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2014年8月15日(金)
『特攻』の時代と運命 元隊員が語る最期の姿

ゲスト

板津忠正
元陸軍特攻隊員 知覧特攻平和会館初代館長
佐藤守
元航空自衛隊空将 軍事評論家

国のために命を捧げた若者達 あの特攻とは何だったのか
佐々木キャスター
「最初の航空特攻、神風特攻隊を編成したのが第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎中将でした。1944年10月20日、大西中将は神風特攻隊が初出撃する前日に隊員の前でこのような訓示を述べています。『この体当たり攻撃隊を神風特別攻撃隊と命名し、四隊をそれぞれ敷島、大和、朝日、山桜と呼ぶ。日本はまさに危機である。この危機を救いうるものは、大臣でも大将でも軍令部総長でもない。もちろん、自分のような長官でもない。それは諸子の如き純真で気力に満ちた若い人々のみである。したがって、自分は一億国民に代わって、皆にお願いする。どうか成功を祈る』と。特別攻撃隊とは日本の陸軍、海軍が敵に体当たりする戦法のために特別に編成した部隊のことで、太平洋戦争では戦闘機で行う航空特攻と潜航艇や人間魚雷を行う海上特攻、稀に陸上特攻もありまして、あわせておよそ6000名の方が亡くなっています。今回は板津さんも参加されていた、この航空特攻について詳しく見ていきたいと思うんですけど、いつ頃から実戦に投入されたのか。この太平洋戦争の流れの中で経緯を見ていきたいと思います。1941年12月の真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦して最初は戦果を挙げましたが、1942年6月5日のミッドウェー海戦の敗北を機にガダルカナル島戦、サイパンの戦いなどで敗北して、米軍に奪還されてしまいます。戦況はますます悪化していきます。そのような中、1944年10月のレイテ島沖海戦で、神風特攻隊が最初の特攻攻撃を開始して、敵艦の撃沈に成功して、米国艦隊を一時撤退させます。神風特攻作戦はどのような経緯で実戦に実行されていくことのなったのでしょうか?」
佐藤氏
「ミッドウェー海戦が非常に大きな引き金になっていると思うんです。と言うのはミッドウェー作戦というのは大敗を喫して虎の子の航空母艦4隻と熟練したパイロットを多数、そこで失っています。それに加えて、アメリカの方は、それで自信を持って次々と新型の兵器を投入してくる。戦闘機においてはF‐6ヘルキャットですね、こういうのが出てきた。ミッドウェー作戦で(日本の)戦力が落ちたと。これを海軍は公表しなかったものですから、第一線は随分苦労をしていくんです。それで、レイテ沖に飛びますけれども、あそこを米軍に奪還されてしまうと、マッカーサーが戻ってきて、奪還されてしまうと、いわゆるシーレーン、南方からの資源の道が閉ざされてしまう。南方にまだ帝国陸軍がたくさんいたわけですから、その資源が閉ざされてしまうと、本土の方も窮乏すると。従って、何としてでもこのレイテ作戦は遅らせるか、あるいはマッカーサーを阻止しなければならないと。これは海軍の最大の使命になったわけですね。そのために、そこでやるためには先ほど言いましたように、戦力がすごく落ちてきている。その頃から、昭和18年の最初頃から、陸軍ではB-17 には対抗できないと。豆鉄砲では撃てない。それで体当たりして落としたりですね、陸軍の高田少佐以下は、4機引き連れて、自ら敵の軍艦に体当たりして沈めている。こういうのがあちらこちらで出ていたわけです。海軍の方も、まさにそれと同じように、戦力と技術力と破壊力が落ちていたものですから、大西(瀧治郎)さんは、そこで空母を使えないようにする。敵の航空作戦、つまり、制空権を一時的にストップをして、レイテに上がらせないようにすると。いわゆる焼亡作戦ですが。これをきっかけとして、そこで海軍は特攻に踏み切ったと。私はそう見ています」
反町キャスター
「たとえば、兵士がその場の判断で、自らの判断で突入していく。これはそれ以前にいろいろあったと聞いています」
佐藤氏
「そうです」
反町キャスター
「ただ、死を覚悟ではなくて死を前提とした作戦。行くということは死ぬんだということが前提で、作戦を立て、立案をするというのは、これは当時の日本の軍部において逡巡というか、ためらいというのはなかった?」
佐藤氏
「もちろん、逡巡しています。『統率の外道』ですから。それは外道です。大西さんもはっきり言っています。そういうことはやるべきではないです」
反町キャスター
「大西さんというのは、もともとの特攻の作戦を…」
佐藤氏
「大西中将にとっては外道です。皆知っていたんです。海軍軍令部長も、陸軍だって、皆知っているんです。しかし、それをやらざるを得ないところに追い込まれたんですね。では誰が、例えが悪いですが、猫の首に鈴を付けるか。上は絶対にそんな命令はしたくはないんです。当然でしょう。私が特攻を命じてやらせたんだと言う話は、これは国民から反発を食らいます。しかし、下から盛り上がってくる。結果として自ら突っ込んでいったものは、これは義烈ですよね、犠死ですよね。忠臣蔵みたいなものです。そういうものに対して、誰かがやらなければいけないんだけれども、適格な人がいない。現地はどんどん叩かれる。通常攻撃に行っても、たとえば、一式戦闘機でガダルカナル攻撃に行っても、20機行って1機しか帰ってこないと。特攻とほとんど変わらないわけです。今日命令されたら、俺は死ぬと言いながら、写真を破り捨てて行っていたのが現状ですよ。昭和18年から19年。だから、そういう状況において誰かが火を点けなければいけなかった。非常に表現は悪いですけれども。それのスケープゴートとして、私は、大西さんが急遽あそこで発令されたのではないかなと、私は見ているんですけれどもね」

特攻はなぜ生まれたのか 指揮官大西中将の思いとは
反町キャスター
「だんだん戦争が後半にいくと、敵艦に届くまでもなく、途中で撃ち落とされたものがほとんどだったのではないですか」
佐藤氏
「いやいや、皆さん、マスコミに騙されていますけれど、映像で。アメリカしか映像はないわけですよ。日本にありませんから。戦後に没収されて。従って、日本がばたばた落とされるのはどこでもやるわけですよ。しかし、トータルで見た特攻作戦は、相当な戦果を挙げたんですよ。アメリカもこれ以上やられたら大変だということです。だから、そこまでいっていたんだけれど、日本としても行ったら帰ってこない、情報もとれない。しかし、結果として、アメリカ艦隊は引き上げようかというぐらい、ニミッツ(提督)がいったん戦力を立て直そうかと。それは、飛行機、物質的なものもあるけれども、隊員が狂っちゃったんです、ほとんどが。恐怖感で。戦闘にならないわけです。陸上戦闘においても万歳突撃というのが、日本兵は竹刀槍で行くわけですから。あんなのはアメリカの文化にないわけですよ。そういうのは、実はアメリカのかわいらしい自分の息子達が日本軍と戦って、こんな殺され方をするということはアメリカでは極秘だったわけですから。その延長上として、特攻隊は効果的だとは絶対に言わなかった。戦後の作戦の成果でも、いろんな海軍の参謀を集めてやった結果、二十数%の確率が出ています。通常爆撃でいったら、1%か2%しか確率がないのに、二十何%、信じられない数字、桁が違う戦果を挙げているんです。これは戦後も、日本はしっかり戦訓としてやらなければいけないのに全部やっていませんから。防衛検証などをいろいろやっていますけれども、そういうものはアピールされていませんが、おそれ多いけれども、英霊達は決して無駄ではなかったと私は思う」

元特攻隊員が語る 沖縄特攻作戦の真実
佐々木キャスター
「最初の神風特攻隊が出撃したレイテ島沖海戦から戦況はさらに悪化していきます。硫黄島の戦いを経て連合軍の沖縄上陸を阻止するための沖縄戦に突入していきます。ここで展開されたのが、沖縄特攻作戦です。この沖縄特攻作戦について、陸軍、海軍合同で1945年4月から終戦直前の7月まで行われまして、この作戦で全特攻死者数の半数を超える3067人が戦死したということになります」
反町キャスター
「板津さん、沖縄特攻の拠点であった知覧に行かれたわけですね。そもそも特攻隊員になるためにパイロットになったわけではないのではないですか。どういう経緯で特攻隊員になったのですか?」
板津氏
「(昭和)19年の終わり頃までは、私達は自ら特攻隊員になるなんて夢にも感じていなかったんです、当時は。それが、海軍が主力としてどんどん突入するということで、翌年になって、陸軍も3月頃から、徐々に突入が始まったんですね。そして、私達の編成が5月だったのですが、2月頃から突入の訓練を始めて、特攻に編成をされたのが、5月の下旬だったんですね」
反町キャスター
「板津さんは、特攻隊員になることを自分から志願したのですか、それともなれと言われたのですか?」
板津氏
「その時に、全員に特攻に行きたい人と言ったら、全員が手を挙げた。全員」
佐々木キャスター
「それはどういう思いで、皆さん、手を挙げられたのですか?」
板津氏
「戦況をずっと見ていると、自分達も初めから船舶目がけてやろうという気持ちで訓練をしていたのですが、そういう状況に追い込まれたら、特攻をどんどん海軍がやり出したということで、これは陸軍もやらないと、自然にそういう気持ちになっていったんだよね」
反町キャスター
「全員手を挙げたのですか?」
板津氏
「ええ、全員です」
反町キャスター
「手を挙げなかった人はいないのですか。本当に?」
板津氏
「ええ、挙げなかったのは、私達には1人もいませんでした」

特攻基地 知覧の生活
反町キャスター
「加古川で希望するものと言った時、全員手を挙げた。今度知覧に移動しました。知覧というのは、つまり、出撃基地ですよ。ここから飛び立つ時には、突っ込んでいくことになるわけではないですか?」
板津氏
「加古川で編成されて、5月になって知覧に行って、知覧では何日もいないです。2日ぐらいしか」
反町キャスター
「すぐ出撃なのですか?」
板津氏
「そうです」
反町キャスター
「加古川で、いわゆる体当たりの訓練をして、その後、知覧に行ったら、すぐ数日で出撃?」
板津氏
「私達の場合は2日だけいただけです、知覧には。ほとんどの方が知覧に行ったら、満州で編成をされ、あるいは中国で編成され、それから国内から編成され、そうして、満州からと1週間も10日もかかって来ますね。来て、知覧へ移ったら、知覧にまず1週間おるということは絶対あり得ない。とにかく特攻隊全員がこれ以上の名誉はないと。だから、皆、そういう気持ちが一般の方にはそんな考えられないですが、私達戦闘機に乗りとしては、もともと戦闘機乗りになって、そういう志願で行ったのは、飛行機乗りには、大空を飛ぶということが、これ以上の名誉がないという気持ちが多分ににあったんですよ」
反町キャスター
「死ぬのは怖くなかったのですか?」
板津氏
「操縦士になることは、命を初めから捨てていますから」
佐藤氏
「現在みたいに安全が確立され、安全の中でやっているのとは違うんです、あの頃は。戦闘機だって、何だって、とにかくいつ落ちてもおかしくないような整備力も何もいろんな問題がある。そういう中で、戦闘機乗り、あるいはパイロットになるということは大変な誉だったわけですよ。その感覚はわからないと思いますよ」
板津氏
「憧れ。なかなかなれないですよ」
反町キャスター
「それはわかりますが、予科練とか何か、いろんなところでパイロットになることは大変。ただ、それが命と引き換えだという、しかも、パイロットになることではなくて、特攻隊員になるということは死ぬということですよ」
板津氏
「ええ、死ぬということです」
反町キャスター
「死ぬということについては、そこに迷いはなかったのですか?」
板津氏
「全然ない」
反町キャスター
「ごめんなさい。板津さんはなかったかもしれないけれども、他の周りの仲間は?」
板津氏
「他の者も特攻に行きたい人と言ったら、クッと、全員手を挙げていますから」
反町キャスター
「ごめんなさい、そこのところですよ。つまり、周りが皆手を挙げるから、やばいといって手を挙げるような人はいないのですか?」
板津氏
「フィリピンで特攻が始まって、そして、何回か出ているでしょう。それを情報で聞いていると、自分達もやらなければいかんという、そういう気持ちを当然、空中勤務者なら、戦闘機乗りなら、持ちますからね」
反町キャスター
「出撃した仲間を見送ることもありましたでしょう。知覧から」
板津氏
「見送りますよ」
反町キャスター
「どういう気持ちで見送ったのですか?たとえば、板津さんの前に飛び立っていく特攻隊を」
板津氏
「それはしっかりやってこいよという」
反町キャスター
「しっかりやってこいよと言っても、帰ってきませんよね」
板津氏
「帰ってきません。一般の方には考えられないような気持ちを、空中勤務者は持っていますから。本当に戦闘機乗りというのは、命が惜しいものが戦闘機乗りになること自体がおかしいでしょう、普通」

彼らの覚悟から何を学ぶべきか
佐々木キャスター
「当時の知覧での若き特攻隊員の表情を捉えた写真の1枚です。1945年5月26日、出撃準備する特攻機の周りにいた子犬を、特攻隊員達が満面の笑顔でかわいがっている写真ですよね。これだけを見ると、非常に穏やかな時間のように思えるのですが、この瞬間、実は彼らの出撃の2時間前だったそうです。こうした時の特攻員達の精神状況というのは、どのように推察されますか。笑顔で写っているという」
佐藤氏
「当然のことではないですか。自分のミッションですから。自分の使命ですから。使命が与えられて、自分が突っ込むといったら、それで成果を挙げるのだということしかないですよ。戦争時代のパイロットは皆そうですよ」
佐々木キャスター
「この時は逡巡とか、ためらいとか、恐怖というのは消えているものですか?」
佐藤氏
「そういうのはないと思いますよ。おそらく理解していただけないでしょうけどもね。私らだって戦闘機に飛び乗ってスクランブルで上がっていく時に、向こうの爆撃機、昔は機関砲を向けられたのですから。そのぐらいの覚悟をして行っていました。しかし、最初に、お前がやられた時に、2番機はどうするかと。いや、刑法何条で、それは緊急避難なんてできませんなんて言われたら、バカじゃないか貴様という話ですから。必ず仇討ちをするという覚悟で、ずっときていましたよ。現在だってそうですよ、南西方面へ飛び上がっていくのは。それでなくとも、先ほど、板津さんがおっしゃったように戦闘機に乗るというのは上がってしまったら誰も助けてくれないんですよ。脚をあげますね、エンジンをフルパワーにして脚を上げます、ガンと上がる。そうしたら、目的に向かって行かないと、途中でエンジンがおかしくなったら、すいません、エンジンおかしいのですが、誰か呼んでくださいなんてできないんですよ。上空は全て自分です。長官がいようと、大臣がいようと、何の役にも立たない。全部自力でやる。その覚悟は一般の人には理解できないと思いますよ」
反町キャスター
「板津さん、この写真を見てどうですか?」
板津氏
「一番右の、一番前の(人は)私の家から2kmしか離れていないんです。愛知県の扶桑町というところで、その方の表情が豊かでしょう。表情が豊かだし、実を言うと、この5人の少年兵は満州で編成されたんです。満州で編成されて、前進、前進して、知覧じゃないです。隣の万世の基地から飛び立った方々ですが、一番右の方も18歳、子犬を抱いた人17歳、その後ろの方も17歳。2人とも17歳。後の方は18歳ですね。そういう方でありながら、このお写真は、こういうふうに強制的にさせられた顔であると、そういうふうに言われるんですね。自分達がそういうふうに強制的に笑わされた方がこんな顔に写るかどうか、写真にね。だから、知覧へ来られた人は、知覧平和会館に大きく伸ばしてあります。それから、来る方々が強制的に笑わされた顔であるというふうに言われるので、このようににこやかに写るかどうかということは、自分で笑ってみればわかるはずだと。強制的に笑う顔と、ごく自然に心の底から笑った顔とは明らかにわかりますよね。この5人の少年兵は満州で編成されて、来て、この写された2日後に亡くなっているわけですね」
反町キャスター
「全員がこういう笑顔を浮かべられるような気持ちだったのかどうか」
板津氏
「その通りです。私達は疑問に全然思ったこともないです」

特攻隊員の遺書 彼らが家族に伝えたかったこととは
佐々木キャスター
「根津さんは、終戦後、遺族のところをまわられて、たくさん遺影や遺書を集められたのですけが、今日はその中の一通を、一部抜粋で読んでいただきたいと思うのですが、よろしいでしょうか」
板津氏
「母上、あの6歳の時に、育ててくだされた母上に対してお母さんと呼ばなかった、ノブオ、母上はよほど寂しかったでしょう。ふと呼ぼうと思いましたけれども、面と向かっては、恥ずかしいようで言えませんでした。今こそ大声で呼ばせていただきます。お母さん、お母さん、お母さん、人生50年、自分は20歳まで生きました。残りの30年は、父、母上に半分づつ差し上げます。同封のお金は母上が好きなものや、好きなタバコ代にでも使ってください。父、母上様、では、行きます。ノブオは、莞爾として敵艦へ、必殺へ行きます」
と、このような毛筆で書いてあるんです。毛筆で知覧には展示してありますが、1階の壁面だけではなくて、この立体的なケースの中にも、自分が直接書いた気持ちが、それに載せられていますね」
反町キャスター
「出発前に家族と会えたかどうかは?」
板津氏
「それはですね、ほとんど、会っていません。だいたい自分が特攻隊になったということは言わないもん」
佐々木キャスター
「家族には言わないものなんですか。
板津氏
「絶対言わないですよ。親に言えば心配するではないですか。即、死がある。先ほども申し上げたように、特攻隊になったら、必ず死があるでしょう。それを親御さんにもしも伝えたとしたら、親は絶対悲しむではないですか。だから、初めから隊員も、この若い方達も親には全然特攻隊になったことは言いません」

生き残ったものの苦悩とは
佐々木キャスター
「もう1枚の写真があります。この写真は板津さんの部隊12人が出撃の直前に今生の別れを、覚悟を固める儀式、いわゆる水杯をかわす場面を写したものです」
板津氏
「小っちゃいのが、私です」
佐々木キャスター
「板津さん以外に、この12人の中で、生還した特攻隊員の方は、何人いるのですか?」
板津氏
「3人います」
佐々木キャスター
「9人の方が亡くなられた」
板津氏
「だから、私は毎年これまで、5月3日、知覧で慰霊祭があるんですね。慰霊祭が5月3日にあって、慰霊祭に来る人はほとんどいません。生きた人は、死んだ人の前で手をあわせられない。私だけは全国をまわって、何とか後世に残してやらなければ亡くなった人達が忘れ去られると。絶対、風化していくという気持ちがあったので、自分で自ら勤め先を辞めて、日本中を回り歩いて、資料を少しでも、後世に残そうと思って、集め回ったんですね。だから、特攻で、生きた人が、5月3日の慰霊祭には、最初に来たのは3人来ただけで、あとは10年ぐらい前から、私1人です。誰も来ないです」
反町キャスター
「他3名はその12人の部隊?」
板津氏
「全身火傷の人で、柴田さんという方とね」
反町キャスター
「その方は、要するに、途中でエンジンが火を噴いたと」
板津氏
「その方は全身火傷、喜界島のもうちょっと南、黒島よ。黒島で、不時着して、炎上して全身火傷した。柴田さんという方が全身火傷で、でも、命を取り止めて、5月3日、慰霊祭にはいつも参列。柴田さんは」
反町キャスター
「もう1人の方は?」
板津氏
「もう1人は、別に五体満足で、少年飛行兵の方でしたけれども」
反町キャスター
「その方もエンジントラブルですか?」
板津氏
「いや、あのね、実際問題、私にそういう情報が全部入るわけではないんですよ。ほとんど、こういうふうな状況だという、友達になったところで、後々、終戦後も話することはあったでしょうけれど、その戦争中にそういうことは(ない)」
反町キャスター
「板津さんの場合にはどういう状況で、途中で不時着という形になったのですか?」
板津氏
「私の場合、滑油が漏れておったんでしょうね、おそらく」
反町キャスター
「オイル漏れですか」
板津氏
「ええ、オイル漏れ。オイルが漏れて結局海岸へ、かろうじて到着して、徳之島。海岸で不時着して、デーンと不時着して、ひっくり返ったけれども、バーンとここ(腕)で受けてケガもなく、それから、他の元気な者は行ったでしょう。行っているものだから、知覧へ戻るのに地元の島民に頼んで、頼んで、小舟を乗り継いで、乗り継いで知覧へ来て、6月6日に、知覧へ到着できて、はよう出してくれ、はよう出してくれと、頼んだけれど、待て、待てと。待つ気持ちになれない。1日もはやく行きたいばっかり。そういう気持ちに」
反町キャスター
「それはどういう気持ちですか?」
板津氏
「それは他の者が亡くなっている。突っ込んだら、私達は戦闘乗りだから1人でしょう。1人ずつ編隊を組んで行って、突っ込んだ場合は当時、現在でもそうでしょうけど、靖国神社へお祀りされるということですから靖国神社の大鳥居のところで、そこで待とうと。そういう口約束をしていたんです。口約束をして、そこで集まった時に中へ入ろうということを約束したんですね」

仲間の遺品を求めて全国行脚 板津忠正氏の戦後とは
佐々木キャスター
「特攻作戦に参加をした陸軍の戦死者1036人全員の遺影を集められたわけですよね。この行動、何が駆り立てたのですか?何故そういう行動をとられたのですか?」
板津氏
「それというのは、自分が当然死ななければならないのに1人だけが生きていることに耐えられないと言って自殺する。特攻隊に来た人がかなり自殺をしているんです。私は自殺する勇気がなかったんです、正直言って。だから、28年間経ってから、アメリカ軍が来ていましたし、駐留軍が来ている以上もしも黙ってやっていたら、拉致をされる可能性があるので、私はその終戦になって28年間は、名古屋の近辺の亡くなった人達の家に行って、般若心経を唱えて、私が特攻の真実を遺族の方にお話をして、仏様に手をあわせてまわっていたんです。まわっているうちに、アメリカ軍が帰り出して、昭和50年ぐらいから日本中を車で、3年で10万kmぐらい走った」
反町キャスター
「何が駆り立てたのですか?」
板津氏
「駆り立てたのは自分が死なかった(仲間に対しての)申し訳なさ」
佐藤氏
「私は自衛隊の基地で皆さん戦友会が訪ねて来られるんです。たくさんおられるのですが、懇親会をやると皆英霊の前で泣くんです。現在、板津さんがおっしゃったように、『俺みたいな下手なやつが生き残ってしまった、すまん』と言うんですよ。最後に何で皆さんそんなに謝るんですかと。20歳ぐらいで亡くなった方の分も長く生きてください、供養することが努めでしょうと言ったら。それでも俺みたいな下手な、俺みたいなやつが残ってしまったと言うんです。これはほとんど現在の日本人には理解できないのではないですか。生き残ってしまったら、皆ラッキーと言うと思うんですよ。しかし、彼らは生き残ってしまって恥ずかしい、申し訳ないと言うんですよ」
板津氏
「ご遺族の方は知覧の状況を聞きたいと。個人的なことは私も存じ上げませんのでお話できませんが、全般的な特攻隊の当時の状況をそれぞれお知らせし、そういうことを心がけた。ほとんどの方の亡くなった状況はわかりませんものね」

特攻を指揮した指揮官たち その責任のとり方とは
佐々木キャスター
「特攻を指揮した指揮官達が終戦に際してどういう行動をとったのか。大西中将が自決を選んだ心情をどう慮られますか?」
佐藤氏
「最初に大西さんが敷島隊を発進させた時から、自決の心は持っておられたと思います。最後に『どうか成功を祈る』と言っているんです。普通は頼むぞ、俺はあとから行くというのが結構あとに流行ったのですが、大西さんが最初にこれを言われた時に自分は1億国民に代わって皆にお願いする、どうか成功を祈ると。わしも行きたいがわしは指揮官だから行けない。あとで行くとは一言も言っていない。大西さんは心の中に決めていたんだと思うんです。最後に自決された。最後の終戦でバタバタしていた頃に、何とかして戦争を継戦できないのかと言っているわけです。そういうのが広がって、右翼で強硬派だとなっていますが、天皇陛下のご命令が、詔勅が発言されたらパッと切り替わって淡々と腹を切ったんです。その亡くなる前に、私の家内の親父さんが大西さんが危ないぞと言って、南平台の官舎に行っているんです。そうしたら、何人かでお酒を飲んで最期の宴をしたんです。その時に、終戦のあれで幕僚達は飲んでいなかったものだから、お酒を飲んで親父は酔っぱらっちゃってちょっと良い気分だったんですね。これは大丈夫、切ることはないだろうと思って、南平台の官舎を出る時に、これまでと違ったのは玄関の外まで出てきて、頼むぞと言われた。でも、そこで気がつかなきゃいかなかったのに、帰ったら翌朝切られた。介錯はされていませんから、一番苦しい死に方をしているんですよ。だから、それは特攻隊のように良く戦えりと凝縮しているんですよね。そういう責任のとり方と」
佐々木キャスター
「宇垣海軍中将については?」
佐藤氏
「いろいろと見解が分かれるところですが、私ら操縦桿を握った者からすると、操縦桿を握ったことのない指揮官が握っているとわかってどんどん戦地に送り込んで自爆させちゃったわけですよ。最後は彼らと一緒に死にたいわけですよ。だけど、自分は操縦できないわけです。だから、最後にとどめとして自分が行こうとしたのだけれども、8月15日の午前中はバタバタして、飛行機を出せと言ったが、間にあわなくて陛下のご詔勅が発令されてしまった。それで1機ぐらいで行こうとしたのに、海軍も陸軍も皆行きます、長官お供しますということです。遠藤曹長は、ここは私の席ですと言うんだけれど、そこに長官が座っちゃったものだから、長官の膝のうえに曹長が座って、中将閣下の膝のうえに座って、よし一緒に行こうと。当然のことです、当時の日本人は。それが現在の現代人は理解できない」

元特攻隊員が語る 特攻の真実とは
反町キャスター
「特攻のことを、あれは自爆テロであって、戦闘行動としてはおかしいと。そういう評判を聞くとどう感じますか?」
板津氏
「そういう言い方に対し、それにいちいちこれはこうだと言うつもりは毛頭ありません。それをそう評価するのは十人十色で、その当時のことを知ろうともしない。実際死んだことを調べようとせずに無駄死にだったと言うのは、当然貴重な命ですから、そう思う人も中にはいます。だけど、私は特攻隊で亡くなった方は無駄死にだとは思いませんので、後世に残してあげなければいけないと私は思っておるわけです」

国のために命を捧げた若たち 特攻を後世にどう伝えるべきか
反町キャスター
「航空自衛隊のトップでいた時に、隊員と、たとえば、特攻について話されたことがありましたか?」
佐藤氏
「ありました。若い者はちょっと真似ができないぐらい昔の方は勇敢ですねと。よく鹿児島から沖縄に行く時に、飛びながら桜島を見ながら敬礼して飛びました。何十年か前の昔にここを真っすぐ行って、爆弾投げに行ったんだなと言ったら、若いパイロットが、そうですね、現在は航法装置でも何でもありますから、心配なく、飛んで行けます。しかし、当時はコンパスでやって、前近代的な装置で行って、しかも、敵がいつ襲うかはわからない。ここを飛び出して行くのは大変な勇気ですね、英霊に敬礼と。そういう意味で、私らは現在ほとんどパーフェクトな近代化学兵器を持っているけれど、当時若い人達が200時間程度でよく爆弾を抱いて国家のために行けた。それは言葉にならないぐらい、ただひらすら感心しますね」
反町キャスター
「作戦を遂行した指導部に対してはどう思いますか?」
佐藤氏
「それは大失敗ですよ。許せませんよ。空軍というのは飛行機だけではないと。パイロットも整備員も全部、それも航空戦力ですよ。当時3000人パイロットが足りない。アメリカもパイロットが足りないから何万人も養成しているわけです。日本はパイロット養成量が平時のままだったんですよ。兵学校とっても3年以上(かかる)。戦争は終わってしまう。それで急遽1年でやると、大学、専門学生を採った。この点を見ても、海軍のパイロット養成計画はずさん極まりない。航空自衛隊で年間100名近く養成しています。それを満遍なく定年まで管理して、初めて航空戦力が成り立つ。飛行機が何だと、F-35がどうだと言うのはド素人です。大変英霊に失礼だけれど、どさくさでつくられた、やっと飛べる程度になった者を、爆弾を持って行かせる。これは許しがたい」

板津忠正 元陸軍特攻隊員の提言:『万古清風 特攻清風命』
板津氏
「書いてしまってあとで思ったんだけれども、特攻隊にはさほど関係はないです。万古清風というのは一般的な社会で老若男女誰にも同じような心に接しなさいという意味です。若い者が年寄りに対して、年寄りは子供に対して、子供だからと言って注意したりする。しかしながら、どんなに年がいっても若い人から年寄りに対しても同じような気持ちで接しなさいという意味です」
反町キャスター
「特攻隊の方が口ずさんだ詞について」
板津氏
「かなり辞世を書いていますよね。たとえば、『国のため、捨てる命は惜しまれど ただ思わるる国の行く末』『風に散る花の我が身はいとわねど 心にかかる日のもとの国』。特攻隊に行かれる前の人達は、皆日本の国のことを考えながら突入しています。戦後70年も経って、そのように特攻隊が言っている言葉がそのままの状態で日本がずっときているかというと、私自身は引っかかるところがあって、現在でも講演をやる時にそう言われるもので、反省の意味もあって、あとで言葉を皆さんの心の中を少し改正してもらうようにお願いをしている」

佐藤守 元航空自衛隊空将の提言:『霊魂不滅鎮』
佐藤氏
「これは私が築城基地にいました時に、特攻銀河隊が基地から出撃していることを知ったお姉さんが、私の弟はそこから飛び出したそうですけれども、人間として最後に地面を離れたところに何かつくっていただきたいということで、この碑をつくったんです。その時、整備員が松永隊員は私のところへ来てお世話になったと握手をして行ってきますと言っているんですよ。その行ってきますという意味がさっぱりわからなかったけれども、ある程度年をとって仏閣を回るようになって、そうかと。松永隊員はあのまま行って肉体は吹き飛んだけれども、必ず魂は戻ってくる、こういう約束だったと今頃わかりましたとおっしゃった。だから、結局あとを継ぐ者は鎮魂、御霊を鎮めることがあとに残された者の責務だと思っています」