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2015年1月5日(月)
戦後70年とは何なのか 作家・半藤一利が語る

ゲスト

半藤一利
作家
加藤陽子
東京大学大学院教授

天皇陛下ご感想(新年にあたり)
秋元キャスター
「新年にあたり天皇陛下は次のようなご感想を発表されました。本年は終戦から70年という節目の年にあたります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々、広島、長崎の原爆。東京をはじめとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています、というご感想ですけれども、半藤さんはこの天皇陛下のご感想をどのように受け止められましたか?」
半藤氏
「驚きました。それにもまして、初めてじゃないかと思いますが、満州事変に始まるこの戦争の歴史と。ここから言及されましたね。戦後、狭いこの日本を、いかに、私達がどういう歴史を辿って、今日まで、どういう日本をつくってきたのかということを、天皇陛下はよく考えているんだなと思いますね」
反町キャスター
「戦後70年経って、現在、戦前の経緯を考えなくてはいけないという、陛下のお言葉をどのように考えますか?」
半藤氏
「やはり日本人というものは歴史を少し忘れているのではないのだろうかということに対する、陛下の憂いではないでしょうかね。あまりにも日本人は、私はよく覚えていますが、昭和21年の1月1日でしたか、戦争に負けて翌年の1月ですが、GHQの指令が出て、日本の教育機関が歴史と地理と修身を外せと、教えるなと。あの時、私は中学生でしたけれども、これで歴史もの、いや、暗記ものがなくなると喜んだ覚えがあるんですけれども。でも、あれは喜んではいけない、本当に一番いけないことだったと思いますね。日本の歴史をきちんと教えないようにしようというのはGHQの指令だからといって、日本の政府はあの時、唯々諾々として受け止めるべきではなかったと思いますよ。歴史というのは断絶しているわけではないのですから、歴史は流れて来るのですから、今日まで来るわけですから、ですから、そこはきちんと私達は認識をして、そこから学ぶものがあれば学ぶという姿勢を忘れてはいけないと思うのですが。ところが、あの時、忘れちゃったんですよね。だいぶあとになってから、もういっぺん歴史を復活しようなんて声があって、学校で歴史を、必修ではないけれども教えだした時は、たぶん私の想像ですけれど、先生がいなかったと思いますよ、教える。つまり、習っていないのですから。ちょっと、戦後の日本を考える時、私達日本人は何か最初のスタートのところでちょっと間違ったことをしちゃったかなとずっと思っています」

作家・半藤一利氏の戦争体験
秋元キャスター
「戦後70年を迎え、戦争を体験された方々もだんだん少なくなってきていますけれども、半藤さんは1930年。昭和5年の生まれということですけれども、終戦の年の3月に東京大空襲の経験をされているんですよね」
半藤氏
「はい。東京の向島。現在の墨田区ですけれども、3月10日の空襲というのはまず深川の方から爆撃が始まって、だから、浅草がやられて、それから、向こう側の江戸川ではなく葛飾の方がやられていたと。包囲をしちゃったあとで、墨田区の1番北側にあるわけですね、下町の中で。それで、そこにB29が来まして、本当に私の頭上で、焼夷弾がパーッと破裂しまして、豪雨じゃない、バーッと焼夷弾の雨が降ってきたという経験をいたしまして、アメリカという爆撃の仕方というのは、絨毯爆撃とか、無差別爆撃という言葉で言われていますけれども、そのやり方が酷だったと思いますよ。ですから、私達がもうダメだといって逃げ出した時には周りは火の海なんですよ」
反町キャスター
「周りを囲んで、そのあと真ん中に落としますからね」
半藤氏
「そうです。真ん中に落とすでしょう」

現代に活かすべき教訓は
反町キャスター
「加藤さんは陛下のお言葉から何かお感じになることありますか?」
加藤教授
「今回は、今上陛下ですけれども、半藤先生が先ほど、半藤少年がこれは何か計画して(焼夷弾が)落ちているような印象だったと。東京大空襲の話されました。私は、それを伺って思いましたのは、アメリカ軍というのは隅田川を中心に落とした時にどう燃えるかというのを、1923年の関東大震災後の自然発火みたいなものをきちんと風がどちら向きだと、あれは9月でしたけれども、そういうデータをもとに焼夷弾を落とすんですね。そういうことを考えると、半藤少年が図ったかのように落としている、これは正しい実感だと。昭和天皇に戻りますと、昭和天皇は摂政時代に、大正10年、1921年だったんですが、ヨーロッパに6か月見学に行きます。そうすると、第一次世界大戦のヴェルダンなり、ソンムなり、そういう酷い戦場を、戦争が終わってから2、3年経っているんですけれども、若い皇太子である昭和天皇が見ている。と言うことは、昭和天皇は3度焦土に立っている人なんですね。ですから、そういう、天皇家なりの語りといいますか、それは今上天皇のもとにも伝わっているはずだと。つまり、昭和、戦争の時代が不本意であると、今上陛下は確か、2009年の在位10年の時に言っていますね。ですから、半藤先生には是非、玉音放送の感じとか、昭和天皇が3月16日でしたか、1945年の時に被災地をまわったお話を伺いたいと思います」
反町キャスター
「陛下のお気持ちはどう感じましたか?」
半藤氏
「陛下は3月10日のあと、深川、浅草辺りを車でまわりながら途中で降りられて、歩かれているんですよね。まだ焼死体なんか、そんなにきれいに整理されていたわけではなく、そのへんに転がっていたといいますか、そのままになっていたというような状態を陛下は見ているんですよね。だから、戦争がいかに悲惨であるかということは、何遍か口に出されていますよね。加藤さんがおっしゃったヴェルダンに行った時も、戦争は悲惨でやってはいけないことだという言葉を漏らしたということになっていましたけれども、昭和天皇実録にもちょこっと書いてありますけれど、そのぐらい戦争の悲惨さというものを昭和天皇はよく見ていたと思います。それを今上天皇、現在の陛下にもちゃんと伝えたと思いますね。ですから、現在の天皇もまた戦争というものはやってはいけないと。平和であった方がいいというのを骨の髄から、そう思っていらっしゃるんじゃないかと思っていますね」
反町キャスター
「それが親子の関係と言っていいのか僕にはわからないのですが、それを超越した何かとして、天皇家の中の口伝えとして、そういったものがあるのではないかと」
半藤氏
「残っているのではないかと思いますね。本当に伝えられてきているのではないかと。そう思いますね」
反町キャスター
「その陛下のお言葉。戦争の終結を決めたのが玉音放送だったのですが、半藤さんは玉音放送をどこで聞いたのですか?」
半藤氏
「その時は新潟県の長岡へ疎開をしていました。中学3年生になっていましたが、勤労動員ですから、軍需工場で働いていました。非常に面白いのは11時48分ぐらいまで働いていましたね。突然と作業やめとあって、ラジオをつけられて、ラジオが流れてきた。私の記憶ですが、関東地方上空に敵影なしというような最後のニュースが流れて、そして、そのニュースが終わって、ピ、ピ、ピ、ポーンという時報が鳴って、ただいまより、尊いお方のご放送がございますから、1億、皆さんは起立してお聞きくださいというアナウンスがあって、陛下の放送がいきなり始まったんですね。当時、実際に聞いた人達はだいたい、口を揃えて、ワオワオ、ワンワンという雑音が入った、だから、よく聞こえなくて、ポツダム宣言を受諾したのか、これからしっかりがんばって戦うと言われたのかわからないという人もいますけれど、そういうことは、私はなかったですね。よくわからないような声だったですけれども、耐え難きを耐え、忍び難きを忍びという言葉はよく聞こえましたし、万世の為に太平を開かむと欲すという言葉もよく聞こえました。ですから、これは戦争が終わったんだと。負けたとは思いませんでしたけれども」
反町キャスター
「負けたとは思わなかったけれども、終わったとは思った?」
半藤氏
「私は負けたというよりは、終わったと思いましたね。ポツダム宣言を、受諾せんとすと言っていますから、それを受け取るということでしょうが、終わったと、私は思っていましたけれど。それから、すぐに天皇陛下放送が終わったあとNHKのアナウンサーの和田信賢さんという人が、ただいまより御詔勅をもういっぺん拝読いたしますと言って、丁寧に読んだんですよ。これはよく聞こえました。ですから、戦争はここで終わったんだ。負けたんだと思った人もいると思いますが、終わったんだということは、皆さん、わかったはずだなと思うのですが、わからなかったという人が随分いるんです」
反町キャスター
「よくありますよね、玉音放送が何を言っているのかわからなかった。ただ、泣いている人がいたので、終わったんだみたいな談話がありますよね?」
半藤氏
「僕もちょっとあれね、違うんじゃないかと。すぐあとに読み上げましたから。続いて、戦争が終結したことに対する内閣の訓示というのか、告示というか、それが読み上げられましたから。戦争が終わったということは、1億のほとんどの人がわかったのではないかと思います」

満州事変~日中戦争
秋元キャスター
「先の戦争に関する昭和の初めからの主な年表を用意しました。先ほどのコーナーで紹介しました陛下のお言葉でも満州事変に触れていましたけれども、まず、昭和6年の満州事変。昭和7年に満州国建国となります。日本は当時、満蒙は日本の生命線というスローガンを掲げまして、満州国建国によって事実上の支配権を握っていました。半藤さん、どうして日本にとって満州が大事だったのでしょうか?」
半藤氏
「ちょっと長い歴史になってしまうんですけれど、簡単に言いますと、日露戦争が終わった時に、当時、満州に向けた権益、鉄道とか、炭鉱とか。そういうものの経営、権益はロシアが持っていたんです。そのロシアと戦争で日本は勝ちました。日本は勝ったということになりまして、その権益をそっくり譲り受けたんです。ですから、満州にあるいろんな諸設備の権利というものを日本は非常に大事に思ったと言うんです。日本はこれを守っていくことは大事だなということが何となしに、明治、大正を通して、これを育てていこうというような考え方だったんですね。ところが、ご存知のように、ロシア革命が起きて、ロシアの王朝がひっくり返ってソ連邦という共産主義国家が成立しますね。中国の方はそれまで清朝だったのですが、辛亥革命という革命が起きまして、これもひっくり返って、その代わり、国民政府というのが、統一に向けて動き出すわけです。その政府が、すぐに統一されたわけではないのですが、軍閥がたくさんいて、中国の場合は、軍閥同士の争いをやっていたのですが、その中でも、蒋介石が率いる国民党軍というのが非常に力を持ちまして、次々と軍閥を叩き伏せて、国家統一に向かってばく進し始めたんですよね。それが大正ですよ。昭和に入った時、新しくでき上がったソ連は、また五か年計画というような計画を立てて国家をどんどん強くしているわけです。同時に、中国本土は蒋介石を棟梁とする国民政府軍が統一に向かって南の方から北の方へ前進してくるという時に昭和を迎えるんです。ですから、昭和を迎えた時に、日本の国防ということを考えた時に2つの外圧があったんですね。ですから、これに対して何とかしなければいけないというように思っている先に、不景気がきたんです、世界に。昭和4年にウォール街の大恐慌がありましたが、日本はそれをちょっと楽観視していまして、昭和5年に円解放、自由化といいますか、やったものだから、煽りをまともに受けて、昭和5年ぐらいの時、私が生まれた時ですが、日本は貧困な国家になったんですね。これは、2つの外圧があるうえに、国力がすごく落ちたので、これを何とかしなければならないと思い出したのが軍部ですよ。こうしないと、国防が全うできないというので、軍部が思い出して、そこで満州というこの土地を、国力を何とか立て直すための土台と言いますか、スプリングロードと言いますか、これを使ってやろうじゃないかというので、満州国が浮かび上がってくるんですね。ところが、中国は、そういうわけで国民政府がどんどん強くなっていますから、あの満州はもともとは中国のものなのだから返せ、権益を皆返せということを言い出しますから、ますますこちらは危機感を覚えますよね。と言うような状況の中で、不況が来て、何とか満蒙問題を解決しないと日本の国防が全うできないというような焦りから、どうするのかというので、昭和6年の満州事変というものを陸軍が、自分達のと言ってもいいと思いますが、陸軍総がかりの陰謀で、ここで事変を起こして、武力を持って満州を制圧しようというのが満州事変なわけですね」
反町キャスター
「昭和6年の満州事変が、半藤さんの書かれたものなどを見ていると、いわゆる太平洋戦争に向けた、その1つの分岐点、大きな節目になっているという話は、これはどういう意味ですか?」
半藤氏
「昭和史というものは、本当に満州国を巡って、日本は外交的に、非常に困難な立場にどんどん追い込まれていくと。その追い込まれていった日本は、どうしたら日本は安全を確保できるかというので、軍部が考えるでしょう。陸海軍です。ところが、面白いことに満州事変の時、日本の新聞は皆、軍部応援ですよ。それまでは軍部に対し、かなり厳しい意見を紙面で展開していたんですよ。いろんな新聞が。もちろん、軍部に添うような意見の新聞もあったんです。でも、だいたい皆反対です。その反対している新聞、マスコミが全部、軍部応援です」
反町キャスター
「なぜですか?」
半藤氏
「これはややこしいですけれども、ラジオができた時なのですよ。ラジオというのはもう少し前にできたのですが、一般的になったのは満州事変の時です。満州事変の時に我が郷土の部隊が出征して行ったと。あの部隊はどこにあるのかということが知りたいわけですよ。それを伝えるのはラジオの方が先ですよ。そうすると新聞は追いつかないんですよ、速報。現在でも、インターネットの問題で、インターネットははやいですからね、情報が。ですから、日本の新聞は現在ちょっと焦っているのではないかと。いろんな意味で、誤報したり、何かするのは、焦りが出ているのではないかと、私なんかは思うのですが、似たようなことだと思いますが、新聞がどうやって対抗するかというと号外ですよ。号外。号外を出すったって、中身がなければ白紙の号外というわけにはいきません。中身を入れるためには、軍部から情報をもらわないことにはできないではないですか。戦争しているわけですよ。ですから、軍部から情報をもらわなければいけない、寄り添わなければいけなくなってくるというような形で、どんどん軍部に寄り添って、軍部の指導のもとに、指導という言い方はおかしいですが、出してくれる情報をもとに国民に知らせてくると。だから、国民はどちらかというと軍部情報を読んで、政党はどうもだらしないと、日本のこの苦境といいますか、危機を脱却することができないが、軍部が何とかしてくれるのではないかというような思いになって、結局、変な話ですが、満州事変、満州国建設あたりから、日本の世論は軍部のあと押しになってくるんですよね」

何故日本は戦争に突入したのか
秋元キャスター
「日中戦争開戦当初、戦争の先行きについてどう見ていたのですか?」
半藤氏
「日中戦争となっていますが、当時は支那事変または日支事変と言って事変なんですね。事変というのは戦争とは違う、宣戦布告をしていないんです。ただ衝突しているということですね。本当は戦争ですけれども、なぜ宣戦布告をしなかったのかと言うと、アメリカの中立法というのを日本と中国の方も意識したんです。アメリカの中立法というのは、もし戦争した国があった場合には、その戦争をしている国には石油とか、鉄とか、そういうものの輸出を禁止すると。同時にいろんな物資を輸入する時に、手形と言ったらおかしいですけれども、先づけではなくて現金にするというようなことがアメリカの中立法で決まっているんですよ。ですから、日本にとって日本の当時の石油は8割をアメリカから入れていますから、これが戦争になっちゃうと、変な話ですけれども、アメリカからの輸入が止まっちゃいますから、非常にまずいので、戦争はしないということは、昭和12年の7月から始まるのですが、11月には宣戦布告はしない、事変のままでということで、中国の方も、アメリカからたくさん物資を買っているのですが、現金払いになると金が払えませんので、中国も中国の事情があって宣戦布告をせずで、事変のままですよ。事変のままということはどうやってとめたらいいかというのはすごく難しいんですよね、考えてみたら」
反町キャスター
「事変でスタートさせた時の出口戦略は何があったのですか?」
半藤氏
「ないです」
反町キャスター
「終わらない?」
半藤氏
「和平工作というか、間に入ってくれる人がいれば、喧嘩をとめることはできたかもしれませんが、チャンスは1回だけあったと私なんかは思うのですが。それがトラウトマン工作と普通言うのですが、ドイツの中国大使、トラウトマンが間に入って、それで何とか仲良くしたらどうか、戦争をやめたらどうか、ということで両方に話しかけて、両方が条件を出しあって、ある条件でまとまりかけたんですよね。うまくいくかと思っていた時に、12月13日に日本軍が、そんな工作とは知りませんから…知っていたかもしれませんが、もし停戦協定ができた時にはできるだけ領地をとっておいた方がいいという陸軍の妙な考え方がありますから、どんどん攻めて行っていて、南京を落としちゃったんですよ。12月13日、ちょうど話し合いをやっている最中に。日本は敵の首都をやっつけたのだから、こっちは勝っているんだから、こんな生易しい条件ではなく、条件を上げようではないかと上げたんですね。そうしたら中国はとんでもない、こんな条件飲めるものかということで、またごちゃごちゃ始まっちゃって、これこそ加藤さんのご専門ですが…本当は陸軍の参謀本部はやめたかったと思います、ある一部の作戦課の人達。ところが、内閣がやめることに反対ですよ。当時は近衛文麿内閣ですが、この文磨内閣が妙に強気で条件を上げて、条件が飲めないなら仲直りなんてとんでもないと言って、返事を昭和13年の1月の12日か13日までによこせと。中国から返事はこなかったんですね。結構話し合いは進んでいるのに中国は条件を上げられて、そんなの飲めるかという思いがあったかどうかはちょっと知りませんが、結局拒絶したんだと。これからは中国政府を相手にせず、有名な、昭和12年の『蒋介石を相手にせず』という声明を出したんですよ」
反町キャスター
「強気の発言にも見えるのですが、苦し紛れ?」
半藤氏
「発言をすべきでなかったと。近衛さんは、戦後になって、あれはまずかったと言っていたそうですが。外務省が言い出したとなっていますが、いずれにせよ、『蒋介石を相手にせず』という発言があったおかげで喧嘩の当事者を、もう相手にしないということですから、仲良くするというか、手を結ぶというチャンスがなくなっちゃったんですよ」
加藤教授
「昭和天皇実録で今回明らかになったことで、昭和天皇は日中戦争が始まる1週間ぐらい前に、これは慧眼だと思うんですけれども、とにかく現在、中国の満州と中国本土の間の北支で、日本が妥協して中国と仲良くしておかないと何かことが起こりそうだ。だから、会議を開こうと、昭和天皇が内閣と軍部に声をかけます。それを内閣と軍部は断るんですね。基本的に陸軍としては、中国が相手の戦争は半年で終わる。弱い相手だから大丈夫と、すぐ負けてくる。ソビエトはソビエトで準備も大丈夫だと。つまり、ソビエトと中国というものを考えた昭和天皇が1937年7月に手を打とうと。内閣と軍部は断ります」
反町キャスター
「断れるものなのですか?統帥権は形だけだったのですか?」
加藤教授
「御前会議を催そうと言っても、断れるんですね」
半藤氏
「形だけですね」
加藤教授
「それでどうなったかと言うと、蓋を開けてみると中国がドイツの軍事顧問団を1934年ぐらいから雇っておりまして、蓋を開けてみた1937年の8月から11月の上海作戦というのは激戦だったんです、日中戦争。本当は弱い中国と強い日本のはずが、何とこの3か月の間での勝率は日本より高かったんです。つまり、ハッキリ言えば、ベンツがつくった軍用トラックに乗った兵士が、チェコ製の優れた武器を担いで日本軍と戦ったんです。日本軍はソビエトも来るかもしれないから、結局、歳をとったあまり強くない兵隊を投入する。と言うことで、日中戦争初期の指導というのが、滅茶苦茶になる。となると、各国は(日本は)軍事大国で日露以降やってきた。本当はどうかということで、イギリス、アメリカの見る目も変わると。そうした時に、日本側も弱いと思っていた中国もこんなにやったということで、結局、これは苦し紛れですけれども、蒋介石を相手にせず。1946年ぐらいまで、この日中問題というのが本当に癌になるんです」

日米同盟と昭和天皇
反町キャスター
「昭和16年9月6日の御前会議で昭和天皇は明治天皇の御製を詠まれていますが、その気持ちはどういう?」
半藤氏
「これは本当に戦争は起こしてもらいたくないという天皇の気持ちだと思います。この前にちょっと説明しておかないと、ここまでくるのにわからないのですが、つまり、日本は日独伊軍事同盟を結びまして、もしかしたらアメリカと戦争をするかもしれないと。そうすると石油がとまる。石油がとまった時には日本は石油を何とかしないといけないんだと。そうしないと長期戦はできない。じゃあどうするかと言ったら南方、いわゆる東南アジア。東南アジアの諸国を確保するためにはいざという時のために現在のベトナムですが、当時仏領インドシナと言って、フランス領だったのですが、そこのサイゴンの近辺にまで出て行っておかないと飛行機が使えない、航空戦ができないと。航空戦ができないと上陸部隊が苦戦するから、そこまで出て行って飛行基地を確保する。そこに出て行ったらフランスはもちろん怒りますし、イギリスだってシンガポールという大事なところが制空権下に入りますから、これは怒る。アメリカは大丈夫なんじゃないかという…。またそこで自分達の勝手な思いで出て行くわけですよね。案の定、アメリカはカンカンに怒って、石油をとめたわけです。石油をとめた瞬間から、日本はアメリカと面と向かって戦わざるを得ないのではないかということになって、主導層と軍はアメリカに対する、これまでの石油のために何とかやっていたのを、よし、と覚悟をして、7月の2日に第1回の御前会議を開いて、外交をとにかくやる、アメリカをなだめると。石油をとめるということを元に戻してやろうじゃないかということを御前会議で決めた。ところが、うまくいかない場合はどうするのかと言ったら、対米戦を辞せずというのを御前会議で決めるんですね。それじゃあということで、一生懸命に外交をやるわけです。日米交渉をやるがうまくいかない。と言うことで、9月6日にまた御前会議が開かれた。その時に戦争を辞せずと7月に決めていますから、戦争という言葉がもう出てきているわけですね、対米戦争。ところが、戦争ではなくて外交で何とかしないといけないという考え方と、両方あって、どちらを大事にするのか。戦争をするために軍部は準備をしないといけませんから、9月では、いつ戦争をするかわかりませんが、とにかく軍備しなくてはいけない。だけれど、戦争はダメだから外交でという話し合いがあって、御前会議をやった時、戦争が主になって外交が従だった。天皇陛下はこれでは困ると、外交をメインにして戦争を従にしてくれと盛んに言っているのですが、結果的には戦争が主になって、外交が従になったんですね。御前会議を開いた時に天皇陛下がこの詩を詠まれたんです。よもの海…友達と思っているのにどうして戦争が始まるのか、という嘆かわしいことだからやめてほしいというのが明治天皇のお気持ちでしょう。それを天皇陛下が自分で言われたんですよね。ですから、天皇はあくまで外交でいきたいという想いをここに込められたと」
加藤教授
「御前会議という場で、詩で意思表示をしないといけない天皇というのも気の毒なのですが、実は何でこのようなことを言いますかと言うと、日清戦争の時に明治天皇はちゃんと伊藤博文や陸奥宗光という外交大臣の首相らとかかって、事前文書をつくって、文章をつくって、軍国の体系は文武に相応じて謀議周密を要すとか、軍事上においては、大本営と出師、首相との間、その権益を明らかにしとか、つまり、今後、戦争が起きたら何が問題になるかというのを明治天皇は自覚しています。ですから、伊藤首相ですとか、陸奥外相とか、強い文官らに文章を準備させて戦争になってから何を考えないといけないのか、大本営と本部と出先の将官の間で軍事作戦なんかの方針が違うようになった時に、これはちゃんと相談せよということを言っているんです。ですから、そういうことを何故昭和の時期にはできなかったのか。これは、1つは昭和天皇の教育を元老らが、軍部がこう言ってきた、内閣がこう言ってきた、一致している時に発言はしていいけれども。と言うのは、制御と教育というものが、私はあまりうまいかなかったのではないか。明治天皇の、今申し上げたような前例等も含めて指導して良かったのではないか。ただ、その時に東條首相や、その前は近衛首相、むしろ首相が戦争に前のめりになっていたりするわけなので問題はあったと思いますが。ですから、この詩の問題と天皇の関係というのは、実はいろいろ問題があることだと思います」
反町キャスター
「陛下と軍部の関係はどういう関係なのですか?」
加藤教授
「軍人は見た目は天皇陛下の言うことならばと、天皇陛下という号令がかかった瞬間、体を緊張させる。吉田茂、のちの首相が言っていたのですが、軍部の中に共産党がいるのではないかと。一君万民で天皇の言うことと指導しながら、言っていながら、実は戦争指導と言った時に、たとえば、(開戦前に)ルーズベルトからきた戦争はやめませんかといった親電を15時間とめたのは軍部ですよ。ですから、本当に天皇の心を想って、活動するわけではない」

作家 半藤一利氏の提言:『不戦の努力』
半藤氏
「私は戦後70年を一言で言えというと、この言葉ではないかと思うのは、戦後70年とにかく日本は戦争などというものは一切やらないし、戦場で人を殺しもしない、日本人の兵隊さんが戦場で戦死というような形で亡くなることはなかったわけです。何となしに日常的に平和というのがあるように私達は思っちゃうんですね。そうではないと私は思っているんです。戦後70年の間にいろんなことがありましたから、本当にいろんなことがあって、いつでも戦場に日本人が出て行くということはあり得たと思うんですよね。ところが、日本は戦争をしないんだと。悲惨な焼け跡から日本再生という形で立ち上がって、永々と努力をして、それが復興になり、さらに繁栄になって70年きたわけですが、その間に戦争はしないんだということは、日本は戦争をしない国だということを本当につくり上げてきた、築き上げてきたというのは、私達が努力してきたからだと思うんです、本当に。それは決して平和というのは天から降ってくるわけでもなんでもなくて、私達がつくってきたものであると。それを大事にしなければいけないんじゃないかというのが戦後70年を一言で言えというと、この言葉になるんです」

加藤陽子 東京大学大学院教授の提言:『歴史に学び 未来に備える』
加藤教授
「未来志向と言った時に、歴史に学ぶという部分がカットされた状態で発言をしている方が多い中で、歴史を知らなければダメだろうと。特に現在、日米対立に流れる過程で、日中関係の火種が41年まで続くんですね。ですから、こういうことも含め、また次回機会がありましたら、日中関係をどう改善するのかの提言なんかもしていきたいと思います」