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2015年4月10日(金)
渡辺允前侍従長に聞く 両陛下パラオ慰霊の旅

ゲスト

渡邉允
前侍従長 宮内庁参与
秦郁彦
現代史家
宮﨑千歳
フジテレビ社会部記者

両陛下パラオ“慰霊の旅” 祈りに込められた想い
松村キャスター
「両陛下が訪問をされたパラオですが、どのようなところかと言いますと、日本から南へおよそ3000km、大小200以上の島々に、およそ2万人が暮らす美しい島国です。第一次大戦後から日本の委任統治領になっていました。両陛下はバベルダオブ島、コロール島、ペリリュー島を訪問されました。今回のパラオご訪問は1泊2日の日程で、初日は、歓迎式典のあと、パラオに加え、ミクロネシア、マーシャル諸島の大統領とご懇談、晩餐会を経て、巡視船あきつしまに宿泊されました。翌9日には、ヘリコプターで激戦地ペリリュー島に赴き、日米それぞれの戦没者の碑で慰霊されました。そのあと、島民らとの交流を経て、帰国をされたということなんですけれども」
反町キャスター
「ペリリューというと激戦地、1万人の日本兵が死んだ。アメリカ兵1700人が死んだ。双方合わせて莫大な戦死、死傷者が出た。その激戦の地を、陛下が訪れるというところにばかり目が行ってしまうんですけれど、そうではないんだ。ペリリュー島はあくまでもポイントであって、たとえば、今回の場合で言うのなら、島におけるイベントにおいてはミクロネシア3か国の人達が呼ばれましたね。そういう意味においても、もうちょっと広い視野で陛下の慰霊の旅を捉えた方が良いのか。ないしは、どうしても、僕らはペリリューに目が行ってしまうんですけれども、そのへんのバランス、ミクロとマクロの、今回の旅をどのように総括したらいいと感じますか?」
渡邉氏
「結局、一種の二重性というと変ですけれども、あるんだと思うんです。あそこで、陛下が深く黙祷をしておられる相手は、あそこで亡くなった人達なのだと思うんです。たとえば、ちょっと話は遡りますけれども、戦後50年で、東京の下町にある慰霊堂で慰霊なされました。あれは東京の大空襲の犠牲者にしたと。だから、あそこで陛下が慰霊をなさったのは、あくまで東京の大空襲の犠牲者であって、そういうふうにお言葉でもおっしゃったわけですけれど、ただ、同時に、全国で空襲があって、犠牲者が出たわけです。その全体に対する慰霊でもあると、少なくとも私は思っています」
松村キャスター
「秦さん、今回のパラオ訪問の意義をどのように感じていますか?」
秦氏
「20年前ぐらいから、陛下がパラオに行きたいという気持ちを持っておられたようで、少々のこだわり方ではないわけです。これは昭和天皇から引き継いでいる、こだわりではないかと私は思っています。と言うのは、ペリリュー戦では、アメリカ側が2、3日で片づくだろうというのを、74日間がんばったんです。それまでのサイパンにしろ、テニアン、グアムにしろ、皆1か月前後です、日本軍の抵抗期間は。これがペリリューでは、日本軍は非常にがんばったわけです。その間、参謀総長が毎日のように戦況を上奏される、良くやったという、これは御嘉賞の言葉です。それを参謀総長が、現地の指揮官の中川(州男)大佐に連絡するわけです。それは合計すると11回になる。これは異例のことでありまして、他の玉砕戦では、せいぜい2回とか、3回とか、そのぐらいです。中川大佐は、その玉砕の電報を打つ前に、御嘉賞の言葉を10回いただいて云々と電報に打っています。そのあと、もう1回、最後の戦闘が終わったあとに、それが出ていますから、11回という数え方は、ほぼ正しいだろうと。戦前の日本において、天皇陛下が、部下の兵士達に対してこういう御嘉賞の言葉を11回も出したと。他に例がないと。それは昭和天皇が、非常に気にかけておられたと。このまま放っておくわけにはいかないのではないかと。その気持ちを、原点を引き継がれたのではないかなという、これは私の想像ですけれども」

秦郁彦氏が語る ペリリュー島の戦い
松村キャスター
「両陛下が今回訪問されたペリリュー島ではどのような戦闘が行われたのか。終戦前年1944年9月6日に戦闘が始まり、最後の部隊が玉砕する11月27日までの74日間、戦争が繰り広げられました。日本軍は1万500人に対し、米軍は4万8000人。ゲリラ戦が長期化したことにより、日本軍はほぼ全滅、米軍もおよそ1700人の戦死者を出しました。秦さん、このペリリュー島の戦いというのは、太平洋戦争中、どのような戦いと位置づけられていたのですか?」
秦氏
「日本軍にとっては、こういう離れ島の玉砕戦というのは、約10あるんです。10か所。ペリリュー島はその真ん中へんぐらいです。サイパン、テニアン、グアムの次です。それで、むしろ、これはペリリューの戦闘は米軍にとって非常に大きな被害だったという。それまでは米軍はどちらかというと、圧倒的な物量にモノを言わせて、砲爆撃でほとんど全滅しただろうと。それから、上陸していくとことです。日本軍も水際でこれを迎撃するという戦略だったわけですけれども、ペリリューでは水際と内陸部の洞窟陣地と、二重の縦深陣地で抵抗をしたわけです。その結果、我が方は全滅ですけれども、(米軍に)1万人以上の死傷者を出している。これは死傷者の数という単位で比べるとほぼ同等です。これは、米軍にとっては大変なショックでありました。特に、最精鋭の第一師団が兵力の4割が死傷しちゃって、遂に戦闘に耐え切れなくなって後ろへ下げられて、陸軍部隊と交代をさせられると。日本軍は相も変わらず中川州男水戸歩兵連隊を中心とする部隊に限られていたわけです。この米軍にとっての凄烈な戦闘が私は大きな特徴だろうと思っています。ペリリュー、パラオを守った宇都宮の第14師団。その下に水戸二連隊がいるわけですけども。これは帝国陸軍の最精鋭部隊と目されていたわけです。しかし、そういう離島で戦うという訓練はまったく受けていない。それで、サイパンの場合は、上陸の初日に、全力を挙げて攻撃を加えたのですけれど、水際で全滅しちゃったんです。それからあとはゲリラ戦みたいに追いつめられた。大本営は、これまでのように水際撃滅戦力だけではダメだということに気がつく。それで内陸に引き込んで戦う戦術もとれと。しかし、ペリリューは、既に海岸に陣地をつくっていました。ですから、結局、両方を使ったということですね。あと硫黄島とか、沖縄になりますと、最初から徹底的な内陸引き込み作戦です。ですから、米軍が上陸してきた時には、人っ子ひとりいないと。上陸し終わったところに、いきなり攻撃が始まると。そういう戦術になったのです」
反町キャスター
「なぜ水際から内陸引き込みに変わったかという、1つの背景としては、時間を稼ぐという狙いがあったという話もありますね」
秦氏
「ええ」
反町キャスター
「時間を稼ぐように、日本軍が戦術を変えた。それをどう見たらいいのですか?」
秦氏
「その要素はあるんですけれども、そこで1番問題なのはペリリューの戦略的価値が何かと言いますと、大きな飛行場を日本がつくったわけです。これを米軍に使われては困ると。次のフィリピン侵攻のための足がかりになりますので。沖縄の場合もこれを内陸部で最初から戦うということで、海岸線に兵を置かなかった。飛行場2つが即日、米軍の手に入ったわけです。ですから、内陸引き込みというのは、そういう問題も起こすんです。ですから、大本営は沖縄軍に対して急いで攻撃をかけろと。飛行場を奪回せよと命令を出しますというようなことで、それぞれの島の特性、指揮官の性格によって少しずつニュアンスが違いますね」
反町キャスター
「たとえば、日本軍の指導部はフィリピンを守るために、ペリリューでがんばって、時間を稼いでくれというふうに指示をしたとすれば、ペリリューで74日間、中川大佐はがんばった。74日間がんばったけど、アメリカ軍はレイテ島へ上陸しなかったのか。そこはどうなのですか」
秦氏
「アメリカ軍の方ではフィリピンに侵攻するというのが大目的です。それを11月に予定をしていたわけです。ところが、9月にフィリピンに空襲をかけていますと、守る日本軍の防備が、まだ、十分に整っていなくて、ハルゼー提督はこの状況なら、2か月はやめてフィリピンに攻めかかっても大丈夫だという具申をしまして」
反町キャスター
「それは9月の段階で?」
秦氏
「9月の段階で」
反町キャスター
「ペリリューに上陸したのは9月ですよ」
秦氏
「だから、8月の末からそういう意見を出していまして、議論した末にじゃあ2か月繰り上げと」
反町キャスター
「そうすると、アメリカ軍はペリリューを素通りして、まっすぐレイテへ、フィリピンへ行くという作戦をとったという、こういう話になってくるわけですか?」
秦氏
「もう1つ、モロタイというのがありまして、ハルマヘラ島です」
反町キャスター
「いずれにしても、要するに、まっすぐフィリピンを攻めるという作戦をアメリカ軍がとったとすれば、なぜペリリューに上陸をしたのか?」
秦氏
「当時の米軍の攻め方の定石として、空母を中心とする機動部隊と陸上基地からの爆撃機による、戦闘機による援護です。この両方がないと攻めにくいということで、両方を使ってやっていたわけです。この時には、結局、ジャンプをせざるを得なくなったと」
反町キャスター
「ペリリューを飛ばして?」
秦氏
「ええ。ですから、ニミッツ提督が言うんですけれども、これは結果論ではあるが、ペリリューは不必要な戦闘であった。バイパスすれば良かったと。ただし、やってみないとわからないわけです」
反町キャスター
「3日間で占領できるのだったらいいと思って行ったら、結局、2か月半もかかっちゃったので、あとから振り返るとパスしてもよかったのではないかという反省がアメリカ軍の中にもあった?」
秦氏
「ええ。機動部隊だけでレイテ作戦をやったわけです。それはある意味で冒険です。もう1つ、南の方に島がありますけど、モロタイという島です。そこに基地を造りまして、それがペリリューの代わりをやりました。ですけど、両方あった方が米軍としては安心でしょうけれども、これは双方の思惑がいろんな意味で食い違ったというところでしょうし。米軍も戦後になって、ペリリューを語る時には苦い思いが残るんです。不要だったのではないかと、あの戦闘は。しかも、それでこれまでの最大の損害を受けたということがありますので」
松村キャスター
「今回の両陛下のパラオご訪問は慰霊の旅と報じられていますが、これまでも戦後50年前後に、硫黄島、長崎、広島、沖縄。そして、戦後60年にはサイパン。さらに、戦後70年を前に、昨年、沖縄、長崎、広島、今回、ペリリュー島のご訪問となりました」
渡邉氏
「現在の陛下の戦没者の慰霊というのは、戦後50年で始まったわけではなくて、うんと遡りますと、まだ、皇太子でいらした時代ですけれども、まず昭和50年に沖縄に行っておられるんです。これは沖縄の海洋博だったんですけれども、同時に、むしろ陛下の方から南部の戦跡に行きたいとおしゃって、ひめゆりの塔とか、いろんなところへ慰霊をされた。それでひめゆりの塔で火炎瓶を投げられるという事件がありましたけど。あれがあって、それから、昭和56年に記者会見で、陛下は、日本では忘れてはいけない4つの日があるということを言われた。これは割とよく知られていることですけれども。4つの日というのは、まさに、沖縄で日本軍が組織的な戦いをやめた日。広島の原爆、長崎の原爆、それから、玉音放送の日です、8月15日。それで、これらの日には、ご家族で黙祷をしていますということを言っておられますから、その前から黙祷はしておられたのでしょう。そういう形で、陛下の、この前の戦争の戦没者に対する慰霊というのは随分前からずっと続いている話です」
反町キャスター
「4つの日を大切にされるというのが、たとえば、ご公務もあったりする日もあるわけですよね。6月23日に沖縄の記念式典以外に日程が入っている、他のご公務が入っている時にも、この追悼、黙祷の瞬間というのはとるんですか?」
渡邉氏
「ええ。それは守っておられると思いますけれども。私は、1回だけ、自分は経験したことがあるんですけれど、平成6年にアメリカにいらしたんです、両陛下で。その時、ちょうど初夏で、サンフランシスコに来られたのが、サンフランシスコの時間で6月22日だった。それは時差がありますから、日本時間で6月23日になるわけです。それで、陛下が、その時の、サンフランシスコの時間と日本の時間の時差を、具体的に御下問があって、こうだと申し上げて、そうしたら、ちょうど沖縄の慰霊祭の頃にサンフランシスコの市長がやってくれていた晩餐会があったんですね。その時間をちょっとずらしてくれと陛下がおっしゃって、後ろへちょっとずらしてもらったんです。その時間には、両陛下はホテルの部屋におられましたから、そこで黙祷をなさったのだと思うんです」
反町キャスター
「それはメディアのスケジュール的には出てこない話ですよね?」
渡邉氏
「出てこない」
反町キャスター
「わからないですよね。ただ単に、公式日程で言うと、市長主催の晩餐会が、7時30分から8時30分にずれました。時間調整だけ。実はそういうこと。たぶん、そういう意味で言うと、この4つの日の陛下のご日程にはたぶんそういうものが、端々に組み込まれて、これまでずっと過ごされてきた?」
渡邉氏
「そうです。少なくとも、この日は、歌舞音曲に類することはなさいませんね。そもそも。それから、時間的にはもちろん、時間もわかっています、その時間は。当然、そういう意味で、前から空けていると思いますね」
反町キャスター
「宮崎さん、この4日間の特別な日というのは、取材をしていて感じる部分は何かありますか?」
宮崎氏
「先ほど、渡邉前侍従長がおしゃっていましたけれども、お慎みという言い方で、そういう大切な日には楽しい時間を過ごされずに、御所で黙祷をされて、それ以外の時間を静かに過ごされている。特に、8月は4つのうち3つの日が続きますので、8月の前半というのは、客観的にご日程を拝見しても、もう戦争というものに向きあう行事以外のものは非常に少ない時期になります。終戦の日が近づいた時期には、御所に戦争にまつわる絵をかけられていて、皇后様が。毎年、この時期になりますと、かける絵があるそうです。なので、おそらく皇太子様や秋篠宮様、そういったお子様方もその時期になるとそういう絵がかけられると。そういうものをご家庭の中で、お続けになっておられていると聞いています。確か、女の子の絵か何かだったと思います。毎年終戦が近づいてくると、かける絵があると」
反町キャスター
「一方で、渡邉さん、慰霊の旅って、50年、60年、70年と繰り返されてきた中で、行先の話ですけれど、サイパンとペリリュー、根拠として、僕らはなぜサイパンなのか、なぜペリリューなのか。メディアなのでいろんな理屈を考えるんです。そうした時に激戦地だったからなのか。ないしは民間人の犠牲者が出たからなのか。でも、ペリリューは出ていない。たとえば、南洋庁のある当時の日本の委任統治領。日本政府の統治下にあった土地で激戦が行われたところなのか。どういう根拠で、サイパン、ペリリューなのか。そこは我々、どういうふうに受け止めたらいいのですか?」
渡邉氏
「それは50年の国内での慰霊の旅を終わられた。すぐに今度は海外で、どこかで慰霊をしたいと陛下は思われたわけです。それはよく陛下がおっしゃる、日本では、あの戦争で310万人を超える人が命を失ったと。そのうち、むしろ海外で亡くなった人が多いわけですから。そこから先、それではなぜ最終的に、サイパン、ペリリューかということなのですが、私が伺ったのは、要するに、南太平洋の、日本が昔、委任統治をしていた地域です。今度、ミクロネシア地域と呼んでおられるようですけれども、そこへ行きたいとおっしゃったわけです。それはなぜかと言うと、1つは、私は、陛下から明らかに伺ったのは、あそこは日本が委任統治をしたところで、日系人が残っていると。だから、日系人にも会いたいし。日系人というのは、陛下は、ブラジルにせよ、ハワイにせよ、サイパンにせよ、非常に世界中の日系人というのは、陛下にとっては日本人でありながら日本の国内でいる人にないような苦労をし、外国で、しかも、その国の社会の良き市民となってきている人達だと。だから、これは是非1番に会いたい、励ましたいと。こういう話ですね。だから、それが1つおありになったと思います。それははっきりしています」

天皇皇后両陛下 慰霊そして平和への想い
反町キャスター
「陛下の戦争の記憶が風化することへの危機感。これはどういうものだと思ったらいいのですか?」
渡邉氏
「すごい危機感だと思いますのが、ちょっとそういう観点から見たら、要するに、いずれも現状をどう見ておられるかと言うことですけれど、平成8年に、戦争を遠い過去のものとして捉えている人々は多くなった今日、ということをおっしゃったんです。そうしたら、それから4年後の平成12年になったら、当時の戦争のことが人々の心から次第に遠いものとなっていく今日、とおっしゃった。僕は実はこれびっくりしたんですけれども、心の話をなさった。そうしたら今度はもっと時が飛びますけれども、平成21年になって、記者会見で、少子高齢化とか、それから、経済の不安定ということについて、将来に心配をお持ちではありませんかと新聞記者が聞いたのに対して、そんなことよりも、と言わんばかりに、私がむしろ心配なのは次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです、ということをおっしゃったんですよ。他にもいくつもありますけれど、陛下はいわゆる戦争の歴史が風化していくということを心配していらっしゃると思いますよ」
反町キャスター
「現在の少子高齢化の質問に対して、陛下は戦争の記憶が風化することの方が心配だという話をされるというのは、天皇陛下の記者会見というのは、事前に質問を通告しているのですかね?」
宮﨑氏
「そうですね、はい」
渡邉氏
「これは確か関連質問で出た」
反町キャスター
「その時は本当の気持ちが出るんですよね?」
渡邉氏
「そうです、おっしゃること、良くわかります」
反町キャスター
「そういう、お気持ちを陛下がお持ちだとした場合に、昭和天皇と現在の陛下の間においては、そういう言葉による戦争の記憶とか、そういうものの悲惨さの口伝えというものは行われていたという前提で、だから、私も引き継いだから皆もやらなくてはいけないのではないかという、こういう理解でいいのですか?」
渡邉氏
「それは非常に難しい問題なので、ちょっといろんな角度から、私の考えていること申し上げますけれども、1つには先ほども申し上げたように昭和50年代から皇太子として戦没者に対する慰霊というものを始めておられるということから言うと、戦争の問題、それから、慰霊の問題というのはご自分で考えてきておられるものだと思うんです。それで平成7年に、戦後50年の時に、いわゆる国内の慰霊の旅をなさって、ご旅行中にお父様であった昭和天皇のことをどんなふうに感じられましたかという質問が記者会見で出たんです。そうしたら、それに対しては、これは他にも何回もいろんなところでおっしゃっていますので、要約して言うと、昭和天皇からは、皇太子殿下でいらした時代にヨーロッパへいらして、それでヴェルダンという第一次大戦(の激戦地)を訪ねられて、戦争の悲惨さを感じられたと伺っていますと。それから、昭和天皇は平和をずっと願っていらしたし、国際的にも正しくありたいと思っていらしたと。ところが、昭和の初め、そこはいろんな言い方をなさっていますけれど、昭和の初めになってから、いわば世の中はお考えと違う方に進んでいったと言えますと。だから、これをお心は深くさせられるように思いますとおっしゃったんですけれど、ご苦労は多かっただろう、ご心痛があっただろうということは、これは何回もおっしゃっていた。昭和天皇についてはそういうふうに陛下は理解しておられたと思うんです。ところが、そこでそれに追加して、ただ、先ほど父としてというようなお話がありましたが、普段はそういうお話はほとんどなさったことはなく、また、あまり伺うということは憚られたということもあります、とおっしゃったんですよ。今度は10年が経って、もういっぺん記者会見で、これは関連質問だったと思うのですが、戦没者追悼について昭和天皇とお話し合いになったこと、昭和天皇から伝えられたことがありますか、に対して、追悼のことについては伺ったことはありません、と一言そういう返事をなさったんです。だから、私は、実はこれはまったく僭越な話ですけれど、わからないではないような気がするのは、ちょっと大変妙なこと申し上げるようだし、ちょっと物議を醸し出すかもしれないですけれども、私は皇室の文化というのは京都に1000年いらした公家の文化だと思うんですね。だから、その父と子が向きあって、お前、あれをこうしろ、これをこうしろ、ということを言うというような文化ではなく、よく言う背中を見て育つと言いますけれども、自分のことは自分でやれというようなことについては、昭和天皇の言動から学んだように思いますというようなことをおっしゃったことがある」
反町キャスター
「言動というのは外に対する話ですよね。息子に対してということではないですよね?」
渡邉氏
「昭和天皇がなさっていること、あるいはおっしゃっていることを見て学んだということですよね。だから、このこともそういうことではないかと思いますし、さらに言えば、もちろん、昭和の時代、戦争のことについては大変勉強していらっしゃいますよね。だから、そういうことからもいろいろ、とにかく何と言っても、お父上のことですから、他人のことではありませんからね。それは非常に深く考えておられるだろうし、アレだと思うんです。ただ、私はもうちょっとそれ以上のことは、まさに陛下が昭和天皇についておっしゃったように、それ以上のことを伺うのはちょっと憚られる。これはもう陛下の心の中にだけあるべき問題だと、私は実は思っています」
秦氏
「何よりも現在の陛下は皇后陛下も含めて、ご自身も戦争経験者ですよ。ですから、お父上から何かを言われなくても、それは当然共有されているわけですね。現在の皇太子に対しては多少伝えておかないと、とまどうかもしれないという想いが現在の陛下にあってもおかしくはないと思います」

戦後70年…両陛下の思い 日本人はどう考えるべきか
松村キャスター
「陛下の慰霊の旅やそこへ込められた想いを受けて、日本人は今後何を考えてどう行動していくべきなのでしょうか?」
渡邉氏
「ちょっとなかなか難しいけれど。と言うのは、陛下は細かく何をしたらいいかということはお考えにならないで、とにかく忘れないでほしいということだと思うんですね。皇后陛下が、そのことについて実はそのおっしゃったことがあるので、気がついたんですけど、それは確か、戦後60年の年に、どうやってその戦争の記憶を引き継いでいくかという話に対するお答えだったと思うんですけれども、戦争のことに限らず、誰もが自分の経験を身近な人に伝え、また、家族や社会に大切と思われる記憶を、次の世代に譲り渡していくことが大事だと思いますというようなことを、何気ないようだけれども、あっと思ったんですけれど、確かに、私なら私が、私が経験したことを私の娘達なり、孫なりに伝えるということですよね。そうすると、向こうは聞きますよね、お爺ちゃんの話だから。全然知らない小学生に話しても、聞いてくれる人は聞いてくれるかもしれませんけれども、全然聞いてくれないかもしれないし。だから、皆が身近な人に語り継ぐことを一生懸命にやるということは、非常に確かに良いことなのかもしれないという気がするんです」
秦氏
「戦後70年で、これから首相談話が出るのか出ないのか。どうも出ないという選択肢は入っていないような感じがするんですね。だけど、それも考えてみていいのではないかと。必ずしも出す必要はないと。プラス、マイナスいろいろありますから。それは首相がお決めになることでありますから、私がとやかく申し上げることではないかもしれないのですが、風化させるなというのが、一種の強要になっているきらいも最近ないではない」
反町キャスター
「どういう意味ですか?」
秦氏
「つまり、一定の歴史観で立った人が、それに基づく自分の考え方を押しつけると言いますか、平和を達成するためにはこうでなくてはいけないという、だいたいそれが頭につくわけですね。それに対して嫌悪する若い人達も出てきている。たとえば、修学旅行だとか、どこへ行って、あの話を聞きなさいと、皆割り当てられちゃうんですね。そういうこともありますので、私は、一流のきちんとした歴史家の書いた、書物を読むという習慣を身につけてほしいと。私が歴史家ですから、手前味噌だと言われそうですけれど、口伝えに伝えるというのはとかく不正確になる。それから、特定の思想宣伝のおしつけみたいになると。ちょっとそういう危険性があるのではないかということで、反対しているわけではないですけれど、そういう面も考えてほしいなという気はします」
反町キャスター
「戦争反対だと皆が言いますが、方法論が違う。方法論で議論しなくてはいけないのか?」
秦氏
「生き残りの人達、遺族が述べたあとに、必ずくっつくのは、戦争は絶対にしてはいけません、平和は絶対に大事ですと。そうすると、では無抵抗でいけというのかというというと、そこはちょっと曖昧ですね。必ずそれで締める番組も結構ありますよね。継承すると言っても、いろんな継承の仕方があるので、バランスのとれたものにしたいなと。日本の場合、風化しないようにと言って、声高に言っている人の時には、何か他の政治的な目論見があったりするんですよ。それを見分けられるような判断力というのを若い世代には持ってもらいたいと。そのためにはきっちりと読むということが大事だと思いますね」

渡邉允 前侍従長の提言:『一人一人が語り継ぐ』
渡邊氏
「結局、我々の世代が1人1人そのつもりになってやらないと、これはなかなかできないことではないかなということです。ただ、ちょっとそれに関連して、これまで申し上げる時間がなかったんですけれども、陛下がおっしゃっている平和とはいったい何かということですね。これはたぶん日本の平和とか、うちの子供を戦争に出さないでほしいとかいう、そういう類の話とはまったく次元が違う話であって、大きく言えば、世界平和ですよね。これは実際にいろんな場所で平和の話をされる時にほとんど世界の平和ということで話しておられると思うのですが、平和にたどり着く道はどういう(ものなのか)というのは、これはいろんなのがあり得るわけで、それは皆がいろいろそれぞれで考えていかなくてはいけないことなのだということだったと思います」

歴史家 秦郁彦氏の提言:『忘れる必要も』
秦氏
「渡邉さんの提言と、対立するかのように見えるかもしれませんが、神様は、我々に忘却という、忘れるという恵みも与えてくださっていると考えることができるわけです。全てのことを、過去にこだわってそこから抜け出られない、呪縛されるという、だから、必要に応じて覚えるべきことは覚えなければいけないけれども、忘れていいことは忘れてもいいのではないかということで、実際問題として、一部のアジア諸国は、歴史の反省が足らないと、こう反省しろと、言ってくるわけですね。そうすると、それに呼応するかのごとく、日本の一部の人がそうだそうだと言って、こうしているわけですね。それに嫌気がさしている日本人もいますので、これは何でもかんでも抱え込むのではなく、忘れる必要もあるということを、念のためにという感じですが」