南の方が多いぐらいですね。それで1つは当然、南ベトナムに54万人以上の軍隊を派遣したんですけれど、サーチ&デストロイという敵を殲滅するという作戦をとっていったのですが、まず前者の空爆、あるいは爆撃、空からの爆撃の問題というか、マクナマラ国防長官がどうして自分達に限界があったかというと、2つ考えることができるんです。1つは農業社会であります、ベトナムは。ですから、工業国を対象にした戦略爆撃がうまくいかないということは66年ぐらいからマクナマラ自身が気がついていたことですね。それとベトナム、解放民族戦線側の粘り強い抵抗があったと思います。地下トンネルを掘って、それから、当然物資は北から南にホーチミンルートというのを通じて送られていましたから、その修復を、本当に人民戦争と言っていましたけれども、人民戦争的に修復して爆撃自体がうまくいかないという。地上作戦について言いますと、敵と味方がわからないような状況の中にあり、村を救うために村を破壊しているという状況に、アメリカ軍が置かれるということです。これはアメリカの退役軍人で、大佐までいったシャンドラー氏という人が言っているのですが、南ベトナムを救うという、それが政治目的だったわけです。政治目的と地上作戦の矛盾というか、いわばハートアンドマインドが掴めなかったところに1番の問題があると言っているんです」

テト攻勢 北ベトナムの狙い
反町キャスター
「テト攻勢というのが、1つの節目になったという、テト攻勢というのは、どういう転機になったと見たらいいのですか?」
古森氏
「テト攻勢がもたらした1番大きな、革命側から見た成果は、アメリカ国内の世論を反戦にしたことです。お茶の間に、初めて戦争を持ちこんだ現象だと言うのです」
反町キャスター
「それよりも前、アメリカのメディアはベトナム戦争の様子を放送していなかったのですか?」
古森氏
「していたでしょうけれど、アメリカ側が負けるとか。大使館に部隊が突入するという光景がなかったんです。それでジョンソンさんは、アメリカは勝っている、勝っているとずっと言っていたわけだから、それが、全然勝っていないではないかと。やられているではないかと。全体として見れば、このテト攻勢というのは、軍事的には失敗だったわけです。北側がすごく打撃を受け、それ以降、1968年以降、南ベトナム独自の革命勢力というのはほとんど打撃を受け、なくなってしまって、ますます北の支配が強くなったという資料もいっぱいあるわけです。だけども、政治、プロパガンダというか、政治的宣伝という効果がすごく大きかったということです。アメリカは世論で動きますから。一方、北ベトナムというのは共産主義でがっちりしている国だから、世論がどう言おうが、政府の決意で動くわけだから、このへんの体制の、価値観の違いというところまで感じさせるほど、テト攻勢のアメリカ国内におけるインパクトというのは大きかったです」
藤本教授
「実際にテト攻勢の前は楽観的なムードが、ジョンソン政権の中にありましたから、アメリカ国民も楽観的なものがあって、それも政治的に打ち砕かれ、1968年の予備選挙で、反戦派のユージン・マッカーシーという人が、民主党の大統領候補で立候補して善戦したんです。それを、ジョンソンが1968年の3月に、大統領選挙に出馬しないと声明し、最終的に1968年10月に北爆の全面停止を発表していくという。むしろアメリカ国内の世論の転換を解放勢力側も考えていたという点も重要だと思います」
反町キャスター
「タイミングが悪かった?」
藤本教授
「ええ」
反町キャスター
「牧さん、いかがですか?テト攻勢どう見ていますか?」
牧氏
「テト攻勢で私の会社の先輩の酒井辰夫というのが、ロケット砲に当たって死んでいるわけです、サイゴンの市内で。そういうところから、ここのところ、テト攻勢とは何だったのか、私も調べ直してみたんです。確かに、テト攻勢によって、アメリカの世論を変えたと同時に、ベトナムにおける北ベトナムと解放戦線の実態も、あそこですごく変質を起こすわけです。それは何かというと、南に行った解放戦線の、南の人達が1番、アメリカ軍の反撃によって、壊滅をしているわけです。壊滅を受けて、解放戦線の実態がそこでほとんどなくなるわけです。そこに北から密かに人を送り込むわけですね。その時に北(ベトナム)から入ってくる正規の軍隊は、17度線を超えて入る時は、皆、軍服を脱いで、南の人間であるということになって入っていくわけです。そうすると解放戦線の実態がだんだん本当の解放戦線の南の人ではなく、北からの人達に変わっていった。1番証明されたのが、古森さんも知っているけれども、サイゴン陥落後の戦勝記念日で5月15日ですけれども、大祝勝会が大統領官邸の前であったんですけれども、そこの真ん中に座ったのがファム・フン氏という人です。彼が3番目に挨拶をしたんだけれど、ファム・フンというのは我々も知らなかった。ファム・フンは誰だということになって調べてみると、これは南におけるベトナム労働党のトップであると。こういうことになっているわけです」
古森氏
「北(ベトナム)の人だけど…」
牧氏
「北というのは1967年、テト攻勢の1年前に、彼はそれまで北の副首相をやっていたわけです。労働党のナンバー4だったのです。彼がその時に消えたということになっているわけです。アメリカの資料を読みますと、消えたのだから、失脚したんだとか、そういう声が結構あったんだけれども、失脚したのではなくて、その時、南に彼が入って、南の正規軍を指揮していた」
反町キャスター
「北ベトナム労働党のナンバー4が身分を偽って、前線の指揮官になっていたということですか?」
牧氏
「労働党の指揮官になって、それがいなくなったと騒ぎになって、失脚したのだろうという話になったんだけれども、それが南で指揮を執っていたというのがわかるのが1975年のサイゴンの陥落後だったということになるわけで、だから、その時に変わったんだと私は思っています」

米軍撤退 その背景
松村キャスター
「ニクソン政権になりますと、米軍は徐々に介入の規模を縮小します。いったん大規模な北爆を再開したうえで、パリ和平協定に調印し、2か月で完全に撤退することになるのですが、この和平協定調印時にニクソン大統領はこのように述べています。『名誉ある平和をもたらす協定を本日締結したことを発表する』。藤本さん、この名誉ある平和とはどのような意味なのでしょうか?」
藤本教授
「名誉あるというのは、あくまでも南との政権を維持する。つまり、パリ和平協定では、軍事的には最終的に3月にサイゴンから撤退しましたけれども、政治問題は、その後に委ねられたということですので、しかも、サイゴン政権の親米政権が1つの政治勢力として残ったということで、そういう意味では、南の政権が維持されたということで、名誉ある撤退による平和という言葉がここで使われているということです」
反町キャスター
「そうすると、ニクソン大統領にしてみたら、これはアメリカの面子を保てたし、南ベトナムの政府も保てたし、その意味おいては、直前において北爆で、爆弾をドコドコ落としたことによって交渉に引っ張り出し、少なくとも現状維持ぐらいまではできただろうと。南ベトナム政府がこれによって消滅することはないだろうという主旨の?」
藤本教授
「そうですね。実際に、必要であれば爆撃も再開するという、そういうことも秘密裡にサイゴン政権と約束をしていたと言いますので、そうした意味では、本当にある意味で形は変えても、南ベトナムの政権を維持できたというメッセージだと思います」
反町キャスター
「牧さん、このパリ協定に向けたアメリカ側の想い、僕は先ほど、藤本さんにも聞いたのですが、アメリカ側は本当にこれで南ベトナム政府というのはきちんと確保されたと?」
牧氏
「いや、パリ和平協定というのは何だったかというと、あの協定で南にできたのは、南ベトナム、いわゆるベトナム共和国と南ベトナム臨時革命政府というのをここで認めていたわけです。だから、南に2つの政権ができたということをパリ協定で認めるわけです。解放区は解放区を支配している臨時革命政府として、正規のグエン・バン・チューが支配している南ベトナム政府というのが、南に2つあるということが、あの協定で認められたわけです。だから、そこでベトナムには、その時点で3つの国があるということになったわけです。臨時革命政府というのは何かというと、解放区を支配している。だから、北の方とか、いろんなところがどこに政権があるかわからないけれど、そこでバッと来て、2者合同軍事委員会というのを、タンソンニュット空港にも置かれたんだけれども、そこの南ベトナム臨時革命政府の代表がタンソンニュット空港に堂々と店を張ることができるような空港になったわけです」
反町キャスター
「アメリカはそういう2つの政府を、南ベトナムに認めたんですね?」
牧氏
「認めたということが何であったかというと、これはアメリカが逃げるための口実で、そうしなければ、ただ南には北はいないよと言って、アメリカが逃げたわけですから。南には北の正規軍がいないと、皆、臨時革命政府は民族解放戦線の中心の人達ということが、あの中ではっきり謳われているんだと思います」

サイゴン陥落の日
松村キャスター
「サイゴン陥落を現地で取材されていて、どのような様子でしたか?」
古森氏
「戦術的、軍事的に見ると北ベトナムは遂に3月の中旬に、中部高原のプレイクというところでドッと出てきて、そこで攻撃をかけてきたわけです。そうしたら南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領は戦略的撤退と称して、戦わないで部隊を引いたわけですよ。それで首都の方に、かなり中部ですから、南にきて守ろうとした。これが大失敗で、ドドドッと引いてくるのを北軍がダーッと追いかけてきたわけです。北ベトナムはここぞという時に力を入れて、北ベトナムというのは戦争をずっとやってきているんだけれど、強くて、おそらく20個師団ぐらいの兵力を持っているんだけれど、このうちの18個師団ぐらいを全部、南に投入してきたんです。それでホーチミン作戦というのがあって、首都サイゴンを攻めるために15個師団ぐらいを全部投入してきた。だから、南はもうよれよれになって、それでも5師団ぐらいあった。それはバンと破られていった。第1陣が入ってくるのを見ましたけれど、これはいわゆるゲリラではなく、皆、正規の本当の戦争をやってきたんだなという感じの、30代ぐらいの。戦争をやる人は若いですから。それと戦車ですよ、ソ連製のT54という大型の戦車。中国の漢字が書かれた中国製の装甲車、トラック、それに満載したのがダーッと入ってくるわけですね。市民はパニックですよ。本来は歓迎される、民族独立闘争ですよ、これは。だけれども、彼らベトナムの南の人達は解放戦線の側を何と呼ぶかというと、解放解放という、解放は解き放つから良いことではないですか、ジャイホンという言葉だけれども、呼ばないで、革命と呼ぶんです。革命勢力、あるいはコンサン、ベトナム語は中国から来た言葉が多いのですが、共産のことコンサンとか、カクバンと、そういう人達が来るので、自分達がやられちゃうというので、皆逃げようとする。必死で逃げようとしたわけですよ。要領の良い政府の要人とか、軍の高官はもっとその前の1週間ぐらいでいろんな形で逃げちゃっているわけですよ。だから、もう骨抜きになっちゃっていて、それでダーッと突入してきて、大統領官邸の鉄門をT54戦車でぶち壊して、それで大統領官邸の中に駆け込んで、革命旗を屋上に立てたと。これはベトナム戦争終結の最後の瞬間。私も1時間後ぐらいには大統領官邸の中に入ることができて…」
反町キャスター
「危険はないのですか?」
古森氏
「危険はあればあったけれども、戦争にはならないと。南はやられちゃって降伏しちゃっているから。それから、北ベトナム軍はちゃんと認めなければいけない。外国の報道陣に対して非常に慎重で、丁重な扱い。取材を阻まないですよ。これは頭がいいですよ。国際世論へのPRを知っていて、だから、僕もベトナム人にちょっと見えなかったんだけれど、ヒューッと入っていくではないですか。それで自由に動いても、止めないですよ。AK47持ったやつがいっぱいいるんだけれども、わけのわからない外国人記者が来ても、記者とわかっていた範囲で、1回だけ、僕もベトナム語がちょっとはできたから、あんた、どこに行くのだと聞かれたことがあるんですよ。だから、見に行くんだと言ったら、行けと言って、そうしたら南ベトナム政府の最後の閣僚達が20人ぐらい捕まっているところがあって、その部屋まで、僕が見ても平気ですよ。武装兵がいて。だけれども、市民は混乱の極ですよ。皆逃げ惑ってアレして、でも、これはダメだということで、牧さんも一生懸命に見ていたけれど…」
牧氏
「最後の4月30日にいく前にホーチミン作戦というのが何だったかというと、私がサイゴンに行けと言われるために社会部から外報部に行ったのは1975年1月ですよ。1月の初めに3月に赴任しろとこういうことなので、私はまったく外報部の経験がなく、社会部だけでした。社会部で何をやったかというとベトナム反戦の運動とか、そういうものの現場をずっと取材していたものですから、お前が行けばということで行ったのですが、1975年1月に何が起こったか、外報部に行った途端に何が起こったかというと、1月にホクビンというところ、省都が陥落するわけですよ。これは正規軍が攻めてきたわけです。ところが、その時にそれから何も動きがないわけですよ、3月に行くまで。そうすると、それはたぶん、アレはパリ協定違反だけれど、何だったのかと。あとでわかったことですよ。解放後にわかったことであるけれど、その時のホクビンを何で攻めたかということがあとで記録に出てくるんですよ。ヴォー・グエン・ザップはもし正規で攻めていった時にアメリカが帰ってくるというのを1番心配したわけですよ。パリ和平協定で、アメリカは密約か何か知らんけど、いずれ我々は帰って来ますから、ということを言っているわけだから、そこを知っている彼らにしてみれば、たぶんアメリカは、やってみれば、出てくるだろうということで、試したんです。これはもうヴォー・グエン・ザップがはっきり言っている。ヴォー・グエン・ザップはアメリカが帰ってくるのが1番怖かったわけです。だから、試して見る。その時に前年の1974年から、ベトナム労働党の政治局会議が、本当にアメリカは返って来ないのかということが議論になるわけです。じゃあ、やってみよう、試してみようと、それで様子を見ようと言ったんです、アメリカはいわゆる空母何隻かで沖合まで来たんだけれど、それで帰って行くんですよ。上陸して来なかったわけです。これで彼らは自信を持つわけです。そこでできてきたのがホーチミン作戦で、一挙に南を制圧しようというホーチミン作戦を彼らはつくるわけですね。ホーチミン作戦とは何かというと、南の軍事制圧にこれから2年から3年はかかると彼らは思ったわけです。一挙に、いつの時点で攻めていくかということについて、極めて慎重に審議していたと。そうしたら私が行ったのが3月1日ですけれども、3月10日にホーチミンルートを使って、いわゆる中部高原から、彼らは下りてくるわけです。中部高原三省から一挙に攻めてきて、古森さんが言ったようにグエン・、バン・チューは戦略的撤退ということで、そこを放棄するわけですよ。そこから3月1日に始まって、本来は2年から3年かかると思ったのが、南ベトナム政府軍は戦う力なんてないし、アメリカが撤退したあと、戦う気もないわけですから、皆、雪崩を打って逃げるわけです。古森さんが言ったように、北ベトナムにはあの時、20個師団があった。ハノイ防衛に最小必要な2個師団ぐらいを残してあとは全部、17度線を越えて一挙に正規軍で攻め込んでいった。だから、私が行ってから、毎日何をやったかというと、ベトナムの地図で、今日はここが陥落した、この省が陥落したと。すると毎日毎日いくつかの省が陥落して、最後になれば、防衛戦はサイゴンの周辺60キロぐらい。あとは全部開放地区になっちゃったわけです。すると、あとはいつ入ってくるかということだったんですね。いつ入ってくるのかということになって、古森さんとか、我々はいつ入ってくるんだと。ところが、あまりにもはやかったものだから、日本政府も邦人の引き上げの時期を逸するわけですよ。だから、それはわからないから、当時、サイゴンにいた日本人をいかにして危険から…、それで外務省は何をやったかというと、救援機を飛ばすんです。28日ですよ。フィリピンのマニラまで入ってくる。ところが、29日にはもう飛行機が飛べなくなって、一挙に30日に陥落というところまでいったわけです。わずか50日で陥落したというのがホーチミン作戦…」
反町キャスター
「邦人は脱出できなかったのですか?」
牧氏
「脱出できなかった」

アメリカは何を学んだのか?
松村キャスター
「連鎖反応のように軍事介入をしてきたアメリカですが、教訓は?」
藤本教授
「結論的に言いますと、十分に活きていないと言わざるを得ないと思います。と言いますのは、2001年の同時多発テロが起きた時に、ツインタワーとペンタゴンが攻撃されたのですが、その時、非常に愛国的なムードで結局、アフガニスタンとイラクに介入していきますけれども、よく言われるのはなぜテロリストからの、攻撃を受けたかという原因ですね。ベトナム戦争の場合、教訓ということで言えば、あの失敗は判断ミスと言いますか、認識、つまり他者ですね、実はベトナム戦争というのは誇大にアメリカが中国、ソ連の脅威を考えて結局軍事介入。アメリカが中ソとの対立関係の中にベトナムを入れてしまったということが反省としてあると思うんです。もし反省を活かすとすれば、同時多発テロがなぜ起きたのかと。アメリカの中東政策、特に1978年以降のアフガニスタン紛争から、直後にイラン革命が問題だと言うんですけど、アメリカの中東政策あるいはイスラエル、パレスチナ問題に対するアメリカの対応に原因がなかったのか、それとアフガニスタン、イラクでなぜタリバン政権なり、フセイン政権が生まれてくるのかという現地の状況が十分に把握されていなかったという他者理解の問題がある。もう1つ言えば、イラク戦争の問題にしても、アフガニスタンの問題にしても、非常に対症療法的な対応であったと思いますので、アメリカが1番苦手とするのは国家建設、戦争が終わったあとにどうするのか。イラクをどうするか、アフガニスタンをどうするのかという、特にイラク戦争についてはブループリントなしに、当時のブッシュ・ジュニア政権が介入したということが言われていますので、国家建設というか、平和構築というか、それをアメリカの指導者の中で、ベトナム戦争の教訓を踏まえ、十分考えてこなかったのではないか。それが結局このパネルにありますように、イスラム国の台頭を生むんですね。生み出していったというように考えています」
古森氏
「ベトナムで挫折した。アメリカの多数派は負けたとは思っていないですよね。挫折したと。失敗したと。自分達が北ベトナムと戦争して負けたという少数派はいますよ。だから、ベトナム戦争には大義があったというのが主流派ですから。その結果シュリンクしてしまって、ジミー・カーター氏という、外部には関与しない、アメリカは警察官ではいけないんだという、極端なリベラル派がなってきたんですよ。これはベトナム症候群。その結果、ソ連がどんどん進出してきたんですね。それの究極がアフガニスタンですよ。アフガニスタンにソ連が10万の大軍でダーって出てきたと。これはアメリカの宥和政策の結果だという、だいたいのコンセンサスです。ジミー・カーター大統領自身が、私の対ソ戦略は間違っていたということを公にすると。1975年からのソ連のアフガニスタン介入は、1979年(まで)ですが、この4年間にアメリカはどんどん下がってしまって、イラン人質事件もアメリカが弱い、警察官であることをやめ過ぎて、反対に行ってしまったと。その結果、これではダメだと、アメリカの世論が反対方向に行って、強いアメリカということで、ロナルド・レーガン氏が出てきたと。振り子がもとに戻った」

古森義久 産経新聞ワシントン駐在客員特派員の提言:『国際情勢を正しくみよう』
古森氏
「ベトナム戦争がどんなことだったのかということを認識のうえで、自分も含め、日本のマスコミの大多数、いわゆる知識人と言われる人の大多数は大きな間違いを犯したと。それはなぜかというと闘争の主役は誰だったか、北ベトナムだった、北の人民だった、あるいは南の人民だったということ。いろんなことあるんだけれども、これは北ベトナムだったわけですよね。この部分を見ないで、南の人民が主役だったと。戦争が終わって、アメリカがいなくなって、傀儡政権がなくなれば、皆が政治イデオロギーにかかわらず、仲良く和解が実現するだろうと私も思っていたけれども、全然そういうことではなくて、共産主義革命というのが過酷に実施され、その結果、何百万という人が国を捨てていったという。これも大きな認識の錯誤だったと思うので、これは私自身、決して忘れることのない、国際情勢は気をつけて見なければいけないという教訓です」

牧久 元日本経済新聞記者の提言:『fact finding』
牧氏
「我々は先入観でもって、モノを見ると歴史は見間違う。こう思っているわけで、私も日本における反戦運動というのをずっと取材していたものですから、その中で、ベトナム戦争というのは正義の戦いをやっているという思いが、私も行く前まではあったわけですね。それは現実を知らなかったから。日本での反戦運動、その動きの中で、ベトナムに行ってちょっと違うのではないかと。これまで我々が考えてきたこととちょっと様子が違うと思い始めたのが現実の戦争の姿を見てからでありまして。新聞記者、我々にとって先入観でモノを見るとか、イデオロギーでモノを見るとか、こういうことがあった時には事実を見間違える。だから、あくまでも事実を積み重ねていって、歴史を紡ぐと。これがなければ、我々も間違ったけれど、日本の新聞記者も間違ったところが結構あったけれども、これからそこを教訓にしてファクトが何であるかということを突き詰めていくということが極めて重要ではないかと」

藤本博 南山大学教授の提言:『戦争の民間人 犠牲に向き合う』
藤本教授
「これほど特に第二次世界大戦後の戦争で世界的な戦争はアメリカ側から見た場合、なかったと思うんです。民間人の犠牲者は200万人。戦闘で死んだ人よりもはるかに上まわっているんです。現代の戦争はそういう戦争であって、民間人の犠牲、特にベトナムでは今日話題になりませんでしたが、枯れ葉剤の犠牲者は300万人と言われています。そうした民間人の犠牲に向きあって戦争の教訓をいかに導いていくかが今後の国際情勢を考える重要な点だと思います」