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2014年9月9日(火)
『昭和天皇実録』前編 太平洋戦争前夜~開戦

ゲスト

秦郁彦
現代史家
山内昌之
東京大学名誉教授 明治大学特任教授

『昭和天皇実録』公開 87年の生涯全記録
島田キャスター
「『昭和天皇実録』は、昭和天皇の生涯に渡る日々や活動を記録した公的な年代記です。年代記といいますと、我が国には、古代の日本では、奈良時代の日本書記から平安時代の日本三代実録まで、6つの国史が編纂されまして、神武天皇以前の、神が支配されていたとされる時代から、58代の光孝天皇までの業績を記しています。その後、朝廷の権力の衰退もありましておよそ1000年間、この公的な年代記は途絶えるのですが、明治維新後に復活、明治天皇の父の孝明天皇記、明治天皇記、大正天皇実録などがつくられています。今回公開されました『昭和天皇実録』ですが、我が国の年代記に照らしあわせて、どういった意義を持つと考えますか?」
山内教授
「歴史記述というのは、我々にとって、ここは書いていない、ここがちょっと不十分だというのは当然あるんです。あるけれども、正史あるいはそれに準ずるような、これは官の色彩が非常に強い歴史ですし、そういう現代の天皇にもかかわることや、いろいろな皇室関係のことにかかわることなので、書かれないこともあるのが、この実録の、もともとの性格だということを見ておかないといけません。昭和天皇は、2つの大きな戦争、世界大戦、それから、冷戦を経験され、2つの大きな憲法、大日本帝国憲法と日本国憲法。この下で君主としての地位と象徴としての地位と、全く2つの異なるお立場で生きられた方です。こういう方の実録というものを、研究的に見ていくとすれば、それは私が申したように、全ての外交や国際関係にもかかわるところが出てきますので、まさに日本史だけではなくて、世界史の研究でも重要な資料になるという性格のものが出されたということですね」

富田メモの取り扱い
島田キャスター
「靖国神社におけるA級戦犯合祀の経緯と昭和天皇が参拝をやめられたことに関して天皇自身がおっしゃったとされる、いわゆる富田メモの真偽の部分について聞いていきたいと思いますけれども、富田メモは当時、宮内庁の長官だった富田朝彦氏が1988年、昭和63年の自身の日記に書かれていたものがメモとして残っていたということで、こういった記述がありました。『私は 或る時に、A級が合祀されその上、松岡、白取までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから、私あれ以来、参拝していない それが私の心だ』と、これが富田メモで、2006年に日経新聞が報道しました」
反町キャスター
「この富田メモというものが歴史的な、どこまでの信憑性があるのかというのが、一部議論があったんですけれども、その件に関して『昭和天皇実録』においてはこのように書かれています。『第二次大戦について“いやな思い出”と表現されたことについてお話になり、ついで靖国神社におけるいわゆるA級戦犯の合祀、ご参拝について述べられる。なお、平成18年には、富田長官のメモとされる資料について“日本経済新聞”が報道する』。今回、昭和天皇実録に、日本経済新聞が報道するとまで書き込んだ真意は、富田メモは真偽の議論を待つまでもなく、これは真実であり、合祀によって、昭和天皇は靖国参拝をおやめになったということは事実であるということを間接的に国民に伝えたかった。これでよろしいですか?」
秦氏
「そうでしょうね。私も今回、期待していたのは、78年の合祀の時に宮内庁と靖国とのやりとりがあるわけですよ。しかし一切記述はないですよ。今回、こういう書き方になりましたね。宮内庁側の説明では、これはいろいろ異論もある。つまり、A級合祀したことと天皇が参拝をやめられたことの間に直接、因果関係があるかどうかについて、これは富田メモが発表された直後からワーワーいろいろ出まして、異論が出たわけですよ。その異論があることに対して、ここで決めかねるという要素があるという説明をしていますからね」
反町キャスター
「議論に決着をつけたい、という宮内庁の思いではないのですか?そこまでは言い過ぎ?」
山内教授
「言い過ぎというより、そういうものではないんですね」
反町キャスター
「たとえば、靖国に陛下が参拝するか、しないかという議論、この番組で何度もやりましたけれども、一部の方は、いわゆるちゃんとした言論人と呼ばれる方でも、富田メモというのは嘘であるとか、A級戦犯の合祀によって陛下がご心配で靖国の参拝をやめられたことは、これは関係ないんだと断言する方もいるわけです。その議論に終止符を打ちたいからこういうふうに書いたというのは違うのですか?」
山内教授
「終止符を打つというは、それは私達のような歴史家が、論争やいろんな学説の正しさを巡って議論をするのを職業とする人間にとっては、そういう考え方はありますよね。しかし、宮内庁書陵部編集課というところはそういうことを目指して実録を書いたのではなく、昭和天皇がいかなる日常を送られたか、公務をなされたか、これが第1。第2は、外交や政治や社会状況、そういう関連することについてもまとめていくという、こういうことをしていくわけであって、積極的に宮内庁自身が解釈をしていく、論争に終止符を打つというような立場を表面的にはですよ、表面的にはとっていないです」

天皇機関説めぐる大論争
島田キャスター
「昭和天皇の生涯と日本の動きと世界の動きですが、昭和に入ったこの10年ですね、天皇機関説が問題となるとあります。昭和10年、天皇のお立場を示す学説、天皇機関説について賛否両論の大論争が巻き起こります。今回の実録にその様子についても記されていますが、基本的なことですが、この機関説というのはどういう学説だったのか教えていただけますか?」
山内教授
「これはもともとヨーロッパで発展した国家学説の種類の1つです。いわゆる、国家法人説というもので、国家を法律上、1つの法人だと考える。その時に国家を構成している君主、あるいは議会、裁判所、これが国家という法人の機関になる。そういうところからきているわけです。日本に当てはめますと、当時の帝国憲法の解釈では、日本国家が法律上は1つの法人であって、天皇は法人である日本国家の機関という解釈でありまして、基本的に統治権は法人たる国家にあるという考えです。しかし、帝国憲法においては国家意思の最高決定権の意味での主権。主権は天皇にあると考えていますし、もちろん、天皇の正常の権限は否定されていない。否定されていないんだけれども、この機関という名称。これがいろいろな誤解やミスリーディングというものを招くことになる」
島田キャスター
「今回の実録によれば、昭和天皇は天皇機関説についてこういった考えをお持ちだったと書かれています。『侍従武官長をお召しになり、天皇機関説排撃のために自分が動きがとれないものにされることは迷惑である』との感想を述べられました。これは昭和10年3月11日のこと。そして、昭和10年3月28日に憲法第一章第四条。『天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ』につき、すなわち機関説であるとのお考えを示される。天皇自身も機関説を支持していたとのことですが、この天皇のお考えとは裏腹に、なぜこの天皇機関説というものが、大論争になったのかというところですけれども、この点はいかがでしょうか?」
山内教授
「これは機関説をもともと唱えた。あるいはその重要なリーダーであった一木喜徳郎という人がいます。この一木喜徳郎という人は、東京大学の教授であり、後に宮内大臣、宮内庁の大臣になられ、枢密院の議長を務める人ですが、天皇の側近であり、重臣であった人です。このように天皇の側近、それから、天皇その人は皆、機関説論者だったんですね。こういう人達が天皇の周りに取り巻いているということで、欧米列強をモデルとし、西洋の近代化というものを基礎にして、モノを考えようとするような人達が、この宮中、あるいは天皇の周辺にいることに対して、右のさらに右翼といいますか、いわゆる天皇というのはそうではないと。主権説。天皇自身が主権というものを、それ自体として持っているというような右寄りの理論、これが軍部。それから、軍部の中でも一部、皇道派と呼ばれる人達が特に中心だけれども。それと、いわゆる右翼と呼ばれる人達ですね。超保守、超国家主義者、この人達が排撃していくということで、日本の国体、国の在り方について、神道、あるいは神とは何かといったような、こういう神勅、神の委託によって国家というものが、いわば天皇を介して経営されていくという、こういう人達との間の、結局、軍、それから、政党の一部、政友会なんかもそうですが、巻き込んだ論争になっていくということですね」
秦氏
「これは本質的に権力闘争ですよ」
反町キャスター
「どことどこの権力闘争ですか?」
秦氏
「陸軍の中では皇道派と統制派です。それで相手を引っ張り降ろすと、天皇の周辺にいるですね重臣達、先ほど言っていた一木喜徳郎をはじめ、美濃部(達吉)さんもそれに入りますけれども、そういう人達を君側の奸として追っ払うのに利用をした。ですから、機関説はけしからんと言っている人達は、本人も機関説なんですよ、実は。機関説的行動をとるんですね」
島田キャスター
「どういう意味ですか?」
秦氏
「たとえば、青年将校が二・二六を決起しますね。これは天皇機関説はけしからんというグループに入りますけれども、しかし、真崎内閣をつくるんだと。最初から決めているわけですね。それで、天皇にうんと言わせると。これはまさに天皇を機関として見ているわけですね。ですから、あるいは、また、こういう人達は、昭和天皇よりは秩父宮の方がずっと軍人らしくていいと。だから、取り替えようと」
島田キャスター
「秩父宮と言いますと当時の…」
秦氏
「昭和天皇の弟ですね。当時、陸軍少佐です。ですから、これを担いで天皇を取り替えようと。これはまさに機関説そのものですね」
反町キャスター
「まさにそうですね。国家統治のパーツのように天皇制というか、天皇陛下をそう思っているような話に聞こえますけれども」
秦氏
「ええ、ですから、そういう、よく顕教と密教と言い方があるんですけれど、建前と本音と言うでしょう」
島田キャスター
「軍部の方々、より天皇を重く頂こうという考えで、天皇機関説に反対をしたわけではないということですか?」
秦氏
「そうではなくて、権力闘争ですね、相手を倒すのに、これで攻めるのが一番いいと」
島田キャスター
「昭和10年の8月3日のことですけれども、時の岡田啓介内閣が、国体明徴声明というものを閣議決定します。その中に『大日本帝国統治ノ大権ハ儼トシテ天皇ニ存スルコト明ナリ。若シ夫レ統治権ガ天皇ニ存セズシテ 天皇ハ之ヲ行使スル為ノ機関ナリト為スガ如キハ、是レ全ク万邦無比ナル我ガ国体ノ本義ヲ愆ルモノナリ。』としまして、天皇機関説を公式に否定することになるんですけれど、天皇ご自身はどう受け止められたのかということですが」
山内教授
「天皇は非常に不愉快だったと思いますよ。それは、今回の実録の中にも伺い知ることができるんですね。特に、一番自分が信頼していた枢密院議長の一木(喜徳郎)がもともと宮内大臣であって、一貫して信頼していた人です。彼を擁護していたと。陸軍のこうしたことに対して非常に不快感を持ったということは、もうこれは、今回の実録の中で出てくる。それから、何と言っても、天皇は基本的に言うと平和主義、国際協調主義的な雰囲気を持った重臣や側近達を愛していたし、信頼をしていたということは、今回の実録でわかるんですね。それに対して軍部が反発すると、同時に、嫉妬心みたいなものもある。そういうことで、基本的にすぐここで二・二六に行くわけではないけれども、軍部の台頭、それから先ほどあった国体明徴運動というものが起こって、基本的に我々にとって大事なのは思想や学問。こうしたものの自由も圧迫される。そういう兆しになったということですね」

二・二六事件 知られざる苦悩
島田キャスター
「天皇機関説の話を聞きましたけれど、翌年、昭和11年、二・二六事件が発生しました。こちらでもう少し詳しく見たいと思います。二・二六事件とは、昭和11年2月26日の未明、陸軍皇道派の一部青年将校が、軍部政権の樹立を狙って、およそ1400人の兵を率いて、総理官邸、警視庁を襲撃した事件です。その結果、被害に遭われた方が多くいるのですが、その当時の内大臣である斎藤実氏、そして、教育総監の渡辺錠太郎氏、大蔵大臣の高橋是清氏などが亡くなりました。当時の侍従長でありました鈴木貫太郎さんも重傷を負いました。一命は取り止めました。今回の実録から昭和天皇ご自身は二・二六事件をどのように捉えていたのかを教えていただけますか」
山内教授
「昭和天皇は、二・二六事件に大変な怒りを持って接したということは昔から知られていたんですね。しかし、今回の実録を、私もかなり見ましたけれど、あらためて、昭和天皇の怒りというものが非常に激しいものだということがわかりましたね。第1には、陸軍の部隊がですよ、天皇の大権である、それを侵して、私に部隊を動かしたと。しかも、第2に、自分が一番信頼している重臣達を殺害したと。最も信頼する老臣たちを殺傷することは、真綿で我が首を絞めるに等しいと。ですから、自ら暴徒と呼んでいるんですね。暴徒の鎮定に当たると。こういう意思を示している。自ら近衛師団を率いてという言い方をしていた資料もありますけれども、ここでは自ら暴徒鎮定にあたると。こういう意思を示したと。こういう序説がなされている。ただ、よく見ていきますと、いろいろなことがありまして、侍従武官長の本庄繁、この侍従武官長を当日16日だけで、14回、確か呼び出しているんです。それから3日間で41回呼び出している。それで鎮定は未だかと。はやく鎮定せよという督促を行うんですね。このことで陸軍に対する不信感の強さ。もう1つは、侍従武官長の本庄繁に対する不信感が非常に強いんだということをあらためて感じました。この人は、前任の職は関東軍司令官だったんですね。関東軍司令官として満州事変を遂行した人間です。これが陛下の側に、昭和天皇の側に仕えて侍従武官長だと。このあたりが、この天皇の、悲劇的なところですね」
島田キャスター
「その2人の関係といいますか、武官長は、天皇陛下の気持ちを汲んで何かをしたのでしょうか?」
秦氏
「本庄は、侍従武官という天皇の側で仕える人なので、のちの阿南陸軍大臣も大佐の時に侍従武官をやっているんですけれども。それで、平民というより文官の侍従というのもいるわけですね。これはトップが侍従長」
反町キャスター
「今回の鈴木貫太郎さんですよね。あっ、侍従長だ」
秦氏
「侍従長ですね。ところが、この時、侍従長が殺されたでしょう。それから、天皇の最高の政治顧問である内大臣の斎藤実。これも殺されましたね」
反町キャスター
「貫太郎さんは、重傷です」
島田キャスター
「後に一命を取り止めます」
秦氏
「そう重傷ですね。ですから、側に人がいなくなっちゃうんですよ。そうすると、もう相談相手は本庄しかいなくなっちゃったという感じでね。それから、もう1つは陸軍とのパイプ役ですね。これも本庄しかパイプがないわけで…」
反町キャスター
「ただ、本庄侍従武官長が先ほどの山内さんの話だと、言葉悪いかな、きちんと信頼できる人なのかどうか。ここの部分を疑問に感じたのですが、本庄侍従武官長はどういう人物だったのですか?」
秦氏
「満州事変で天皇大権を侵した人でしょう。事もあろうに、その人を侍従武官長に持ってくるなんて、人を愚弄するなという人事ですよね。だから、それは、天皇は非常に不愉快だったと思いますけれども。軍が持ってくるもの、それを受け入れる以外に方法がないと。それほど軍の力が満州事変以降は強くなっていたということですから、最初から本庄との関係は良くないうえに、本庄も負けていないですよ。愚昧な天皇だと見ていたようですね。なぜそうかと言いますと、本庄は終戦の1か月後に自決したのですが、その時に二・二六事件の時の精細な日記を残して置いてあるんです。普通なら処分してから自決しますよね。その残した意味は、かくの如き、昭和天皇のふさわしくない行動を私が身を挺して防いだのだと。これを後世の人にわかってもらいたいと」
山内教授
「天皇が間違っていて自分が正しいというのは当時、陸軍の天皇をないがしろにする風潮、陸軍の内部にあった下剋上的な雰囲気。要するに、統制が乱れきっていく。そういうことを全体として考えていく中で出てくる話です。つまり、天皇にさえもきちんとした尊敬心、あるいは忠義の心も持たなくなるというような中で、いや、自分の立場の方が正しいと。天皇が間違っているのではないかというようなことが、自分の確信としてあったわけ。だけど、それは言葉に出しては言えません、いくら何でも。だから、彼なりに自決の責任をとったけれども、自分の証言として歴史に残したかったと。ただし、後世の日本は変わっちゃって、これは現在、本庄と昭和天皇、どちらが基本的に正しい判断をしたかというと、昭和天皇の方だということがわかってきている。それが今回の実録でも両方を比較すれば、本庄武官長は、相当これは酷いということがわかってきたのではないですか」
反町キャスター
「二・二六事件以降は、周りを軍部の皇道派と言われるような人達に囲まれて、その実態、実情を実感された陛下は、二・二六以降、軍部との距離感というのを、どう保とうとしたのか。それはどう感じますか?」
山内教授
「二・二六事件は、皇道派がいろいろ画策したにもかかわらず、これによって皇道派が敗れるんです。それを一番利用して果実を得たのは統制派ということになって、この流れの結局、トップに登りつめていくのが、東条英機ということになっていく構図になる。ですから、天皇は東条英機とか、後に参謀総長になる杉山元、こういう人物達との関係というもので、これから進んでいくことになるわけ」
反町キャスター
「そうすると、杉山参謀総長と、東条英機さんと、陛下は皇道派に敵対する勢力として、最初は信任が厚かった。こういう理解でいいのですか?」
山内教授
「その面というのは現象的にはあります。あるのではないでしょうかね。東条に関して言えば。天皇に対して、天皇の言うことについて、非常に職務的に、官僚として従うというところを見せていると」
秦氏
「切れ者ですよ、東条というのはね」

開戦直前 軍部との対立
島田キャスター
「昭和16年7月30日の昭和天皇と参謀総長とのやりとりが書かかれていますが、秦さんはここに注目されたということですが」
秦氏
「7月2日に御前会議で日本の今後の国策方針が一応決まったわけです。中身と言いますと、機会があれば北にも行く。北にも行くということは満州国からシベリアに打って出るという対ソ戦争ですね。それから南の方、南方資源地帯にも進出していくんだ。両方行くような感じで、人によってどっちが重点かというのは議論しても結局収まらないものですから、両論併記みたいにして結局両方やるという感じになっちゃったんです。それでまず関特演、つまり、関東軍特殊演習という名目で満州に大軍を送り込んだんです。これは6月22日にドイツがソ連に攻め込んだわけですけれど、ドイツはちょうど前の年に日独伊三国(軍事)同盟を結んでいますから、その誼を持ってシベリアから打って出て、挟み撃ちにしたいということで督促してきたわけです。それに対して出るかどうかということで青柿論と熟し論というのが出まして、青柿というのは少々まだ柿が青くても叩き落とす。熟し論は、熟してぽっと落ちそうなところに打って出れば楽ですよね。ずっと向こうまで行けますからね。そのタイミングをいつにするかということで、動員をしながら様子を見ていたわけですね。結局、極東ソ連軍が関東軍の兵力より多いんです。これがヨーロッパ戦線に馳せ参じるであろうと。そこが攻め込むチャンスだと言うことで、どのぐらい西送されるだろうかということを見ていたわけです。ところが、昭和天皇はもともと反対ですよ、シベリアに打って出るということに。ですから、動員をやめればいいのではないかと。どんどん秘密動員で満州に兵力が集まっている。そういう途中ですからね。それが全般のところですね。それに対して参謀総長が、これは動員を続けてソ連・シベリアに攻め込むという体制を続けるべきでありますというような奉答があった。これが前半。後半は、南仏印進駐、7月2日にもう決まっていたんですよ。南部仏印に行くということは。それをやった結果、経済的圧迫とありますが、これは石油をストップされると。当時8割の石油をアメリカから輸入していましたから、これをストップされたらどうにもならないわけです。そうなると、否応なしにアメリカとの戦争を覚悟して、南方石油地帯の石油を取りに行くということになります。それでこういうことになったのは、どういうことかと。お前達は大丈夫だと言っていたじゃないかと言いますと、参謀総長はこういうふうにアメリカから報復を受けるということはわかっていましたと。予期していたことでありますと。天皇は怒りますよね。危険を犯してと言いますか、それを覚悟して南部仏印に行くとお前は言っていないじゃないか、嘘をついたのかということですよね、ところが、これには裏の裏がありまして、海軍の中にもこの頃、対米戦の強硬派が出てきました。石川信吾という大佐がそうですが、上の方がグラグラしてアメリカと戦争しても勝てないのではないかということで、腰が定まらないと。思い切りを出すためには、ここでアメリカに石油をストップしてもらえれば、彼らの覚悟は決まるだろうと。そこで彼らは大丈夫だよと、南仏印に戦争に行っても報復は受けないよと言って、実際アメリカは予告していたんですね。それをやれば止めるぞと言っていたにもかかわらず、決してそういうことにはならない、大丈夫だと。陸軍もそうやって説き伏せたわけです。ですから、ここでは参謀総長は予期していたと言っているのですが、そのあたりは本当かどうかはわかりませんね」
山内教授
「杉山参謀総長のいい加減さ。これで本当に日本は戦争に入っていくという、覚悟がなければ準備ももちろんない。大局観、戦略観がない。大局観の戦略がない陸軍の最高責任者の参謀総長というのはあり得ないです。それが1つ。帝国国策遂行要領というものは、日本が外交でいくのか、外交がやむを得ない時には、戦争軍事で解決すると。これを決めていくプロセスの話です。最終的には昭和16年9月6日に帝国国策遂行要領が可決されるわけですね。そこへいく道筋の話だけれど、要するに、当時の陸軍、海軍もそうですが、非常に自分に都合のいい、自分の主観的な、こうなるに違いないと、自分がこう思っていればソ連はこう出る、あるいはアメリカはこう出る、出ない。それは全部楽観的に主観的に考えているわけ。だけど、もし南方でそれをやればソ連軍に対する備えはどうかということを、別なところで天皇が尋ねるということが実録に出てきます。その時に、実にいい加減な答えを出しているんですね。それが現在の季節だと出てこないと言うわけだけれども、日露戦争は冬にやっているんです。だから、冬だから出てこないという主観的な考え方というもの。それから、何よりも国際情勢に対する勘所が昭和天皇の方が鋭いんですよ。良識のある合理的な発想をする人間であれば、国際関係をリアリズムで見ることができます。ところが、当時の陸海軍、陸軍は主観的に分析することはあっても、客観的に決めることはできない。たとえば、参謀本部には、作戦部があるのですが、この作戦部は作戦立案するエリートの牙城ですけれどね。情報部が別にあるのだけど、情報部がせっかく苦労して集めてきた情報等も作戦部の方に回しても全然使わない。それは自分達が机上で立てている都合の良い理屈。これに国際関係の分析やいろいろなドイツの謀略について言っても耳を傾けない。これと同じことが天皇との間に行われているわけですね」
島田キャスター
「視聴者からの質問です。『昭和天皇は軍部にストレートに抗えなかったのか、そこのところがどうしてもよくわからない。大元帥であるならば直接命令ができたと思われるのですが、どうなのですか?』とのことですが」
秦氏
「国務と統帥。つまり、軍隊指揮権、これは日本の明治憲法では別物ですよ。国務大臣、総理大臣とは言え、統帥部の出す命令に干渉できないわけです。統帥権の独立ですね。統帥権を持っている人は誰かと言うと天皇ですね。すなわち、陸海軍の総司令官でもあるわけです。国務の場合は、政治的責任は国務大臣が負う。それから、天皇がこうしろ、ああしろと例え言っても大臣の副書がないと法的効果は生じない。だから、ちゃんとそこに擁護装置があるわけですね、内閣にとっての。ところが、統帥部の方はそこがはっきりしないんですね。つまり、参謀総長や軍令部総長の権限がどうかということが、はっきりしないわけ。一応天皇の幕僚長ということになっているのですが、天皇の命令を起案するのは陸軍と海軍です。それを持って行って、天皇が判子を押して正式な天皇の命令になるわけです。天皇の周辺にはそういう作業をやるスタッフがいないわけですね。ですから、出てくるのを待って、(天皇は)気に入らないとちょっと横に置いておく。しかし、それでは(軍部も)諦めませんね」

太平洋戦争開戦への思い
島田キャスター
「昭和16年12月1日の御前会議での原嘉道枢密院議長の発言ですが、『我が国の存立を脅かされ、明治天皇の御事蹟をも全く失うことになっては、これ以上、手を尽くしても無駄であるため、先の御前会議決定のとおり開戦も已むを得ないと考える。なお今回は長期戦となることは已むを得ないが、なるべく早期に戦争を終結することを考えておく必要がある』と。これは、昭和天皇の意思も反映されていると考えてよろしいのでしょうか?」
秦氏
「枢密院議長は、天皇は御前会議では発言しないという慣例になっていますので、それに代わって天皇の言いたいことを伝えるという立場ですね」
反町キャスター
「早期に終結することを考えておく必要がある。それを軍部はどう受け止めたのですか?」
山内教授
「基本的にはまだ外交努力もしよう、外交がダメなら戦争だという立場です、一応建前では。そういうことを枢密院議長が発言したということになっていくのだけれど、その時に踏みとめられる考え、立場、まさに、戦争のことです事実上の。その時にここで天皇がひと言発言をするんですね。普通、御前会議では、天皇は発言しないということになっている。それはこういう重要事項について、統帥部、すなわち軍令部総長と参謀総長が一言も発言しないんですね、これについては。枢密院議長がこのような大事なことを言ったのにもかかわらず、それはいったい何だ。そこで天皇は少し怒った、それはどういうわけなのか、それについて説明を求めたんです。一瞬、皆が沈黙するのですが、ここでも杉山らしいのですが、最初に永野修身軍令部総長が口を開いて、自分は全く枢密院議長と同じ考えだと。最初に軍令部総長の報告というのがあって、そこで述べたから同じだと考えたので、冒頭に話をしたから2度繰り返さないつもりで発言しなかったと。杉山はどこかずるいんですね。永野のあとになって、自分も全く軍令部総長と海軍の作戦の担当者と同じ考えだと言って奉答した。こういうところは、私からすると杉山の嫌なところというか、おかしなところですよ。天皇はそういう点でそうかとしか言いようがないです。そこまで言って、この2人を、最後まで軍令部総長と参謀総長はダメだなという、嫌な印象を持ったと思いますね」
島田キャスター
「『よもの海 みなはらからと 思ふ世に なと波風の たちさわくらむ』と、明治天皇の御製を引用されたということですが」
秦氏
「日米開戦の方向を決した原案を御前会議で採決したあとに昭和天皇が懐から予め準備しておかれたのでしょうね。明治天皇の詩を2度繰り返して詠み上げられた」
反町キャスター
「どういう意味ですか?」
秦氏
「世界中兄弟だと思っているのにどうしてこう波風があちこちで立ち騒ぐのだろうということで、日露戦争が始まる時に明治天皇が読まれた詩ですね。かなり有名ですよ。列席者は皆知っていたと思います。御前会議の筆記役は武藤軍務局長ですね。それで武藤軍務局長は帰ってくるなり、部下達に陛下の意図は平和にあらせられるぞと、皆に怒鳴るのです。ところが、巻き返しが起こる。部下から天皇陛下を啓蒙してくださいと」
反町キャスター
「詠まれた陛下の心をどう感じますか?」
山内教授
「英米との協調論者ですね。太平洋戦争となると、これはイギリスとアメリカとの戦いということになりますが、そうなった時に、皇太子時代にヨーロッパ訪問、特にイギリスにおいて立憲君主としてのあり方を学んだ、あるいは国民と君子との関係などについて考えることもあった人。日英同盟という日本の安全保障を支えてきた。非常に重要なつながりのあったイギリス。アングロサクソン系としてアメリカ。これとの戦いというのは昭和天皇の意思ではなかったと思うんです。ですから、明治天皇の苦しみ。昭和天皇は明治天皇の…もちろん当然祖父ですから、尊敬していたわけですね。肉親としてだけではなくて、統治者として、君主として。ですから、折りに触れて、明治天皇を引きあいに出しているところに出会えます。そう言う点で平和主義者としての自分の意思を確認しておきたかったと。この時の気持ちは、開戦の時の詔書というのがあります。これは昭和16年の12月10日。そこに戦争は自分の意思ではないと、イギリスには随分良いことをしてもらった、自分としては。皇太子と訪問した時以来。明治天皇以来、イギリスとの関係は悪くなかった。開戦の詔書に戦争は自分の意思ではないと言って『豈に朕が志ならんや』と有名な説を入れた。これは自分の気持ちではないということを、そのぐらい平和主義者としての自分というものが2か所でこのように歴史に残った。これは記録にとどめる結果となったということです。実録はそれを忠実にまたとどめたということですね」