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2015年3月3日(火)
検証“戦争の終え方” 半藤一利 戦後70年秘話

ゲスト

半藤一利
作家
加藤陽子
東京大学大学院教授

戦後70年 太平洋戦争検証 日本の仏印進駐の理由
秋元キャスター
「太平洋戦争開戦前年の昭和15年9月に北部仏印進駐とあります。翌年の7月、南部仏印進駐というのがあります。仏印というのはフランス領インドシナのことで、現在のラオス、ベトナム、カンボジアを合わせた領域になるということなのですが、まず日本が北部仏印へ進駐した目的は何だったのでしょうか?」
半藤氏
「仏印でアメリカが蒋介石の国民政府にたくさんの物資、弾薬、兵器などを送る仏印ルートと言いまして、そこを通して送っているということで、その仏印ルートを封鎖しないと、日中戦争が終わらないと常々考えていたわけです。そうかと言って、急に仏領インドシナと言って、一応、フランスが植民地ですけれど、そこに勝手に入っていくわけにいきませんから、何とかならないかと長いこと思っていたんです。ところが、この年の、昭和15年の5月にナチスのヒトラー・ドイツがフランスに向けて進撃を開始したんです。ヒトラーの電撃作戦と言いまして、あっという間にベルギーは落とす、オランダは落とす、それでパリも6月には陥落させて、ヒトラーのドイツがフランス政府を潰しちゃったわけです。そうすると、本国の政府が潰れちゃった時に、東南アジアのフランス領インドシナ、ベトナムですが、フランス領というから本国の政府がないと、潰れて。ですから、仮政府になっちゃったんですね。日本としてはチャンスだと。向こうは潰れているわけだから、仮政府より、こちらの方がはるかに武力を持っているんですから、脅しをかけて兵を進駐させておけと。平和裏に進駐させる予定だったんです、頭から押さえて。そうすれば世界から大きく言われないだろうというので行進を始めたんです。ところが、フランス本国が負けたとはいえども、まだこちらは一応統治しているんですから、何を言うかということで、話し合い、揉めたりなんかしているうちに、待っていられないということで、陸軍が武力をもって、パワーを持って入っていっちゃうんです。それで、がちゃがちゃと戦争を始めるんですけれども、世界中は驚くんです。日本の軍隊が勝手に入っていくんですから」
反町キャスター
「進駐と言いながらも、そのあと武力の小競り合い?」
半藤氏
「残念なから、武力を使ったんです」
反町キャスター
「使ったんですね。進駐よりも侵略と言われて仕方がない?」
半藤氏
「世界的に侵略と言われても、我が国の進駐はそうなんです」
秋元キャスター
「南部については、目的は何だったと見ていますか?」
加藤教授
「南部については、基本的に、南部仏印の真横にフィリピンがあって、英領のマレーシアがあります。ですから、フランス領インドシナに、いわゆる進駐すると言っても、援蒋ルート、蒋介石への援助の道を遮断するというよりは、基本的には対英米を意識した形で、フィリピン、シンガポール、香港などに影響力を行使できるということの判断だと思います。日本軍が武力行使を行うというのを、陸軍と海軍の間で進めていく時に、どういうことがなされるかというと、こんなことが擦りあわされていたんです。つまり、日中戦争が解決しないうちに、だけれど、帝国の存立上、必ず武力行使を行う場合というのは、たとえば、米国が全面的禁輸を断行して、第三国もこれに応ずる場合というので、たぶん、イギリスなどが加わって、日本に、たとえば、石油を送らないとか、揮発油を送らないということをやったら武力行使をする。まだこの段階ではオランダ領のインド、東インドですとか、あとは英領のシンガポールしか、武力行使をしないんですけれど、こういうことを考えている。もう1つは、英米共同もしくは単独で日本に対して圧迫を加えると考えていくということがあります。ただ、もう1つは、好機到来により武力行使というのは、アメリカがヨーロッパの戦争に参戦しちゃった場合で、絶対に太平洋に出てこないだろうという場合。それだったら行くというんです。ですから、私がすごく興味深いと思っているのは、全面禁輸ということをやってきたら日本は出るという、その出方の制限が低く設定されているんです。だから、禁輸がきたら出ます。だから、事実、南部仏印進駐を行った時に、アメリカ側は日本の資産凍結ということで、日本の軍部が予想していないような反応をします。日本の軍部はまさかアメリカが資産凍結するとは思っていないです。それはどういう発想かというと、アメリカだって、たとえば、アイスランドをイギリスの商船隊を守るために進駐と言いますか、守っているではないかと。大西洋を守るために同じようなことをやっているのに、日本がちゃんとフランス領の総督に話をつけ、ヴィシー政府、フランスと話をつけて、南部仏印に進駐すると言ったのに、何でこんな資産凍結をするんだということで、日本は非常に裏切られた形で驚くんです」

日独伊三国軍事同盟締結
反町キャスター
「半藤さん、南部も北部も仏印進駐に対する、日本軍の読みとか、打算みたいなものを、加藤さんから聞きました。一方、その時に、日本はヨーロッパにおけるナチスドイツ、ヒトラーと三国同盟を結んだんです。そのヨーロッパにおける状況。それはどう見ていますか?」
半藤氏
「特に、ドイツがすごく強くて、1人でヨーロッパ席巻して、あとはイギリスだけだったんです。イギリスだけ相手に戦っているのですが、イギリスも降伏するのではないかと。イギリス本土に上陸作戦を行って、イギリスのロンドンを征服すれば、たぶん降伏するのではないかという状況を夢見たわけです。そんなことあり得ないんだけれども。夢を見た。ですから、そのドイツと結ぶことによって、アメリカは参戦をしないのではないかと。つまり、日本がドイツと結ぶことによって。と言うので、つまり、アメリカを参戦させないためにという名目です。日本はドイツと結んだ方がむしろ戦争に入らないんだというような説を出す人が主力を占めまして、それが政府の国策になりまして、三国同盟を結んじゃうわけです。アメリカは怒ってしまって、まだ油の方までいってきていませんが、屑鉄を、どんどん高炉とか、日米貿易を切っていくのですけれども、本当に厳しいことを言い出したんです。だから、アメリカは出てこないと思うんだけれど、厳しいことを言い出しているから、もしかするともしかしちゃうんじゃないか。と言うことは、油を、石油を止めるようなことになると、日本は9割近くアメリカから輸入している、石油は。ですから、日本はアメリカから石油を止められると、輸入できませんというと、手持ちの油しかなくなっちゃうわけです。そうすると戦艦大和を造ろうが、武蔵を造ろうが、何をしようが動けなくなっちゃうではないですか。そうすると戦争にならないと。だから、そうした場合には、東南アジアの南の油を獲りに行く必要があると。そうすると、南の油を獲りに行くためにはどうしてもフィリピン、アメリカの植民地ではありませんけれど、アメリカが統治をしていますから。それから、マレー半島とシンガポールというイギリスのアジアにおける大本拠地です。これが邪魔ですよ」
反町キャスター
「狙っているのは、スマトラ。このあたりの石油がほしかった?」
半藤氏
「スマトラとか、ジャワ、インドネシアです」
反町キャスター
「ここに行くために(アメリカの統治する)フィリピンが、イギリス、フランス、全部邪魔だったと。油を採るために」
半藤氏
「邪魔だったんです。これはどう出るだろうと。出る出ないだったら、どうしても南仏印です。いざという時のために飛行機基地をつくっておかないとどうしようもないのではないか。ですから、北部仏印進出、日独伊三国同盟、南部仏印進駐というこの3つの流れというのは日本がアメリカと戦争を覚悟するか、あるいはアメリカとの戦争から撤退するかの悩みの中でとった非常に強硬なる政策ではあるんです」

なぜ大国アメリカと開戦したか
秋元キャスター
「日本と米英の対決が決定的になる中、日本は昭和16年12月の8日、ハワイの真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が開戦するということになるわけですけれども、ここで日米の国力の差を見ていきたいと思うのですが、当時の国力の差としましては、GNP(国民総生産)で11.83倍。それから、粗鋼については12.11倍。石油は776倍と。これほどの国力の差がある中で、なぜ日本はアメリカとの戦争に突入したのでしょうか?」
加藤教授
「だいたい12倍ぐらい、GNP比がありますね。1つは、日本という国は、国力が大きな国と戦争をするというのはある種の習い性で、たとえば、1904年の日露戦争の時も国力比10倍ありました。ある種の国民をまとめるための説得の論理というのはこれだけ大きな国に向かっていくんだということを言わなければならないということはあったと思うんです。もう1つ、説得力としては長期戦にならなければいいんだということですから、奇襲攻撃。空母6隻を投入しての奇襲攻撃をやって、短期にアメリカを、やる気というのでしょうか。そういうものを挫いてしまえば、日本はどうにかなるよという、これが1つあると思います。もう1つ、私は軽くないなと思いますのは、太平洋戦争まで、たとえば、1937年の昭和12年から、日中戦争という戦争を日本は始めていました。つまり、太平洋戦争までに4年間戦争をやっている。そうしますと、これは会計が臨時軍事費というものを設定できる。そうした中で、ずっと日本が1941年までに256億円ぐらいの臨時軍事費というものを使ってきたんです、日中戦争の費用として」
反町キャスター
「4年間で?」
加藤教授
「4年間で。現在でいうと20兆円ぐらい。でも、本当は日中戦争のためにその費用を使わずに、3割ぐらいしかそれを使わないんですね。7割ぐらいは対英米戦の準備を日本はしています。ですから、基本的には対米戦があっても、対ソ戦があっても一応準備はしている。その自信というものは軍部にはあったと思うんです。逆を言うと、日本が20兆円の7割をちゃんと準備しているということはアメリカ側にはわかりません。ですから、戦争が近づいてくる時に、あんな資源がない。工作機械とか、ああいうものは100%英米圏から輸入である日本が(戦争を)やるはずがない。しかも、お金がないはずだと。でも、20兆円かける0.7は貯めていたというのがあるわけですが、そこを知らないから、非常に強く出るわけです、アメリカ側が。だから、凍結をしたって日本は引っ込んでいくだろうと、1941年7月のアメリカの資産凍結は戦争一歩手前の行為です。資産凍結をやるということは開戦一歩手前」
反町キャスター
「それでは、両方に思い違いがあるというか、日本はドイツと組んで、ある程度押していけば、アメリカの中では厭戦気分も広がるだろうし、(太平洋に)出て来ないのではないかという、現在から思うと何だかというところの読みもあった。アメリカ側はアメリカ側で、日本がまさかそんなに強い国になっていると思っていなかった?」
加藤教授
「そうです。ある種、貯めていたり、短期的な戦略を持っているとは思わないという。そこはあったと思います。だから、強く出れば相手が引いていくだろうと。アメリカの国務省の1番強硬派だった、反日と言ってもいいと思いますが、その人は日本が引っ込む確率は8割だということを言っているわけです」
反町キャスター
「資産凍結とか、ハルノートとか、ああいうのを出した時点で?」
加藤教授
「日米交渉などで強く出た時に日本が屈服するのが8割だという、そのあたりがずれています」
反町キャスター
「対米英開戦に向けて、日本というのは先ほど、加藤さんが短期決戦か長期決戦かの話をちょっとされたんですけれども、日本は結局どういう構えだった?」
半藤氏
「結局、戦争をやる時にはいかにして終わるかを考えてやるものです。日露戦争はちゃんと考えてやっています。アメリカに仲介をしてもらい、いざという時にはやめると。だから、戦争が始まる前に、アメリカの当時のルーズベルト大統領に、仲の良い友達をアメリカに送って交渉を始めています。そうして始めるものです。ところが、この時の戦争は、日本はアメリカが出てこないと思っているのが、かなり強かったんです。だからでしょうけれども、11月15日になってやっと考えるんですよ」
反町キャスター
「真珠湾攻撃の1か月前ですか?」
半藤氏
「真珠湾攻撃は8日ですから、1か月ないですけれど。それでやっと考えるんです。皆が集まって、秀才が集まって、陸海軍の。政府からも集まって。それでどういうふうに言ったかというと、まず1つ、南方地域に出て行って全部確保すると。資源を皆押さえてしまうと。これは必ず補給が十分になるから長期戦がやれると。その時にはうまくいくと。戦争はやめられると。2つ目は、蒋介石が屈服した時、3つ目は、独ソ戦が始まって、ソ連が降伏した時、ドイツが勝った時ですね。4つ目は、ドイツがイギリスに上陸してイギリスが降伏した時、この4つのうちどれかが重なって2つぐらい実現すれば、戦争は講和に入れると。要するに、ドイツの勝利をあてにしているんですよ」

日米開戦時の宣戦布告問題
秋元キャスター
「宣戦布告に関して何か問題はあったのでしょうか?」
加藤教授
「良く言われているのはワシントンの野村大使がいる日本大使館が前日の宴会とかで朝寝坊をしまして解読が遅れたというストーリーですね。もちろん、真珠湾攻撃に遅れて1時間後にハル国務長官に手渡していますから、これは騙し討ちと言われても仕方ないという結果になりました。ただ、どうしてそれが生じたのかということを考える必要性がありまして、実は先ほど、いわゆる奇襲を行って最大限の効果を、アメリカの戦艦を藻屑にしておく必要があったということを申しましたと。と言うのは、日本の軍部はよくできて全てうまくいった時に、30分前のギリギリに施行するような仕組みで宣戦布告文を14通に分けて14通目を送らせるんですね、わざと。30分前に着いて、ちゃんと手渡して…30分だったらアメリカ側もハワイへの連絡、準備というものができていないので防御はできなくなりますね、奇襲の攻撃隊に対して。それに対して実は何が起こっていたかと言うと、酷いのが、参謀本部などが中央の電信局、日本から15時間くらい送らない。14通目の最後の結論として、日本は日米交渉をやってきたけれども、うまくまとまらないから、これで終わりにするということを最後に言って、宣戦布告の代わりにするわけですが、その最後の文句が決まったものを15時間ぐらい送らないわけです。ですから、これは作戦至上主義と言いますが、外交官がいろんな事情で通達しないといけないことを考慮しないでギリギリに設定し、しかも、30分ではとても送れないような形で送るんですね。ですから、どんなにがんばって逆立ちしても、間に合うはずがなかったというのが現在の研究ではわかっています」
反町キャスター
「歴史的な経緯を見ると日本は外交的なルールを踏みにじり、とにかく先手必勝に傾注していたことに尽きるということですか?」
加藤教授
「野村吉三郎は海軍ですので、おそらく日本が出撃してくるだろうということはわかる。だけれど、ハワイであると言うことは知らされていないわけですね、外交官として。そういう出先とのうまい連携を、フィードバックを行いながら、外務本省がバックアップするような状態ではなかったということですね」

日本の戦い方の問題点は
秋元キャスター
「開戦後、何で日本は戦域を拡大できたのでしょうか?」
半藤氏
「軍人というのはちゃんと軍事学を習っていますので、攻撃の終末点というのがあるわけですね。攻撃に向かっていっても補給とか、そういうもので限度というのがあるわけです、力の及ぶ限度が。その限度を超えないようにしろというのが軍事学の常識ですよ。ですから、これはどう考えてもあんな遠くの方まで軍隊を出すというのは、不思議で不思議でしょうがないのですが、勝ちに乗じちゃったんですね。とにかく半年の間、連戦連勝ですからね。だから、あれも獲っちゃえ、これも獲っちゃえと、実は資源地帯を確保すれば南の方だけでいいんですよ。ところが、欲をかいて、豪州とアメリカ本土との連絡を切っちゃうと豪州が孤立する。つまり、アメリカが反撃してくるとすると豪州を基地にして、そこに全部戦力を集めて島伝いに上がってくるに違いない。だから、それをはやめに切っちゃっておけば豪州は孤立しちゃいますから、オーストラリア。だから、そのためには豪州とアメリカとの太平洋切断するためには…と。それは攻勢の限界というものを遥かに超えちゃったんですよね」

戦争終結の判断は
反町キャスター
「日本の敗戦が決定的になってきた目印になる点、戦場は?」
加藤教授
「これはサイパン。マリアナ沖海戦での日本の敗北は6月になりますが、基本はサイパンが(7月に)落ちたということで、B29は2400km飛べ、爆撃圏になる。日本の犠牲者というのはこれまで兵士や、いわゆる戦闘員だったのが昭和19年の7月から20年の敗戦までの間に、東京大空襲10万人とか、諸都市の空襲で足すと50万人であるとか、そういう民間人の犠牲者がここで発生し始めるというのは大きいと思います。ですから、国民の中で日本の皇土というものは、他から侵されないという、そういう見方できていた人の中で、人民に実際に危害が及ぶようになってくるというのは大きいと思います。最もはやく気づいた人々は天皇と、重光葵外相で、1944年、昭和19年の9月ぐらいに天皇は重光に対して、戦犯の処罰と武装解除。この2つ以外を日本が確保できるような戦争の終わり方はないかということの研究をさせ始めていますね。ただ、ここで問題なのは、アメリカ側、連合国側は、とにかく無条件降伏という形でしか日本には降伏を許さないという1943年12月のカイロ宣言があった。だから、日本側は負ける時に、お話をどこに持っていこうという時に、アメリカに交渉を持っていけなくなったというのは、連合国は堅いぞと。単独で枢軸国とは講話をしないということも、1942年1月に連合国は宣言していますね。ですから、こういうことでアメリカには持っていけないと」
反町キャスター
「昭和17年ですよね。まだ日本が勝ちまくっている時ですよね?」
半藤氏
「そうですよ」
加藤教授
「枢軸国とは単独で講和はしないということを連合国が言うのは、ソビエトを脱落させないためです。もしアメリカやイギリスが日本はいいよというようなことで講和を始めたら、ソビエトは怖くてドイツと戦っていられませんね。ですから、脱落させないためにそういうことを言う」
反町キャスター
「誰も(戦争を)やめようと言えなかったのか。それとも言ったところでやめられないことがわかっていたのか?」
半藤氏
「誰もやめようと言えなかった。陸軍は大決戦をしていないんですよ、日本は。小さい島で負けているだけであって、我が兵力が集結した決戦をしていないと」
反町キャスター
「陸軍の言う決戦とは、本土決戦ですか?」
半藤氏
「どこで決戦するのか。決戦するところはないですよ。だけど、そう言っている。陸軍の圧力がありますから、誰も言えなかったと思いますよ。天皇実録でわかりましたが、昭和天皇はサイパン、マリアナ諸島が陥落した直後に、和平、講和ということをチラッと言うんですよね。重光外相はわかって、何かをしたかと言ったら、何もしなかったのではないでしょうかね」
加藤教授
「近衛文麿元首相などと、高松宮を含みながら、財界人、銀行家、海軍の一部などで終戦工作は始まっていたかと思います。1945年2月ぐらいに重臣が天皇に呼ばれて、いろいろ意見を言えと。その時に近衛はさすがに、共産主義革命が起こってしまうから、はやく戦争を終われとは言っていますが…」

終戦時の問題点は
秋元キャスター
「ポツダム宣言が発せられてから受託決定まで19日間もかかって、その間に広島、長崎に原爆が落とされ、ソ連が参戦という事態も招いているわけですが、なぜここまで終戦に時間がかかっているのでしょうか?」
半藤氏
「連合国側、特にアメリカ側の無条件降伏以外には一切応じないという宣言ですから、これを非常に重く受け止めているんです。ですから、何とか条件付で講和できないかと日本は工作するわけですよね、その間の工作とは何かと言うと、ソ連を仲介し、日本は(ソ連と)中立条約というのを結んでいるんです、あと1年あるんです。だから、昭和21年、1946年の4月までソ連との中立条約は結んでいますから、ソ連とは戦争していないわけです。そこでソ連に仲介をしてもらいたいという工作をやっているんです、一生懸命に。ところが、ソ連はいい返事をしないですよね。いい返事をしないでズルズル伸ばしているんですよ、でも、日本は本気を出して、ソ連に頼って、一生懸命やっているのだから無条件降伏と、ソ連仲介の和平という2つで、日本は何とか和平に入ろうとしているから、ポツダム宣言が届いても、これを大事に思うよりはソ連仲介の和平というのが現在、交渉中だから、進んでいるのだから、こちらの方で何とかしようではないか、和平を結びたいと言うんですよ。ところが、ポツダム宣言を見ますと、国体を保証するという項目がないですよ、初めはあったらしいんですけれど」
反町キャスター
「誰が削らせたのですか?」
加藤教授
「あれは(アメリカの)国務次官だと思います。スチムソン陸軍長官はむしろこの項目があった方がはやく…」
反町キャスター
「終決する、日本が折れやすいということですね?」
加藤教授
「はい。ただ、国務次官が止めたということだと思いますね」
半藤氏
「国務次官は何を考えていたのかよくわからないのですが…」
反町キャスター
「スターリンに対して期待して、スターリンに対して天皇陛下の親書を送っていたという…」
半藤氏
「いや、送ろうとして…。近衛さんが特使として、天皇の親書を持って日本側が講和のために条件を全部出し、たとえば、千島はソ連に返すとか、朝鮮の独立は許すとか、台湾も独立を許すとかで、そういう条件をたくさん持って作成して、近衛さんがそれを持ってソ連に行こうというので、ソ連に近衛特使を差し向けたいからぜひ受けてくれという交渉をしているんです。ただ、スターリンはポツダムで連合国の会議があるので、ドイツ問題を話すために、ドイツは降伏していますから、ドイツ問題を話すためにスターリンはポツダムに行くので、その用事で忙しくてダメだから帰ってからにしてくれと、何かよくわからない返事をよこしてモタモタしているんですよね。そのうちに広島に原爆が落ち、ソ連はこの年の2月にヤルタ会談でアメリカとイギリスに約束しているんですよ、日本に戦争を仕かけるというのを。そんなことは口にも出しませんが」

現代に活かすべき教訓は
秋元キャスター
「戦後70年の新しい談話はどうようなものになるべきだと考えますか?」
加藤教授
「過去への省察と未来への日本人としての発信という双方が半々ぐらい大事だと思うんですね。1つ参考になるものを持ってきましたが、アメリカの学者のエズラ・F・ヴォーゲル氏が提言しているのは2つあります。日本と中国の双方に言っています。日本のリーダーは、第二次大戦後の平和に対する日本の貢献をちゃんと言葉で書け。ちゃんとGNPの1%に抑えてきた。核兵器の製造の抑制、海外派兵の禁止などをちゃんとしてきた。こういうことをちゃんと書く。二十、三十ページのペーパーを書けと。一方、彼が言っているのは、戦前期についての日本の歩みについても同じ分量で、ちゃんと青少年に日本が悪く行ったことなどの教育もちゃんとやるということを示したペーパーも書け、と言っています。一方で、中国に向けては鄧小平の時代をちゃんと見直せということも言っているわけでありまして、文学、映画、テレビと柔らかいことを言っていますが、ヴォーゲル氏は、鄧小平の時代のことを言いながら、現在、習近平氏がやっているような、日本の一部の部分だけを取り上げて、反日デモに誘うようなことはやめろということも書き、つまり、日本についてもプラスマイナス。中国についてもプラスマイナス、双方のことをちゃんとやれということを言っていますので、これは1つ、ヴォーゲル氏の名前も含めて、参考になると思います」

戦後70年 安倍談話のあり方
半藤氏
「戦後70年ということを考えて、70年間の日本の新しいことは何かと申しますと、とにかくプラス面としては、戦争の悲惨さと言いますか、戦争はやっちゃいけないという、太平洋戦争に対する思いと言いますか、記憶というものは長く保持してきましたよ、平和の願いというものを日本は鮮明にしてきました。平和でありたいということで、軍事国家にならないという国際的信頼を生んだと思います。それが最大の日本の国益ではないかと思います。マイナス面は何かと言うと、戦争というものをきちんと私達は清算していないんですね。だから、きちんと学んで、反省もあまりしていないんですね。だいたい日本人で太平洋戦争がいつ起きたかわからない人がたくさんいますよ。そのぐらい日本人は歴史というものに対して無知になったと、言い方は悪いのですが、忘れちゃったという感じでとられているんですね。これはどうしてもそういうイメージでとられているということは残念ながら認めなければならないのではないかと思うんですよね」

作家 半藤一利氏の提言:『パワー重視の外交は危険です』
半藤氏
「日本に外交があったかと言われると、外交らしい外交はなかったと思いますが、ただ、戦後、昭和史をずっと眺めてきて、なぜこんなに昭和史がまずいことになったのか。外交がなかったということと同時に、外交するためには後ろに武力がなければできないんだという妙な考え方があったんですね。現在もそんなようなことを言う人が多いですね。外交は別なものですよね。ですから、外交は外交できちんとやらなければいけないんですよ、これからも。何か武力がないとまともな外交ができないというような、そういうものではないということを提言しておきたいですね」

加藤陽子 東京大学大学院教授の提言:『史料が(は)語る』
加藤教授
「基本は、たとえば、日韓の共通の歴史認識や、日中の共通の歴史認識を摺りあわせる努力をする必要があると思うわけで、その時に共通なんてできないと言うのではなくて、同じ史料を使いながら、たとえば、日本の降伏文書とかでもいいですし、太平洋戦争の開戦の詔書でもいいですし、日本の様々な映画で、どんな映画を戦時中につくっていたか、その文化もいいのですが、そのような政治、外交、社会を巡る両国の史料というものを青年が読みあって、それで考えていくと。史料の共有化というのは、私はできると思いまして、日本は既にそれをやっていまして、アジア歴史史料センターというインターネット上の資料庫なのですが、国立公文書館というところがやっています。大変なお金をかけながら、年間200万画像をあげながら、基本的に戦前期の日本の動きというものを誰でもどこでもいくらでも見ることができるというのがあります。ですから、そういうことも知っていただきながら、やっていただきたいと思います」