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2014年5月6日(火)
提言ニッポンの逆説② 戦艦大和が現代に問う

ゲスト

秦郁彦
現代史家
原勝洋
戦史研究家

戦艦大和が現代に問う
島田キャスター
「大変大きな戦艦だということはわかるのですが、戦艦大和のすごさというのはいったいどこにあると見ていますか?」
原氏
「やはり主砲ですね。前部に2基6門。後部に1基3門。これがとてつもない威力を発揮する大砲で、これが当たれば、1発でアメリカの戦艦を沈めると、信じてつくられた」
反町キャスター
「射程はどのくらいで、何センチぐらいの鉄板をぶち抜く能力があったのですか?」
原氏
「東京駅から藤沢まで約90秒で到達するわけです」
反町キャスター
「何キロ飛んでいるのですか?」
原氏
「40(キロ)ちょっと」
島田キャスター
「40キロちょっとを90秒で到達できる?」
原氏
「そうです」
島田キャスター
「それは、どのぐらいの威力があるのですか?」
原氏
「15センチぐらいの鉄板、そういうのを突き破ってしまいますね」
反町キャスター
「そうすると、40キロ離れた敵艦に対して、それを射撃で正射すれば、相手の15センチの鉄板をぶち抜いて、中で爆発して、轟沈させる能力があったと」
原氏
「そうです」
島田キャスター
「現在でこそ、我々は戦艦大和を少なくとも名前ぐらいは皆聞いたことがあると思うのですが、その当時は、内緒だったのですか?」
秦氏
「これは2つのやり方があるんです。アメリカは平時も、戦時中最後までつくっている戦艦や航空母艦を全部、何トンで、いつ進水をしてというのを発表していたわけです、名前も。ですから、日本側としてはアメリカが現在、戦艦が何隻あると。空母が何隻いると。よくわかるという、それはありがたいわけですけれども、日本側は全て非でいくと。国民にももちろん、知らせませんし、議会にも知らせない。要するに、戦艦が何十隻でいくらという、大まかなところで予算を通しますからね。一切発表をしないわけですね」
島田キャスター
「つまり、当時の日本国民は戦艦大和という存在を知らない?」
秦氏
「知らないです」

戦艦大和が造られた背景
島田キャスター
「計画から、最後まで年代を追っていきたいと思うんですけれども、1934年、昭和9年に超弩級戦艦の設計というものが計画されました。1936年、昭和11年に、ロンドン海軍軍縮条約を脱退したことを契機に、翌年、昭和12年、1937年の11月に着工しました。1941年に真珠湾攻撃がありました。このすぐあと、12月16日にできあがり、竣工しましたが、1945年、昭和20年4月7日に沈没したと。こういう経緯をたどったのですが、ワシントン海軍軍縮条約で主力艦が制限されたと。それで脱退したわけですよね」
原氏
「国防の危機を感じますよね。どんどん紙のうえで、撃沈されちゃうわけですから」
島田キャスター
「そうですよね。このへんの日本の心理は?」
秦氏
「とにかく建艦競争がひどくなりまして、特に第一次世界大戦のあと、アメリカと日本とはお互いに競争をし、競争するとどんどん相手より大きい船となる。こういう建艦競争ではたまらないということで日本、アメリカ、イギリス、3か国が中心になったのですが、ワシントン条約を結びまして、その際に米・英10、日本は6と。6割ではいざという時に勝てないと。7割ないとダメだと日本海軍は強く主張したんですけれども、結局6割で妥協しちゃった。これが後に、非常に日本の海軍の部内に不平と不満を生むんですね。6割海軍でいかにして勝つかと」
反町キャスター
「勝つというのは、アメリカ、イギリスに勝つことを当時真剣に考えていたということでよろしいのですか?」
秦氏
「もちろん、太平洋の真ん中で、日米両艦隊がぶつかって決戦をやると。これは、モデルは日本海海戦ですよ。戦艦の主砲で勝負を決すると」
反町キャスター
「それは10、10、6で、英米が10で日本が6の総トン数ですよね」
秦氏
「ええ、総トン数です」
反町キャスター
「日本は、要するに、英米に比べると6割の量の船しか持てない中で、要するに、アメリカ、イギリスの軍艦に勝つために考えられたのが、大和だったのですか?それとも脱退したあとだから、そういう縛りを全く考えずに自由につくっていこうという、その発想の下の大和だったのですか?」
秦氏
「両方ですね。脱退しても国力の差がありますから。アメリカと建艦競争を始めたら、敵わないということを自覚しているわけです。そういうところで出てきた発想が1点豪華主義と言いますか、アメリカが持てないような巨大戦艦をつくることによって、圧倒する。1つの根拠は、アメリカが太平洋と大西洋の両方に艦隊を持っているわけです。いざという時にはパナマ運河を通ってお互いに往来すると。ところが、パナマ運河の幅が最大限38メートルです。ですから、46.3主砲を積んだ戦艦は、どんな設計をしても通れないんです。そこに日本側は着眼しまして、そうすると46.3主砲の戦艦はアメリカはつくらないだろうと。つくれないだろうということで、とにかく1点豪華主義」
反町キャスター
「大和が実際に戦う機会は既にできた時にはなかった」
原氏
「いや、なくしたのは、日本ですから」
反町キャスター
「そうです。真珠湾攻撃で、航空戦で優勢になるということを世界に知らしめてしまったわけですから」
原氏
「そうですね」
反町キャスター
「結果的に、大和ができた時には既に働き場所はなかった」
原氏
「だけど、大和建造者によると大和を開戦に間に合わせるために短縮してつくって、大和が日本の切り札だというつもりでつくったはずですね」
反町キャスター
「世界の3大無用の長物と言われます。戦艦大和、ピラミッド、万里の長城ですよね。大きいけれども役に立たかったのではないかと。既にできた時には、役割を果たす意味がなくなっていたのではないかという意味において、大和か、万里の長城かとよく言われます。このような世間の風評、批判については、どのように感じますか?」
秦氏
「これは半分冗談で言われている言葉で、ピラミッドはわかりませんけれど、万里の長城というのは、北側からのモンゴル人、匈奴の侵入を防ぐのにかなり役立っているんですよ。役立っているからどんどんつくっていったわけでして。ですから、そういう意味で、ちょうど大和ができたのが真珠湾攻撃と同じ月だったというのは、これは非常に不運ですね。だって10年前に大和ができていれば、働き場所は非常にあったと思うんですよ」
島田キャスター
「そうすると、10年遅れでできあがっちゃったと考えたらいいのですか」
秦氏
「こういう巨艦をつくるのは、計画段階から、大和の場合でも、昭和9年から16年でしょう。7年かかっているわけですね。先見の明というのが大事だと言われているのですが実際にはなかなか先見の明では物ごとが進まないこともありますし、日本海軍は、日本海海戦の勝利以来、大艦主砲主義ですね。砲術ですね。戦艦の主砲を撃つという、海軍のエリート将校の発言力が一番大きいわけですね。航空が出てきても、これとのバランスはうまくいかないわけですね」
島田キャスター
「でも、現代を見る目というのか、現在は違うよねということを誰も言いだせなかったということですか?」
秦氏
「そのへんが非常に皮肉な側面もありまして、アメリカ海軍も大艦主砲主義ですよ。真珠湾攻撃までは。(日本は)航空母艦6隻をまとめて使用して、ハワイを叩いたというのは、これは日本海軍が世界で初めてです。成功しましたね。アメリカの戦艦は全部沈んでしまったわけです。ハワイでね」
原氏
「太平洋(艦隊)の方はね」
秦氏
「残ったのは航空母艦だけですよ、アメリカ海軍は。その時点で。否応なしに航空母艦中心にせざるを得なかった。ところが、勝った日本の方は、そういう自覚が十分ではないんですね」

戦艦大和 特攻のワケ
島田キャスター
「1944年6月に日本軍はマリアナ沖の海戦で空母と搭載機に大損害を受けるなど惨敗します。続く10月のレイテ沖の海戦では大型軍艦の大半を喪失。連合艦隊の事実上の壊滅となりました。10月25日には神風特別攻撃隊の敷島隊が特攻に出まして、初めてアメリカ軍の空母を撃沈しました。しかし、戦況は悪化していきます。3月には東京大空襲がありまして、10万人の方々が亡くなりました。4月1日にアメリカ軍が沖縄本島に上陸、こうした中、4月7日に天一号作戦、いわゆる戦艦大和による水上特攻がこのように行われたわけですけれど、優秀な戦艦の大和を特攻させようというようなプロセスというのはどのようなプロセスで決定していったのですか?」
原氏
「それは3月29日、沖縄の作戦をやるよと。天一号作戦というのは航空作戦ですね。それは全てハンコがなければいけませんので、天皇に報告に行くわけですね。それで天皇から、どうぞ次の作戦をしっかりやってくれよと。その時に航空機を主にして作戦をやりますということになって、天皇は、海上部隊はどうかという質問みたいなのがあって」
反町キャスター
「それは非常に重要なところで、昭和天皇が天一号作戦で、航空戦力が行くという、これは、つまり、ほとんど特攻ですよ」
原氏
「そうです。はい」
反町キャスター
「特攻で行く時に、海上の特攻はないのかということを?」
原氏
「海上の特攻とは言わないですね」
反町キャスター
「陛下がお尋ねになったのかどうか」
原氏
「日吉の連合艦隊から、鹿屋に連絡があるわけですね。それは、神参謀という作戦参謀で首席参謀がいる。作戦参謀に実は大和を出撃させるような作戦をたてると。それについては、その船だけかと言われたという名目から、大義を持って説得をしたわけですね」
反町キャスター
「ここは重要なところです。秦さんは、天皇陛下が水上特攻を、陛下がお尋ねになったかどうか。特攻という言葉があったと言いません。水上の攻撃がなかったのかという、陛下のお言葉が大和の特攻の引き金になったかどうか。ここは、どう感じていますか?」
秦氏
「軍の方は、自分達がやりたいと思っていることは、天皇がそれに賛成してくれるかのような口ぶりだと大喜びで、陛下のご意志であるぞと言って、すぐ命令を出すわけだ。気に入らない時は聞かなかったふりをして、さぼっちゃうんです。ですから、ますますわからなくなってくる。この場合もその可能性があります。と言うのは出したくてしょうがないというのが神参謀。豊田司令長官もそうだったと思いますね」
島田キャスター
「そうすると、つまり、陛下が、どんなお言葉でおっしゃったか、現在になってはわからない」
秦氏
「お尋ねがあったと」
島田キャスター
「(軍が)都合の良いように」
秦氏
「そう、都合の良いように」
島田キャスター
「自分の都合の良いように言った可能性もある?」
秦氏
「そうです。その可能性もかなり大きいと思います」
反町キャスター
「神参謀が鹿屋の三上さんに電話をしたのは4月2日ですか、3日ですか」
原氏
「4日です」
反町キャスター
「4日ですか。大和が出撃したのは7日ですね」
原氏
「そうです」
反町キャスター
「3日間で水上特攻の計画書はできるものなのですか。準備をしなければできないでしょう」
原氏
「そうです」
反町キャスター
「と言うことは、神参謀はこの計画を前々から、腹案として持っていて、出すタイミングだけを計っていたのではないか。いかがですか?」
原氏
「そういう可能性はあります。と言うのは出撃準備がまずきますよね。それで大和の伊藤長官、有賀艦長がびっくりしちゃうんですね。突然のことですから。1時間後に今度は出撃が決まっちゃうわけです。準備から出撃の決定までが1時間しかないわけです」
反町キャスター
「軍事行動下においてあるパターンですか?」
原氏
「普通はそういうことはないと思うんですね」
島田キャスター
「伊藤第二艦隊司令長官は難色を示したと聞いていますが、何と言って説得したのですか」
原氏
「それは、出撃する日の午後、草鹿参謀長と三上参謀が鹿屋から挨拶に行くという電話があって、大和の出撃が1時間、2時間遅れるのですが、水上機で来て長官室で、伊藤司令長官に、実は飛行機の空襲も激しいし、大和も持ち堪えられないから、そういう形でもって、沖縄もこうだから出撃してくれと。出撃命令は輸送船の殲滅ですよ、輸送船団の。だから、伊藤長官にしてみたら航空機の援護もなくて出かけていけば、レイテの(二の舞)。これまでの戦訓で戦艦は役に立たないということはわかっているわけですね。そこで連合艦隊の、本当のことを知りたいという形で詰め寄るわけですね。草鹿参謀長に。草鹿参謀長は、心の中では特攻で死んでもらわなきゃ困るという立場で行っているわけですからね、引導を渡しに行っているわけですから、さすがに人間として死んでくれとは言えないわけですよね。それで行き詰まるような情景になったと。その時に、三上参謀の証言で、そこで差し出がましいと思ったのだけれども、実は大和は沖縄の陸上に乗り上げて陸営になることまで考えているんですよと」
島田キャスター
「乗り上げる?」
原氏
「それは不可能ですが、そういうつもりで死んでくれということなんです。だって、戦艦が陸上に乗り上げることはないわけですから。言った時すかさず、それは何やかんやとよく了解をしたと。要するに、我々は死に場所が与えられたのだという決断になるわけですね」
反町キャスター
「1億総特攻の先がけになってほしいと、もし言ったとしても、たとえば、もともと大和というのが完全な軍秘、機密だったわけではないですか。存在するも、認知されていないものが、特攻に行ったということで、たとえば、先がけになるということは、大和が神となって沖縄に突っ込んでいったということを、当時の新聞が報道できたのかと。できないでしょう?」
原氏
「できないです。戦艦1隻の沈没でなければ書けないです」
反町キャスター
「そうでしょう。それすらも書けない状況の中で先がけになってほしいというのは、たとえば、国威の発揚とか、国民意識の高揚に向け、お前、頼む行ってくれとなったとしても、それは誰にも知られない特攻なわけですよ」
原氏
「そうです」
反町キャスター
「それは作戦として意味があったのかどうか。いかがですか?」
原氏
「だから、先がけになっていただきたいという言葉は、僕は一生懸命に大和のことを書いていますけれど、1つも載せていません。言われていないから。三上さんの言葉を、とつとつと語っている三上さんの心情に、嘘はついていないと思うし、もしそこで言ったのならば、そういう言い方をしたと思うんですね。だから、僕としては、そういう言葉をあの場において言ったことはなかったと思います」
秦氏
「公的な記録として残っているのは、豊田連合艦隊司令長官の訓示なんですね」
島田キャスター
「『皇国の興廃は正に此の一挙にあり、ここに特に海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、帝国海軍力を、この一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚すると共に、その栄光を後昆に伝えんとする外ならず』という言葉ですよね」
秦氏
「これは全艦隊の上から下まで訓示は伝えられているわけですね。ですから、これが連合艦隊としての正式の、いわば、告別の辞と。壮行の言葉と書いてありますけれど、実態は告別です。海上特攻隊という言葉を使っていますので、これは暗に帰ってくる予定はないんだよということを示したと言っていいと思うんですね」
反町キャスター
「最後の水上作戦です。最後の燃料で最後の船で最後の戦いを仕かけるという、それに向けての言葉だとしたら、これは事実上の最後のものだからという、その意味の言葉にしか見えないのですが、どう感じますか?」
原氏
「もちろん、伊藤長官が感じたように、死に場所を与えられたと。これが結論だと思いますね」
島田キャスター
「死に場所を探していたのですか、この時」
原氏
「だから、大和をどのように使っていいのかわからなかったんです」
反町キャスター
「そこですよ。つまり、連合艦隊とか、帝国海軍は、大和の使い場所が最後までわからなかった。そういうことですよね」
原氏
「わからなかったんです」
秦氏
「そうです」
反町キャスター
「そこで、迷っていた節というのは、何か感じる部分はありましたか。大和を日本が負ける中でどう使ったらいいのか。使いどころが、最後までわからなかったのですか?」
原氏
「と思いますね」
島田キャスター
「大和を持ち続けるという選択肢はなかったのですか?」
秦氏
「ええ、これは19世紀から、イギリス海軍、その他で世界的な考え方になっているのですが、フリート・イン・ビーイングという言葉があるんです。存在する艦隊と。それは戦わなくて、存在しているだけで相手に脅威を与える。それから、講和条約とかの発言権にもなるし、賠償の対象にもなるわけです。いろいろな使い道があるわけですね。ですから、日本海軍も当然フリート・イン・ビーイングをしていたわけで、実際大和も武蔵も、昭和18年の末までは、大和ホテルとか、武蔵御殿と水兵さん達は冗談で言っていたぐらいで。やることがなくて、泊地で、ただいたというだけですね。まさに、フリート・イン・ビーイングですよ。しかし、アメリカ軍にとっては、どこで大和が出てくるかというのは、やはり異常な脅威感は与えていたとも言えますよね。佐世保あたりに置いておいて、睨みを効かせると。いつでも出られるよという構えをしておけば、威嚇になると。これが1つですね。もう1つは、舞鶴あたりに持って行って、とにかくそこでじっとしていてもらう。次は、浮き砲台です。港に横づけになって、だけど、人員は陸に上げて、砲台にしちゃうという。実は伊藤司令長官は部下の意見も聴して、この案をまさに連合艦隊に上申しようとしている時に、突っ込めという(命令が来たんです)。ですから、これは伊藤長官の非常に意に反して、部下の艦長達も、皆行くならば、連合艦隊司令長官が先頭になっていくのなら、わかる。と言って、大変皆さん、最後の時に荒れたようです」

戦艦大和 乗組員の覚悟
島田キャスター
「臼淵大尉の言葉が印象に深いということですが」
泰氏
「若手士官の部屋の室長をやっていたのが臼淵大尉なんですね。室長と言っても、まだ21歳です。まだ大学卒の年齢にならない。若手士官の部屋の多数は学徒出身者ですね。彼らは、助っ人だという意識がありますから、いよいよ明日突っ込むんだという晩に皆荒れるんですよ。なぜ成功しないとわかっている滅茶苦茶な攻撃をやるのだと言って轟々たる議論になるわけです。臼淵大尉が最後に、彼としてはこのままではいけない。何とか静めて彼らの気持ちを1つにまとめなければという意識。もう1つは、自分も一個人としてはどう考えているのか。これは彼の本音だったと思うんですね。つまり、こうとでも言わないと必ず死ぬ3000人の特攻の意義というものを見出せない。しかし、これでどうだろうと、おとなしく彼が切り出すと皆シーンとなる。これで皆一応納得をしたということですね。ですから、私は臼淵大尉のこの言葉というのは戦後の日本の生きていった姿と重なり合って見えることがあります」
反町キャスター
「水上特攻に行くことについての想いについては、若い乗組員の間ではどういう意見があったのですか?」
原氏
「一番印象に残っているのは、結婚していまして子供がいる松本繁太郎さんという機銃の指揮官ですけれど、この人は特攻と言われてチラチラ奥さんの顔が浮かんで、なかなか特攻という気持ちになれなかったと。それで出撃しまして、副長が甲板に集めて訓示を述べるんですね。その時、海ゆかばとかの軍歌を歌った時に、2000人ぐらいの方が甲板にいるのですが、全員がボロボロ泣いたらしいんですね。その時にやっと特攻に行くんだと腹が決まったという」
反町キャスター
「航空機による特攻の場合には、遺書を書く時間がありました。大和の皆さんも書いたのですか?」
原氏
「はい、書きました。もちろんです。書く人と書かない人がいました」
反町キャスター
「書いた遺書は出航後ですよね?」
原氏
「4月6日10時が締切りですから、それまでに書けば。お金を入れたり、出したりする人はいますよ」
反町キャスター
「全員が船に乗って行ったのではなく降りた人達もいるという話。それはどういうことなのですか?」
原氏
「出撃が決まる3日前に少尉候補生が乗艦するわけですね。廃止が決まりました。そこで死に方用意とかが甲板に出ているので、俺も戦うんだという気持ちになるわけです。すぐに出撃命令がきて、給油するんです。それを新米ですから、見張れと言われている間に急に予備仕官は館長室に来いと言われ、君らは降りてくれと。普通は海軍省の人事なのですが、第二監隊内部ならば司令長官が(人事を発令)できるので、3日しかいないし、役に立たないということで、伊藤長官と有賀艦長と参謀と話し合って降りることに決まったんです。50名ぐらい」

戦艦大和が残した教訓
島田キャスター
「大艦巨砲主義を修正できなかった根本にあるものは」
泰氏
「近代戦を遂行する資格の重要なポイントを日本は満足させることができなかったと。それが非常に惨めな敗戦になった」
反町キャスター
「重要なポイントとは何ですか?」
泰氏
「進歩が見られないという、これは臼淵大尉が指摘したのはまさにそうだと思うんです。だから、臼淵大尉ではない他の海軍のもうちょっと上の中堅の少佐、あるいは陸軍ですら同じようなことを僕は見たり聞いたりしたのですが、要するに、陸軍も海軍も何を言っても組織が動かない。これをどうするかということで、いったんこれは負けて壊して立ち直るということでなければ、どうにもならないという絶望的な言葉を吐いた人は何人もいるんです。戦争というのは国が生きるか死ぬかですから、平時の10年分ぐらいは革新が行われて、軍事思想もそうだし、兵器もそうですよね。ところが、日本の場合は、これが進歩しないでむしろ退歩に向かっていた。1つ1つを直していっても全体が衰弱しているとどうにもならない。それが『進歩のない者は決して勝たない』実感だと思うんですね」
反町キャスター
「臼淵大尉の言葉は現在の日本に活かされていると思いますか?」
原氏
「僕にとっては活かされていますけれど。僕自身は感化を受けて、大和の沈没から誕生から、歴史背景を一生懸命やるということの励みにはなりました。だから、そういうことに夢中になっているから、一般の人のことは良くわからないんですけれど、この言葉は本を読んだ方は全て自分なりの解釈で励みにしている言葉ではないかと思いますね」
秦氏
「問題はどういう教訓を汲み取るかということであって、教訓の間違った取り過ぎというのも一方にあるということですので、そういうことも考えながら、考え直してみるということでしょうか。しかし、これだけの大きな敗戦。全ての価値体系が変わりました。臼淵大尉が期待して、『敗れて目覚める』というのが全日本的な1つの現象としてあったと思いますね。その意味では1945年以降高度成長を遂げましたけれど、これに匹敵するような『敗れて目覚める』機会はきていないのではないですか」

戦艦大和 決断の責任
島田キャスター
「総司令部の決断の責任は問われたのですか?」
泰氏
「いかにも日本的な、現在も同じだと思うのですが、大きな失敗があっても、徹底的にその責任者が誰であるかということを追求するということはやりませんよね。この前の東北の大震災でも結局わかりませんよね、漠として。これは連綿として続く日本の責任のとり方。官僚は常にいろいろな解釈があるけれども、2年に1回ぐらい必ず変わるんですよ。なぜそうなっているかと言うと、責任者を出さないためだといううがった見方があるので、私は確かにそれは当たっているねと。問題になって大騒ぎになった時には、それは前任者か前々任者ということになっている。お仲間が調べても、なるべく傷を負わせないようにということで、この無責任体制というのはプラスの面もあるのでしょうけれども、マイナスが非常に日本の運命に響くという、そういう時にそういうことが起こらなければいいなと私は念じています」

現代史家 泰郁彦氏の提言 『”物づくり日本”の代表選手』
秦氏
「大和が戦後の日本に遺した遺産と言いますか、いろんな見方があると思うのですが、これは日本のモノづくりの技術、職人精神。そういうものの塊でもあったという側面に私は注目したいと思います。日本のモノづくりの強みは、ごく平凡な職人が極めて高度で精密な機械をどんどんつくっている。これは外国の人達にとっては、非常に脅威らしいんですけれども、大和は日本の伝統的な技術の結晶だった。その職人精神は現在も引き継がれて、造船や新幹線とかに活かされているわけですけれども、現在も健在であるということに1つの意義を見出しています」

戦史研究家 原勝洋氏の提言:『現在によって生かされた大和と対話』
原氏
「学生時代の試験に出たE・H・カー『歴史とは何か』の現在と過去の対話であるという言葉が僕の中のキーワードになっていますので、これに基づいて大和も勉強しているわけなんですね。だから、大和の誕生も現在も、当時のものを対話させながら、いろんな資料を漁るというのをキーワードにしていますので、(対話をすると)類似したことがたくさんあります」